暴れん坊将軍・吉宗逝く | dai4bunkuのブログ

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暴れん坊将軍・吉宗逝く

 享元年(1684)、紀伊藩主・徳川光貞の子として生まれ、8代将軍となった吉宗。いわゆる享保の改革を行い、民衆のための政治で徳川幕府中興の英主となった。米価対策に尽力したので「米将軍」とも呼ばれた。「人は用い方にて物の用に立つものなり」を人材登用の基本方針とし、新井白石ら前代の側近を幕政の中枢から退け、大岡忠相、水野忠之などを抜擢している。1751年(宝暦元)のこの日、66歳で逝去。

 

御三家「紀州徳川家」の四男として誕生

 「徳川家」(とくがわけ)の当主で、将軍となった人物の名前には、「家」の1文字が入っていることが一般的。

初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)から当主に受け継がれてきた1文字ですが、「徳川吉宗」(とくがわよしむね)にはありません。

 

 これは、徳川吉宗が将軍になる予定がなかったことを意味しており、徳川吉宗は3万石の藩主として一生を過ごす予定でした。

 

 徳川吉宗は、1684年(貞享元年)に「紀州藩」(きしゅうはん)の2代藩主「徳川光貞」(とくがわみつさだ)の四男として誕生。

 

 徳川家康の血を受け継いでいるものの、「徳川宗家」(とくがわそうけ)となる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の男系の出身ではなく、「親藩」(しんぱん:徳川家の男系男子が務める藩のひとつ)である「徳川御三家」(とくがわごさんけ)の「紀州徳川家」(きしゅうとくがわけ)に生まれました。

 

 徳川御三家とは、徳川将軍家に次ぐ地位を所有していた親藩では、最高位にあたる3家のこと。

 徳川宗家の血筋が絶えた場合、徳川御三家から将軍を輩出することになっており、選定される順番は「尾張徳川家」(おわりとくがわけ)、紀州徳川家、「水戸徳川家」(みととくがわけ)となっています。

 尾張徳川家に男子が生まれなかった場合、次点で紀州徳川家の嫡男が将軍として選ばれることになっていました。

 

 つまり徳川吉宗の場合、将軍職に就くどころか、四男であったため紀州徳川家の嫡男でもありませんので、紀州藩の当主になる予定もなかったのです。そのため、幼い頃は家老のもとで暮らしていました。そののち、徳川光貞の二男「徳川次郎吉」が病没した時期に、江戸の紀州藩邸へと移り住みます。

 

運命のいたずらで紀州藩主となる

 1697年(元禄10年)徳川吉宗は、父と兄が5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)への「御目見」(おめみえ:大名などが将軍と直接謁見すること)をする場に付いて行きました。このとき、徳川吉宗は謁見する場に居合わせておらず、別の部屋で待機していましたが、徳川綱吉の老中による計らいによって謁見が叶います。

和歌山城

そ して、その場で徳川綱吉から越前国丹生郡(えちぜんのくににゅうぐん:現在の福井県)3万石の「葛野藩」(かずらのはん)の藩主を下賜(かし:身分の高い人が与えること)されました。

 なお、徳川吉宗がこのような厚遇を受けた理由は明確にはなっていません。一説には、可愛げがある少年だったからではないかと言われています。

 

 また、藩主となったことを機に、これまでの「松平頼久」(まつだいらよりひさ)から「松平頼方」(まつだいらよりかた)へと改名。しかし、徳川吉宗は藩主となったあとも和歌山城下に留まり、実際の統治は家臣が行なっていたと言います。

 その頃の徳川吉宗はと言うと、お忍びで城下町を出歩いては庶民の暮らしを眺めるなど、自由気ままに生きていました。

 

 徳川吉宗に転機が訪れるのは、1705年(宝永2年)に、紀州藩3代藩主であった兄「徳川綱教」(とくがわつなのり)が病没したときです。もうひとりの兄「徳川頼職」(とくがわよりもと)が4代藩主になりましたが、間もなく病没。2人の兄には跡継ぎの子がいなかったため、弟の徳川吉宗に1度目の白羽の矢が立ち、22歳にして紀州藩5代藩主に就任。5代将軍の徳川綱吉から「吉」の偏諱(へんき:君主から家臣に名前の1字を与えること)を拝し、松平頼方改め、徳川吉宗を正式に名乗ることになります。

紀州藩における政策

当時の紀州藩は、10万両以上の借金を抱えており、さらに1707年(宝永4年)には「宝永地震」(ほうえいじしん)の被害を受け、その復旧にも莫大な費用が必要でした。そのため、徳川吉宗に課せられた使命は、紀州藩の財政改革だったのです。

徳川吉宗は、自ら木綿の服を着て「質素倹約」(しっそけんやく:節約して生活すること)を率先して実施。藩主がそのような服装をしているのですから、家臣達が贅沢な服装などできるはずもありません。収入を増やすのではなく、支出を減らすことの方が、迅速な財政改革を進められると考えたのです。

目安箱

 また、和歌山城大手門前には「訴訟箱」(そじょうばこ)を設置して、庶民の要望や不満などが直訴できる環境を整えました。

これは、のちに「江戸城」(えどじょう)に設置される「目安箱」(めやすばこ)の原型です。

 徳川吉宗が身分の高い者達からの意見だけではなく、庶民の視点も採り入れようと考えたのは、ある経験があったためでした。

 

 徳川吉宗がお忍びで紀州の街を歩いていたとき、夫婦喧嘩を目撃します。夫婦の隣家に住む住人が喧嘩の仲裁に入ったところ、夫婦は「お殿様でもない者の言葉など聞けるか」と罵りました。

 徳川吉宗はそれを聞き、その場では何もせずに帰ります。

 その翌日、家臣に「殿様の四男坊の言葉では足らないだろうが、喧嘩などせず夫婦仲良くするように伝えよ」と言い、そのあと夫婦は徳川吉宗の言葉に従って仲良く暮らすようになりました。

 こうしたできごとがあったからこそ、例え身分が低くとも、投書によって大名へ直接要望が出せる環境を作ったのです。訴訟箱の設置は、庶民と同じ目線に立っていた徳川吉宗だからこそできた政策でした。

 

徳川8代将軍に就任

 

将軍職最初の仕事は、新しい組織づくり

 紀州藩主として財政再建の手腕をふるっている最中、徳川吉宗のもとに今度は将軍職を継ぐ話がもたらされます。1716年(享保元年)に7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が、わずか8歳の若さで病没したためです。

 

 また本来であれば、徳川御三家筆頭の尾張徳川家から次の将軍を輩出するところですが、尾張徳川家は「尾張藩[おわりはん]は将軍位を争うべからず」と言う不文律(ふぶんりつ:明文化されていない規律や決まりのこと)が立ててあったため、積極的に将軍位就任運動を行ないませんでした。その結果、紀州藩で財政を立て直すことに尽力していた徳川吉宗が、8代将軍に就任することになったのです。

 

 将軍となった徳川吉宗は、新しい組織づくりに着手しました。「正徳の治」(しょうとくのち)と呼ばれる、一時代を築いてきた側用人(そばようにん:将軍の命令を老中へ取り次ぐ役職のこと)の「新井白石」(あらいはくせき)や「間部詮房」(まなべあきふさ)を罷免(ひめん:解雇すること)。

 

 そして、「水野忠之」(みずのただゆき)を老中に抜擢して、今度は幕府の財政改革に乗り出し、「御傍御用取次」(おそばごようとりつぎ)と言う側用人と同様の体制で、徳川吉宗自身が政治を主導していくようになりました。

 徳川吉宗は、自らが将軍になったあとも紀州藩を廃藩することなく、従弟の「徳川宗直」(とくがわむねなお)に家督を譲ることで存続させています。徳川御三家であるために、そう簡単に紀州藩を潰す訳にはいかなかったのですが、紀州から江戸に引き連れる家臣にも限りがありました。そのため、紀州藩士のなかでも大役を担っておらず、能力や家柄を問わない40名余りを選出。

 なお、たまたまその日に当番だった者を連れてきた説もありますが、そのなかには、将来の幕政の中心人物となる「田沼意次」(たぬまおきつぐ)の父「田沼意行」(たぬまおきゆき)もいました。田沼意行は紀州藩の足軽にすぎませんでしたが、江戸に来て旗本に出世。そののち、徳川吉宗亡きあとに田沼時代を迎えることになります。

 

質素倹約の徹底

徳川吉宗は紀州藩の財政改革同様、はじめに支出を抑える施策を行ないました。質素倹約の徹底として、将軍でありながらも食事は1日2食、しかも一汁一菜と言う質素さを徹底。当然のことながら、幕臣もまた贅沢を禁じられることになります。

大奥

 そして、大奥の問題もありました。大奥は、贅沢の根源のような場所だったため、4,000人いた大奥女中を大量に解雇して、1,300人にまで減らしています。

 なお、解雇の基準として、大奥を出ても暮らしていけるだろう美しい容姿の女性を率先して解雇したと言われており、この大奥の改革は、徳川吉宗にしかできない荒業でした。

 こうして、幕府全体で質素倹約が徹底されますが、その余波は農民にも大きな影響を与えることになります。

 

幕府の財政を確保するための政策

徳川吉宗は、質素倹約をはじめ、多くの改革を実行していきました。そのすべてを合わせて「享保の改革」(きょうほうのかいかく)と呼び、「寛政の改革」(かんせいのかいかく)、「天保の改革」(てんぽうのかいかく)と並ぶ「江戸三大改革」(えどさんだいかいかく)のひとつです。

 

 享保の改革は、江戸三大改革のなかで最も成果を出した改革であり、徳川吉宗が「中興の祖」(ちゅうこうのそ:統治者のうち、危機的な政権の回復といった功績があった者のこと)と呼ばれる所以でもあります。

 

 財政難の幕府において、安定した財源を確保することが、徳川吉宗に与えられた一番の使命でした。幕府の財政は破綻寸前だったため、享保の改革は「いかに財政難を乗り越えるか」、「いかに幕府の権威を取り戻すか」を主題として取り組まれます。

 質素倹約の次に行なったのは、「いかに収入を増やすか」の対策。「治水工事」や「新田開発」を奨励して、生産性を高めることを試みています。

 

 1722年(享保7年)には、財政を潤わせるために「上米の制」(あげまいのせい)を導入。参勤交代の期間を1年間から半年に短縮する代わりに、1万石につき100石を献上米として幕府に納めると言う制度です。

 

 しかし、上米の制は一時的に収入を増やすことができたものの、次第に各藩が幕末に向けての資金を確保できるようになり、結果的に幕府の権威失墜に繫がってしまいます。

 

次第に高まる農民の不満

 徳川吉宗と言うと、後世では創作などの影響で「庶民の味方」と言う印象が強いですが、実は財政改革のために年貢を引き上げるなど、農民にも負担を強いています。

 

 農民に重い負担を強いる制度は、大きく分けて2つあり、そのひとつが「定免法」(じょうめんほう)。定免法は、収穫高を問わず、常に一定の年貢を納めると言う制度です。分かりやすく、幕府の財源を安定させる利点がある一方で、凶作においても同じだけの年貢を納めなければならないため、生産がなかなか安定しないこの時代においては厳しい制度でした。

 そしてもうひとつが、「五公五民」(ごこうごみん)。これまでは「四公六民」(しこうろくみん)と言って、全体の生産高のうち領主4割、農民6割を取り分としていたお米を、領主5割、農民5割の取り分に変更したのです。これにより、農民の負担は必然的に増加することになりました。

享保の大飢饉

 1732年(享保17年)、西日本を中心に凶作となります。「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)と呼ばれる飢饉が発生し、餓死者は全国で1万人以上にのぼりました。

 

 徳川吉宗はこの教訓を活かして、凶作に強いサツマイモの栽培研究を進めるように「青木昆陽」(あおきこんよう:幕臣御家人、蘭学者)に命じます。

 また、飢饉による影響で人口は伸び悩み、全国的に一揆(いっき)が増加。1733年(享保18年)には、米価高騰の影響で江戸において「享保の打ちこわし」(きょうほうのうちこわし)が起こっています。

 

米価市場をコントロール

 当時、西日本と東日本の市場は、金貨や銀貨の交換比率が異なるなどしていたため、米価が基軸通貨の役割を果たしていました。徳川吉宗は、この米価を上手に取り引きできるようにしようとします。

 1730年(享保15年)、大坂「堂島米会所」(どうじまこめかいしょ)を幕府公認の「先物取引市場」(さきものとりひきしじょう)として設置。大坂は当時、全国の年貢米を集める都市でした。

 堂島米会所では現物取引だけではなく、証拠金による先物取引も行なえるようにしました。これは、現代で言う「証券化」(しょうけんか)と同じ意味を持つ取引方法。米の取引を証券化した理由は、重い米俵を持ち歩くのは大変だったため。米俵に代わり「米手形」(こめてがた)と言う、いわゆる「お米券」によって米の取引を行なうようになります。

 

 徳川吉宗は、将軍職を「徳川家重」(とくがわいえしげ)に譲ったあとも、大御所として米価の調整に携わっていましたが、そのあとは、なかなか思うような成果は得られませんでした。

 

享保の改革で行なわれたその他の施策

6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)の家臣だった新井白石は学者でもあり、正徳の治のときには小判の金含有率を、江戸幕府初期に戻すと言う「改鋳」(かいちゅう)を行なっています。

 

 「正徳金銀」(しょうとくきんぎん:江戸幕府が発行した金貨と銀貨)を鋳造・流通させますが、これがデフレ(物の値段[物価]が全体的に下がる現象)の原因になりました。そのため、

 

 1736年(元文元年)にそれまで使用していた小判を回収。また、金含有率を低下させる目的で、流通している貨幣も回収して鋳潰し(いつぶし)、再び市場へ流通させる「吹替え」を実施します。

 吹替えにより、小判の流通量は1.5倍になり、インフレ(物の値段[物価]が上がる現象)も発生しましたが、そのあとは落ち着きを取り戻し経済状況は好転。この政策は「元文の改鋳」(げんぶんのかいちゅう)とも呼ばれ、日本史上でも経済全体に好影響を与えた数少ないリフレ政策(物の価格を安定させ、経済の安定化を促す政策)のひとつとして、現代でも高い評価を得ています。

旧小石川養生所に残る井戸

 徳川吉宗は、他にも様々な方面の問題解決を試みました。

1721年(享保6年)に設置した目安箱をはじめ、無料の医療施設「小石川養生所」(こいしかわようじょうしょ)現在の「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」(とうきょうだいがくだいがくいんりがくけいけんきゅうかふぞくしょくぶつえん)を設立。

 また、行政面だけでなく司法面でも、1742年(寛保2年)に「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)を制定。

 

 公事方御定書とは、上巻と下巻からなる江戸幕府の基本法典。実際の判例や慣習が記載されており、裁判の迅速化に成功した他、賄賂に関する取り締まりの強化については、将軍としては徳川吉宗が初めて手を付けて厳罰化しました。

 

 これからの時代に必要な力

 数奇な運命の末に将軍となった徳川吉宗ですが、その人生は決して約束されたものではありませんでした。

 将軍とはほとんど無縁と思われた家柄の生まれであったにもかかわらず、偶然が重なり征夷大将軍となった徳川吉宗による数々の大胆な政策は、後世でも高く評価されています。

 

 紀州藩主の頃に培った経験から打ち出された財政改革は、現代にも通じるものがあり、これからの時代にも必要な力です。徳川吉宗のような柔軟な発想で、人々を引っ張り、型にはまらない政策を行なえる人材の登場が期待されています。

 

 

爺さん:今でいえば、絶対君主独裁政治でさえ、このように、難儀の連続です。

我々は、自由主義・民主主義制度の下で生きています。

 政治家は、選挙でえらばれ、国民の代表者として行動しなければなりません。

 政治活動資金で、ああでもない・こうでもないとやるのは、いかがなものか。

民主主義というのは、金がかかるし、ものごとをなかなか決められないという欠点があります。

 

 重要施策を為政者が独断で即決定できるのは、独裁政治国家です。北朝鮮・中国等

 悪いことも、良いことも独裁で決められるからです。

 

 民主主義国家の中において、優れた政治指導者はなかなかあらわれないでしょう。

 国会議員同士の権力争いばかり。

 

 救世主のような行政府の長の出現は、夢のまた夢か?