こんにちは、多聞です。

 

少しありきたりなテーマかもしれませんが、

 

 

今日は「幸せ」について書いてみたいと思います。

 

私は子どもの頃から、「幸せ」という言葉を何度も耳にしてきました。

けれども、幸せとはいったい何なのか、はっきりと教えてくれる人はいませんでした。

 

もちろん、幸せというものが、それほど簡単に定義できるものではないことは十分理解しています。

ただ長い間瞑想を続けてきた中で、無駄ではなかったと思えるような気づきがありました。

 

今日は、私が感じ、考えている幸せについて書いてみようと思います鉛筆

 

 

 

記憶をたどってみると、最初に思い浮かぶのは高校生の頃のことです。

 

私が通っていた高校は高台に建っていて、学年が上がるにつれて、

教室も上の階へと移っていく造りになっていました。

 

高校三年生のとき、私たちの教室は校舎の最上階にありました。

私はもともと窓の外を眺めることが好きで、

しかも席が窓側だったので、私にとっては申し分のない場所でした。

 

その日も、いつものように窓の外を眺めていました。

ちょうど日が沈み始める頃でした。

 

青い空に浮かぶ雲が、少しずつ赤く染まっていきましたくもり

私は授業中であることさえ忘れ、その光景に引き込まれるように、ただ夢中で見つめていました。

 

そのとき、これまでどんなことをしても感じたことのない、

深い至福感に包まれたのです。

 

その感覚を言葉で表すことはできません。

まるで天上の世界にしか存在しないような幸福感、とも言えるものでしょうか。

私はそのとき、確かにそのような感情を受け取ったのです。

 

あまりにも強烈な感情だったため、

私は長い間、あの感覚こそが幸せなのだと思っていました。

 

ですが、それから何十年が過ぎても、同じような感覚を味わうことはありませんでした。

 

そして次第に、あのとき感じたものは確かに幸せではあったものの、

私が後になって知ることになる「本当の幸せ」とは、少し異なるのではないかと思うようになりました。

 

私が瞑想を始めたのは大人になってからです。

瞑想を続ける中で、少しずつ分かってきたことがあります。

 

 

本当の幸せには、条件がないということです。

 

 

ここですべてを説明することはできませんが、

私は、自分が存在していること自体が幸せなのだと気づきました。

 

ただ、私たちは皆、この世に存在しているからといって、いつもその幸せを感じられるわけではありません。

もちろん私自身も、そのことに気づくまでは、まったく知りませんでした。

 

「それでは、自分が存在しているというだけで感じられる幸せは、

いったいいつ手にすることができるのでしょうか。」

 

私自身の経験から言えば、それは、身体と心が本当の意味で自分自身のものになったときです。

 

こう言うと、疑問に思うかもしれません。

 

「自分の身体も心も、最初から自分のものではないのか。」

「自分自身のものになるとは、どういう意味なのか。」

 

よく考えてみてください。

 

これまで、自分の心が思いどおりになったことは、どれほどあったでしょうか。

 

自分の心でありながら、自分の意思では

どうにもならなかったことのほうが多いのではないでしょうか。

 

例えば、私たちは、憂うつになりたくて憂うつになるのでしょうか。

本当は憂うつになりたくないのに、気分が沈んでしまう。

そして、どうしようもないと思ってしまうことのほうが多いのではないでしょうか。

 

前の晩に「明日は早く起きよう」と決めて眠っても、朝になれば、もう少し眠っていたいと思ってしまいます。

 

このように、自分の意思では思いどおりにならない心の動きを、仏教では「煩悩」と呼びます。

 

つかもうとしてもつかめない影のように、

心というものも、なかなか思いどおりにはなりません。

しかし、練習を重ねることで少しずつ整えられていきます。

 

 

心が少しずつ整い始めると、

自分の中にある「本来の自分」も、次第に大きくなっていきます。

 

 

その本来の自分を感じられるようになると、そこには、感情の浮き沈みとは異なる、

静かな明るさがいつも存在していることに気づきます。

 

そして、その明るさの中にいるとき、私たちは幸せを感じるのです。

 

ここまで多くの言葉を重ねてきましたが、この文章を読んだだけで、

私が語る幸せを感じることは難しいかもしれません。

それでも、この文章が、皆さんにとって幸せへ向かうための小さな手がかりになれば嬉しく思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。