志村鉄一碑顕彰保存会主催の慰霊祭
毎年、盂蘭盆の8月16日、TSUBAKI札幌ホテルに隣接する豊平川緑地に建つ「札幌開祖志村鉄一碑」の慰霊祭を挙行している。
本年も、慰霊祭を8月16日午前11時から碑前にて挙行準備中である。
志村の慰霊祭が行われるようになった経緯に付いて説明しましょう。
写真:現在の碑文・・・最近までの歴史探求により史料で判明した最新のものに修正した碑文である。
札幌開祖志村鉄一碑由来の記
氏は信州の剣客にて石狩調役荒井金助氏招きに応じ安政六(一八五九)年には永住していた。幕命をうけて豊平川渡し守となり駅逓を兼ねる。この地より約百二十米川下が氏の住宅の遺跡なり。
この碑は太陽十年当時の北海道庁河野常吉氏が発起人代表となりその場所に建立されたものであるが、新豊平橋完成にともない昭和四十二年七月に市が橋台小公園に移転安置せるものである。
尚この碑の筆跡は当時の北海道帝国大学
総長 佐藤昌介氏お揮毫せるものである
昭和四重二年八月
札幌開祖志村鉄一碑顕彰保存会
平成二十九年十一月 碑文の一部を修正し新しく設置した。
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碑文修正前の伝聞資料
参考資料1
昭和62年8月16日、慰霊祭において当時碑保存会顧問 高木唯雄氏が挨拶(講演)した内容を聴講していた一般市民が録音、テープを起こして文章化し札幌市文化資料館(現 札幌市公文書館)に提供されたものの写しを歴史研究家中川昭一氏がいただいた文書である。
札幌開祖 志村鐡一翁について
私は、ご紹介のありました高木であります。
札幌開祖、志村鐡一翁につきまして、歴史の歩みを御紹介させて頂きます。
※安政4年、時の石狩調査役 荒井金介の招きに応じ、幕命により、豊平の渡守兼駅逓となり現在の2条通りの突き当り辺に宿舎を建て、旅客用の寝具膳椀等20人前を支給され、志村親子3人が入植、間もなく、志村一人では寂しかろうとの思いやりから、亀谷氏の従者、茂八に対岸即ち、中央区に茂八親子3人と居候の三平爺さんの計4人が志村鐡一の助手を申し付けられ、計2戸7人が札幌開拓の祖で最も古い先住民あることは皆様が御承知の通りであります。
以来、安政、万延、元治、文久、慶応、明治、大正、昭和と年を重ねて今年は130年目の大きな節目を迎えた訳であります。
この節目のお祭りと志村翁の労苦と130年の永い歳月を振り返り、教育委員会文化資料室等の皆様の御協力を頂き、他多数のマスコミ、地元有志の協賛を得て、本日ここに祭典と法要を兼ねた式典を催すことが出来ました。
誠にせん越ではありますが、志村鐡一碑、吉田茂八碑の顧問を仰せつかり、多年お世話をさせて頂いております私、高木唯雄に少々時間をいただき今昔の移り変わり申し上げて法要とし、開拓130年目を迎えて、2戸7人から今や158万の日本の5大制令指定都市に名実共に成長した今昔を振り返ってみたいと考えます。
現在の5号線を札幌新道と呼び36号線を千歳街道と申しまして、往来する旅人のネックとなっていた豊平川は、支流が蛸の足のように広がり、豊平と対岸の間に大きな中州があり、高田別院の前まで支流があって、この中州に太い丸太を立て豊平側からと中央区側からコクワヅルをつなぎ合わせて丸太に結びつけ、このコクワヅルをたぐって渡し舟で旅客を中州まで渡し、大声で対岸に連絡して互いに旅人の受け渡し行い、明治4年木橋が架けられるまで渡し守は居りましたが大水が出る度に木橋は流失したので事実上は明治6年ころまで渡し守は残されていたと古書にあります。
その後、護岸工事も整備され大正13年鉄橋となり、昭和41年現在の橋となり昔を偲ぶよすがは何処にも見当たりません。
志村鐡一はその後明治維新政の官吏が幕府を滅亡させた薩長の連中であった為、反骨精神の強い彼は、命令に素直に服せず、一時罷免され、その子が改めて任命されたり亦、その後妻子を失って孤独の不満やる方なく酒でうさ晴らしをして、時にはけもの道をさ迷って定山渓に定山坊を尋ねたり、汗して切り開いた豊平2条~3条辺りの畑地を初代阿部与之助さんに買い取って貰い又、渡し守をやめてから流送してきた原木の陸揚げの手伝い等をし、最後は宿舎のあったあたりに掘立小屋を立て、一人で住み猛吹雪の夜に往生したと、今は故人となられた阿部トヨさんが初代阿部与之助さん夫婦から聞かされたと、私に話して下さいました。
この間、望卿の愛恋に涙して、どぶろくを一人で飲み、愛刀を引抜いて紫電一閃郷愁を切りウップンを晴らし孤愁に耐えました。
亦、幕政時代日本一と称する剣客、明智佐馬之助が何人かの友人と一緒に翁を尋ね試合を申し込んだが幕吏なので断った。
翌日宿代を払わず立ち去ろうとしたので、請求した翁に、「泊ってやったのを有難いと思え」と、数貫目の鉄棒を振り回してあばれたが、志村翁にたたき伏せられ「日本は広い、恐れ入った」と宿代を支払って立ち去った等のエピソードがあります。
前人未踏の樹林は、蒼穹を仰げども見えず、まばらな旅客の暇にはエゾ鹿・野兎を追い宿舎のまわりを切り開いて、秋ともなれば遡上する鮭を手掴みで等して明け暮れを送り、誰一人の看護する者とて無く昇天した翁には親族も見当たらず、後年 ※同じ信州出身の伏見稲荷神社、野村宮司が不遇の中で世を去った志村は不憫であるとの事で現在の碑文を大正10年現在の2条通り堤防に建立、豊平川河川課より13坪敷地を無償で貸し与えられたと聞いています。
その後、碑文の真向かいに住居した福井志乃ぶさんが経王寺さんに頼み毎年8月16日に供養を続けられ、私が現在に移転したので事情の説明を受け 亦福井さんの懇請もあり、昭和26年から志村講を造り、主に1分区の有志と私の知人達に会員となって頂き、私が会長となり、お祭りは30人~40人で、他は経王寺さんの方々がウチワ・タイコをたたいてお参り、直会等は総て私の家で現在地に移転するまで行い、現高橋会長にお願いして志村鐡一碑保存顕彰会と名を変え盛大に幅広く法要が行われる様になり碑文建立67年(※注〉平成29年(2017年)で107年目)のお祭りが本日であります。泉下の翁はいか程か喜んでおられるでしょう。
又対岸には吉田茂八翁の碑文も遺族の熱心な懇請に動かされ、私は5ケ年の準備期間を費やし、ついに現地に板垣武四市長の直筆で札幌開祖吉田茂八碑が建立され、両渡し守は豊平川をはさんで向い合って対面、7月21日法要を終わりました。
130年前に2戸7人と名もなき先住者の蒔いた種は立派に実を結びました。
その過程を文化資料室の植西さんや教育委員の皆様にお聞きした事を少々お話して参列下さいました皆様方の参考の一助と致したいと存じます。
明治と年号が改まり、島判官・岩村判官、又 道区長正式には道政区長兼署長津島氏が任命され、その後は札幌他9郡々長兼札幌区長と称され、明治11年頃第一大区長となり明治32年頃までその名が残り、札幌市となったのは大正11年、翌12年正式に初代市長高岡さんが任命され、それまでの前任者は札幌常駐でなかった様で、この間6名の区長がおりましたが何れも常駐はされて居なかった様です。
初代からは官選市長が続き、昭和23年から公選市長となり7代目が現在の板垣武四市長さんで、昭和47年には冬期オリンピックを札幌に招致し、札幌は一躍世界に知られる都市となり人口も今や150万を越し名実共に豊かで緑と花の街として中国を始め諸外国に友好都市を持ち、我ら市民の切なる要望に応えて、一時5選を断念されたのを思い止まり、168万市民の為、古希過ぎて尚カクシャクたる青年の如き情熱を傾注して、市の将来の為、日本の為21世紀を展望しながら日夜働き続けられております。
日本中にこんな立派な市長さんは外にない。
私共市民は、お陰様で世界で一番住み良い諸条件に恵まれた文化都市で幸せな暮らしをさせて頂き、先人の苦労もさる事ながら板垣市長に全幅の信頼と感謝する次第であります。
どうか胸中に画いた市政を任期中に完成する為にも御健康でご活躍されん事を、御お祈り申し上げ、任期満了後は、3年前私にお話し下さった様に、御自分の余生をこの札幌で思いのままに生き、同時に後任者にアドバイスしながら溜まったストレスを全部はき出して長生きして下さい。
一雑草の私し(私)ですが皆様に変わって(代わって)深く御礼を申し上げて130年の節目の言葉とさせて頂きます。
少し長くなりましたが130年前の昔を偲び拙い短歌一首、朗詠させて頂きます。
こくわずる、たぐりて渡船に竿させし、
昔を今に写す川水
昭和62年8月16日 棋詩楽山 高 木 唯 雄
