樋口季一郎 スターリンに北海道占領を断念させた男 | dai4bunkuのブログ

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樋口季一郎

北海道や当時日本領だった南樺太、千島列島の防衛担当の司令官。終戦の玉音放送が流れた昭和20年8月15日以降も侵攻するソ連

軍に自衛戦で挑み、スターリンに北海道占領を断念させた。

 

 豊平神社の旧社号標は、二本残っている。「郷社 豊平神社」と刻まれているものがある。

 側面に「陸軍中将・樋口季一郎」の名が刻まれている「郷社 豊平神社」の書は、樋口が揮毫したものである。

 昭和18年に郷社に昇格したときに造られたもので、当時、北部軍司令官であった樋口季一郎に揮毫を依頼したものと考えられる。

 令和6年5月1日「豊平神社百四十年史」参照。

 

 令和6年6月29日の北海道新聞に樋口季一郎の特集が掲載された。樋口が暮らしていた建物は現在「つきさっぷ郷土資料館」となっている。資料館には、樋口季一郎に関連する展示品も残されている。

 

 

 樋口と言えば、ソ連による「北海道分割」を阻んだ決断をした人物として知られている。

 孫にあたる樋口隆一・明治学院大名誉教授は、クラウドファンディングを今夏にも始め、道内に銅像を建てたいという。

 

☆    ☆    ☆

 

             北部軍司令官時代の樋口(昭和18年頃)

 

樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。

 

 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認め、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。

 

 大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦いソ連対日参戦に対する抗戦(樺太の戦い、占守島の戦いなど)を行った。

 

軍歴

1909年、陸軍士官学校(第21期)に進む一方で東京外語学校でロシア語を徹底的に学ぶ。

 陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校(第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満洲、ロシア(ソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。

 

 1925年、公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭(後年の首相)に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。
 

 1937年(昭和12年)12月26日(作家相良俊輔の書いた樋口の伝記『流氷の海』では1938年1月15日とされている。)、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。

 

 この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。

(この頃は、まだナチもユダヤ人絶滅を具体的な施策として考えていたわけではなく、単に自領からのユダヤ人追放を企図していただけで、また、日本側にはユダヤ資本とユダヤ人を満洲国に導入できないかという河豚計画があった。)

 

 そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、何千人というユダヤ人(人数については諸説あり、数字は樋口自身の遺稿による。)がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。

 

 しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満洲国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。

 

 極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、部下であったハルビン憲兵隊特高課長の河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。

 更には膠着状態にあった出国の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満洲鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた。

 しかし、この具体的内容については異説も多いほか、そもそもこのようなことが実際にあったのかを疑問視する声もある。

 

 樋口の孫である樋口隆一によれば、1970年、樋口の死の直前に日本イスラエル友好協会(現在ある日本イスラエル親善協会とは別の組織。)の顧問となっていた前述の河村愛三が訪れてきて、おそらくそのときに同協会の名誉評議員とされたことを伝えられたとし、樋口の告別式には日本イスラエル友好協会の会員らも出席、同会代表の加藤大弦や後に樋口から手記を託されていて後に伝記を出版する作家の相良俊輔にも取材した当時の朝日新聞の記事では、1938年2月オトポールにユダヤ人2万人が足止めをくい、20人の凍死者が発生、樋口が12両編成の特別列車を13本仕立て、ハルピンに送り、食事も避難宿舎も提供した、その後これがドイツから問題とされたが、樋口はこれに人道上の問題と反論、当時の上司であった東条英機もこれを支持した、このことは日本では軍事機密とされて知られることがなかったとして、紹介された。

 

異説・異論

 しかし、当の樋口の回想録ではいずれとも幾分異なっていて、1937年秋か1938年春にヒトラーが多数のユダヤ人を追放することがあり、わずかな荷物と少額の金銭のみのユダヤ人数千人(1971年の最初の回想録初版では、2万人とされていたが、樋口本人の遺稿では「何千人」となっていることが指摘され、復刻新版では訂正されている。)が足止めを受け、満州国外交部ハルピン代表部の日本人官吏と協議、人道上の問題として意見が一致、あとは満州国で話が進み、彼らの入国が許されたとし、特別列車や食事・宿舎提供の話はない。

 また、その半月後、ハルピンのユダヤ人協会のカウフマン博士らがこの件を勝手に樋口の指図によるものと思って自身への謝恩大会を開いた、はじめ樋口はドイツと日本の外交関係にも気遣ったスピーチをするつもりであったが、あまり称賛されるので気を良くして、ついユダヤ人の優秀さを誉め、ドイツの反ユダヤ政策を批判するスピーチをしてしまった、ドイツ政府が問題としたのは、このスピーチのドイツ政策批判の部分であったとしている。

 

 これらの主張に対し、イスラエルのハイファ大学の日本研究家であるロテム・コーネル教授は、

①樋口によって助けられたと証言するユダヤ人がいない、

②オトポール事件について十分な内容の資料は結局は樋口自身の遺稿のみである(なお、ユダヤ教ラビで極東ユダヤ人社会の中心人物の一人である上智大学心理学者のビクター・ソロモン教授は、この話を樋口の死後に初めて聞き、1971年1月に記者公開のもとで、樋口の遺族、先の樋口の元部下である河村を含む日本イスラエル協会関係者らを招いて、彼らから話を聞く会を催した。そこでは樋口の遺稿が読み上げられ、ソロモン教授からは、この事件について資料を持つ者がいれば連絡するよう募られている。)、

③ユダヤ人の国外脱出が激しくなったのは1938年の「水晶の夜」事件以後で、1938年には数十人程度の満州移動しかなく、また、彼らは移動中に別段困難な目には遭っていない、

④カウフマンは別に樋口がこのような形でユダヤ人救援を行ったことは語っていない、

⑤この問題を取上げる動きは東条英機の再評価につなげようとする近年の歴史修正主義の動きとつながっていることを指摘している。

 

 これに対し、一説では、この移動経路はユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたともされ、2万人とは、この経路をたどった避難民の数ではないかとする主張もある。

 このルートの通過者は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満洲里経由で満洲へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている。

 また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。

 そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5人あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという。

 

 満州経由で諸外国に脱出したユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるともいわれていた。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」と語られている。 オトポール事件で2万人のユダヤ系難民が救われたと戦後主張されるようになったことには、白石仁章はあまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視している。 松浦寛はこの2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものとしている。

 

  早坂隆は、樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘している。

 早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している[。 松浦寛は当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計を追認している。満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという。

 

 当の救済実務に関係した元ハルビン憲兵隊特高課長の河村愛三元少佐への取材によると考えられる『日本憲兵正史』(1976年)には、あくまでカウフマンの友人はかねてから諜報活動で知り合いであった河村愛三元少佐であり、河村がカウフマンから連絡を受けて、河村が樋口に知らせたものとした上で、500人のオトポールの村で2万人が足止めを受け、前章「オトポール事件」にある多数の、具体的な数の列車車両、救済施設と大量の救済物資を用意したこと、しかし 

 これは軍事機密とされたため世間には一切知られなかったことが書かれている。

 

 樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。

 そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している。

 

 オトポール事件が実際に起こったとする説では、ドイツ政府政策批判の方なのか、オトポールでのユダヤ人救援行為の方なのか、ともあれ樋口の行為が日独間の外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いたとされる。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった。

 

 そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのお先棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる。

 この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問としたとされる。東条の判断と、その決定を植田司令官も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴したとされる。

 

ゴールデンブックをめぐる問題

 ゴールデンブックをめぐっては、樋口自身は回想録において、以下のように語っている(なお、樋口の回想には、樋口自身のロシア語会話での誤訳による誤解や記憶違いがあることが考えられる。)

 

 1938年にハルビンから東京に戻った後、ハルビンからユダヤ人スキデルスキー他1名が来て、ニューヨークに本部がある世界ユダヤ人協会が、エルサレムユダヤ教の総本山にある銀本に樋口の名を記すことを決定したと伝えられたとする。

 そこでは、銀本はユダヤ人のために功績のあった非ユダヤ人の名を記すもので、バルフォアの次に樋口の名が記されるとし、金本はメンデルスゾーンのようなユダヤ人の傑出した人物の名を記すもので今ならアインシュタインのような人物が候補になるだろうと言われたとする。

 

 回想録の出版にあたって同書の編者が確認したところ、イスラエル大使館の調査で「ユダヤ民族基金」のゴールデンブックの第6巻に登録されていたことが判明した。

 これは、ユダヤ人国家建設運動を行っていた同基金が、土地買収や植林事業の資金を得るために始めたもので、ユダヤ人が家庭の祝い事で、同基金に金銭を支払って、家族や友人の名を公に陳列される本(豪華な装丁の巨大な本である。)に記してもらい、その名が記載されたことをもって相手へのプレゼントとするものである(現在は、陳列されている施設で、ケース内の実際の本と仮想ブラウジングで中のページを確認できる。)。

 

 ハイファ大学のコーネル教授によれば、数多くのユダヤ人が息子や友人の名を記してもらっていて金銭支払以外に特段の条件はないとのことで、ハルビンのユダヤ人協会代表のカウフマン博士らが、ハルビンの特務機関長で権力者であった樋口の歓心を買うため、協会から「ユダヤ国民基金」に寄付をする際、名前を記してもらったのだろうとみている。ちなみに、日本では、日本人で名前の記されているのは樋口と安江仙弘の二人のみだと語られることも多いが、この安江は大連の特務機関長であった人物である。

 歴史家の秦邦彦はゴールデンブックをユダヤ人に貢献した者の名が記される本だとした上で、雑誌『正論』1989年9月号に、先の二人に加えバルフォア宣言を支持した内田康哉元外相と戦後に親イスラエル運動をした手島郁郎の計4人の名が記されていると述べている。

 

 1970年の樋口の告別式に出席した日本イスラエル協会理事長の加藤大弦が朝日新聞の取材に対してゴールデンブックをメソポタミアにある碑と語る、相良俊輔の小説『流氷の海』ではエルサレムにある大型の本の形をした黄金製の碑であると述べるなど、日本ではこれを碑とする誤解も多い。

 

 孫の樋口隆一(明治学院大学名誉教授)は2018年6月15日にイスラエルのテルアビブにある「ユダヤ民族基金」本部をゴールデンブックを見るために訪問、「栄誉の書」の管理人エフラト・ベンベニスティらから同書に「樋口将軍-東京、在ハルビン極東ユダヤ民族総領事アブラハム・カウフマンが記す」と記載されていることを示され、その証明書を授与されている。樋口隆一はそのとき、樋口とカウフマンの名が並んでいるのを見て、「二人は良い友人だった」と言って喜んだ。

 

太平洋戦争

 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦翌年の1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。

 日本軍が重要視していなかったアメリカ領のアリューシャン方面の戦いも、1943年に入るとアメリカ軍が反攻に転じ、激しい争いが行われた。

 

 1943年5月に樋口の指揮下にあった陸軍部隊のうち、アラスカ準州のアッツ島守備隊は玉砕した。

 大本営がアッツ島守備隊の増援要請を拒否しアッツ島守備隊を見捨てることを決定したとき、一説には、樋口は守備隊を見捨てるとの決定に激怒したとするものもあるが、かといって、守備隊の降伏を認めるといった措置を取ろうとした節などは一切見られない。

 かえって北方軍司令部はアッツ島守備隊に対し、米軍相手に善戦し玉砕する覚悟を望むとの電文を送っている。

 アッツ島守備隊の山崎隊長からは、負傷者の処分を終え、玉砕するとの返電があり、その言葉通り、アッツ島守備隊は玉砕した。戦後に樋口が防衛庁戦史室に出した手紙では、これを世界戦史上稀有のことと賞賛している。

 

 キスカ島は、海軍が守備担当の地域であったが最終的にはアッツ島から陸軍部隊が移駐され、ほぼ海軍部隊と同数近い部隊が存在していた。

 陸海軍将兵らのキスカ島撤退は成功している。

 キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要望に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した。

 帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視していた。撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、問題になったともされ、とくに陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという。

 

 同年10月2日には、札幌三越で開催された「忠烈山崎部隊景仰展」会場を訪問し、藤田嗣治の戦争画『アッツ島玉砕』に見入った。1944年3月10日に、北海道に拠点を置く第五方面軍司令官を務め、南樺太や千島列島を担当地域に置いた。また1945年2月1日には兼北部軍管区司令官に就任した。

 

対ソ連占守島・樺太防衛戦と戦後

 もともと北部軍では対ソ戦を主に戦略が構想されていたが、太平洋戦争半ば頃から対米戦を主と考え、とくに米軍が直接に北海道に来ることを樋口は懸念していた。

 樺太の第88師団では侵攻が近いとみて札幌の第5方面軍に具体的な作戦指導決定を再三求めていたが、方面軍では従来からの対米戦中心のために、7月に入っても樋口司令官・幕僚以下真剣に考えていなかった節があるという。

 戦後20年近く経った1964年から1965年にかけて樋口自身が防衛庁(当時)の戦史室に送った書簡では、米軍は北海道に進攻すると考え、また、南方戦線が重視されていた為かなりの戦力を本土決戦用に移したのは事実だが、ソ連軍については戦況次第で南樺太に進攻してくるであろうが千島に進攻するかどうかは不明と考えていた、ただ、それを言えば士気にかかわると思って表向きには言わなかったもので、代わりに第一に対米戦第二に対ソ戦準備と師団長クラスには語っていたと主張している。

 

 一方で、例えば、北千島の91師団の作戦参謀水津満は、終戦時まで師団は対米一片倒でしか作戦を想定していなかったことを証言している。

 

 日本の降伏直前の1945年8月10日、ソ連対日参戦が発生。8月16日大本営はやむをえない自衛戦闘を除き戦闘行動を停止するよう全軍に命じたが、

 北方の第5方面軍を指揮していた樋口季一郎中将は以降も南樺太(おそらく占守島等の千島列島も)におけるソ連軍への抗戦を命じ、戦闘を続けさせた。

 

 これは、ソ連が南樺太から北海道等の日本本土に進攻、占領することを樋口が懸念、それによる赤化を恐れたとする説がある。

 ただし、樋口が防衛庁戦史室へ出した前記書簡を読む限り、樋口が南樺太・千島防衛を命じたのは、全く樋口自身がそこを守るべき日本本土の一部と考えていたためのようで、8月下旬の樺太での停戦成立(樺太第88師団の完全降伏である)後に特殊技能を持つ者を抱えた北海道の一部部隊を解散するなど、樋口自身は寧ろ樺太での停戦成立によりソ連軍の北海道侵攻の可能性が薄れたと考えた節がある。

 

 また、札幌の方面軍司令部の星駒太郎参謀副長のように、樺太での交戦が方面軍司令部の差し金であることが発覚すれば、寧ろそれがソ連側の北海道への報復攻撃に繋がりかねないと懸念していた司令部幕僚らもいた。

 

 樋口自身の戦後の遺稿によれば、ソ連軍は太平洋戦争の状況次第では南樺太に必ず進出してくる、千島はどうなるか分からないとするものもあるが、北海道について明確に語るものはない。

 

 むしろ、樋口自身はその遺稿で、1945年6月の対米戦一辺倒で考えていた頃には、千島からくる米軍に対し北海道の西半分を残し東半分を放棄するという南樺太との連繋を重視したとみられる案を持っていたこと、サンフランシスコ講和会議の後でソ連が千島を占拠し続けたことを当初はソ連が破れかぶれで行ったと思っていたが後にヤルタ協定以来の取り決めごとの流れだったと知ったと語っている等、樋口自身は戦後もかなりの時期まで、千島・北海道は本来米軍の進攻領分だと思っていた節があることを示している。

 

 スターリンは、極東国際軍事裁判に際し当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。

 これについてノンフィクション作家の早坂隆は、樋口の経歴がウラジオストック特務機関員、ハルビン特務機関長、さらに第5方面軍司令官であったことから、ソ連によって『敵の大物』であり、とくに特務機関長であったことが大きいとしている。

 樋口自身、対ソ連の特務機関長であったことから、札幌方面軍総司令官として北海道にとどまらざるを得ない状況では、個人的にもソ連の北海道占領を怖れる十分な理由があったことになる。

 

 世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。

 

 また、樋口は終戦後の取り調べを担当した米陸軍のキャッスル中佐から『イギリスは大変あなたをご贔屓にしており、ソ連からの貴方に対する逮捕要求を拒絶した』と聞いている。

 これにはポーランド武官時代に交流のあったイギリス陸軍元参謀総長のエドムンド・アイアンサイド退役元帥が引き渡しを拒否する様、圧力をかけていたともされる。

 

 冷戦が始まる中で米軍がロシア通として知られた樋口の情報網を利用したかった事やイギリスからの圧力、ユダヤ人らの運動など様々な事が重なり日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した。

 

晩年

 1946年に北海道小樽市外朝里にソ連の動きもあり隠遁。さらに1947年に宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。

 その後も役職につかず事実上隠遁生活を送り続けた。樋口隆一によると、過去は語らず、アッツ島の絵の前で毎朝、戦死者の冥福を祈っていた。

 

 樋口自身は、麾下の部隊が行った占守島での戦いや樺太での戦いについて少なくとも些かは勝利したものと考えていて、産経新聞の伊藤正徳の戦史連載について、日本軍の敗戦史ばかりを取り上げ、これらの戦について取り上げないことに憤懣を感じると述べている。

1970年に東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。

 

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樋口季一郎陸軍中将の銅像、淡路島の伊弉諾神宮に建立へ

 先の大戦の終戦時、旧日本陸軍の第五方面軍司令官として、ソ連の北海道侵攻を阻止したことで知られる樋口季一郎中将(1888~1970年)の功績を後世に伝える銅像が、出身地の淡路島にある伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)に建立される。孫で明治学院大名誉教授の隆一氏(76)が会長を務める顕彰会が建て、樋口中将の命日にあたる10月11日に式典を行う。

 

 樋口中将は淡路島内にある現在の同県南あわじ市出身。旧満州国のハルビン特務機関長時代に、ソ連やナチスドイツに迫害されて逃れてきた約2万人のユダヤ難民を救ったとされる。「命のビザ」で知られる駐リトアニア領事代理だった外交官、杉原千畝氏と同様にその人道主義が国際的に評価されている。

終戦時には北海道や当時日本領だった南樺太、千島列島の防衛担当の司令官。終戦の玉音放送が流れた昭和20年8月15日以降も侵攻するソ連軍に自衛戦で挑み、スターリンに北海道占領を断念させた。隆一氏は「北海道の分割、ひいては日本の分割占領を免れた」と指摘している。

 

伊弉諾神宮の本名孝至宮司や隆一氏によると、建立される銅像は等身大。軍服姿で軍刀を手にしているという。全国から顕彰会に寄せられた浄財を活用する。出身地の南あわじ市内で建立する計画だったが、淡路島出身の偉人や戦死者らをまつる淡路祖霊社があり参拝者も多い同神宮に決まったという。

 

 本名宮司は「いまでは樋口中将を知らない人が多く、功績を後世に伝えたい」と話す。北方領土の不法占拠を続けるロシアはウクライナ侵攻を続けており、隆一氏は「国土防衛の意識を高めるためにも、祖父のことを多くの日本人に知ってもらいたい」と訴えている。

 

 

 

「 殿(しんがり) 」とは、退却する軍の最後尾で敵の追撃を阻む部隊を指す(岩波国語辞典)。勢いに乗る敵の前に立ちはだかり、味方が難を逃れるまで時間を稼ぐという危険極まりない役目で、古来、抜きん出た勇者たちが任に当たったとされる。終戦時、中立条約を破ってソ連軍が近づきつつあった北海道周辺にも、そんな将兵たちがいた。

 

 ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878~1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、北海道の北半分だった。南樺太と千島列島でソ連軍と対峙(たいじ)した第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888~1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は実現していた可能性が高い。

 

「断乎反撃、撃滅すべし」樋口司令官の決断

 

 1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻する。11日には南樺太でもソ連軍が日本領への攻撃を始めた。スターリンはこの半年前に開かれたヤルタ会談でフランクリン・ルーズベルト米大統領(1882~1945)、チャーチル英首相(1874~1965)と秘密協定を結び、日本に参戦する見返りとして南樺太とすべての千島列島を得る了承を得ていた。

 

 14日、日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出される。第5方面軍司令官だった樋口は16日、心を平静にし、軽挙妄動を慎んで規律を乱さぬよう訓示している。大本営は同じ日、全部隊に「やむを得ない自衛行動を除き、戦闘を中止せよ。18日午後4時までに徹底するように」との命令を出した。

 

 ところが、南樺太のソ連軍は戦いをやめず、さらに18日には千島列島でも占領作戦を開始する。千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)に上陸し、戦車の砲門を外すなどして武装解除を進めていた日本軍を攻撃したのだ。

 

 大本営の命令に従えば、18日の午後4時には完全に戦闘をやめなければならない。だが、それまでの自衛戦争は許されていた。樋口は大本営にはお伺いを立てず、独断で島を守っていた第91師団の堤不夾貴(ふさき)師団長に「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。

 

 樋口の『遺稿集』には、「すでに終戦の詔書が下り、私(樋口)には完全なる統帥権が無かった。しかし、自衛権の発動に関し堤師団長に要求したところ、彼等は勇敢にこの自衛戦闘を闘った」との記述がある。濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を、砲火を波打ち際に集中してたたく作戦が奏功して、ソ連軍は大損害を被った。

 

 だが、日本軍が戦闘停止期限の午後4時に攻撃の手を緩めたことで、ソ連軍は形勢を挽回する。現地の日本軍は18日午後4時でソ連側も戦いをやめると思っていたが、大本営は戦闘停止について連合国軍と何ら合意しておらず、停戦期限は「命令を出してから2日もあれば全部隊に伝わるだろう」というだけのものだった。

 

 記録では、日本軍が600~1000人、ソ連軍が1567~3000人の死傷者を出す激戦が続いた。日本軍は終始優勢を保つが、最後は停戦協定によって武装解除に応じる。降伏した日本兵は全員、シベリアに抑留され、多くの人が命を落とした。樋口は「勝者が敗者に武装解除されたのは何とも残念」と無念の思いを吐露している。