リンゴの唄 | dai4bunkuのブログ

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リンゴの唄 作詞家 サトウ ハチロー生誕日

 

リンゴの唄」(リンゴのうた)は、1945年の日本の楽曲。並木路子、霧島昇(霧島の共唱はオリジナル版のみ)によって発売され、日本の戦後のヒット曲第1となった楽曲。

 作詞はサトウハチロー、作曲は万城目正。

 編曲はオリジナル版が仁木他喜雄、並木のソロ歌唱によるステレオ録音版が松尾健司。

第二次世界大戦敗戦後の日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年〈昭和20年〉10月11日公開、松竹大船)の主題歌及び挿入歌として発表された。

 なお、『そよかぜ』は並木が主演を務め、霧島も出演している。

 『そよかぜ』の劇中では並木や霧島のほか、波多美喜子もオープニングやエンディングで歌唱している。

 エンディングでは並木→霧島→波多→全員の順で披露される。また、劇中ではレコード化された歌詞とは異なる歌詞も披露される。

 

☆ ☆

 サトウハチローがこの詞を作ったのは戦時中であったが、「戦時下に軟弱すぎる」という理由で検閲不許可とされ、戦争終了後に日の目を見た。

 というのがこれまでの定説化した話であったが、出版文化研究家の永嶺重敏が当時の文献を調査した結果、1946年の雑誌記事でサトウハチローが「映画の脚本を読んでから詞を書いた」と記述していること、さらに佐々木康監督も晩年に「映画の脚本をサトウに持たせて詞を書かせた」と発言していることから、詞を作ったのは戦後であると結論づけている。

 曲は映画の撮影が始まっても完成せず、作曲者の万城目正は秋田県のロケ先へ向かう汽車の中で曲を書いたと回想している。

 

 可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひしがれた人々に明るくさわやかな歌声がしみわたり、空前の大ヒットとなった。2007年(平成19年)には日本の歌百選に選出されている。

 

 「リンゴの唄」吹き込みの際、万城目正はたびたびダメを出し「もっと明るく歌うように」と指示したが、この注文は当時の並木には酷だった。

 並木は戦争で父親と次兄を亡くし、自身も1945年3月10日の東京大空襲で猛烈な火炎に追われ隅田川に逃げ込んで助かったものの母親を亡くしていたのである[

 さらに大空襲で大勢の人々が死ぬのを目の当たりにし、どうしても明るく歌えない並木に万城目は「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭して並木を励まし、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれた。

 

 映画「そよかぜ」の封切りからレコード吹き込みまでに「そよかぜ」(サトウハチロー作詞、仁木他喜雄作曲)と「リンゴの唄」は再三ラジオで放送されていた。永嶺がNHK放送博物館が所蔵する資料『洋楽放送記録』と『放送番組確定表』を調査した結果によると、並木が初めてラジオで「そよかぜ」と「リンゴの唄」を披露したのは1945年12月2日放送のNHK『歌と軽音楽』である。

 それ以前にも並木は出演していないものの、1945年11月10日放送のNHK『農村へ送る夕』(出演:霧島昇・宮下晴子)にて「リンゴの唄」が披露された記録がある。

 当時、出演する歌手は歌う曲の譜面を放送局に持っていったが、出演者の一人であった霧島昇はその際必ず「リンゴの唄」の譜面を持参していた。コロムビアでのレコーディングはA面の「そよかぜ」(仁木他喜雄作曲)を霧島のソロ、B面の「リンゴの唄」を並木のソロで吹き込むことに決まっていたが、大ヒットを予感した霧島は、万城目に頼み込んだ。

 印税の関係から両面とも二人のデュエットという形になった。霧島の希望でレコードはデュエットとなったが、並木を売り出したいコロムビア側の意向により、霧島はステージでは歌わなかった(出典:読売新聞)と言われるが、霧島は後年NHKラジオ第一の音楽番組「昭和歌謡大全集」(司会:小池勇・泉ピン子)に出演した際、何度も放送局に歌いに行ったが、その都度並木とバッティングし、他に持ち歌がない彼女に譲らされ、並木の持ち歌として定着したと述懐した。

 こうした経緯からオリジナル盤の「リンゴの唄」が霧島とのデュエットであったことは、後にあまり知られなくなった。

 レコードは1945年(昭和20年)12月14日に録音され、1946年(昭和21年)1月に日蓄工業株式会社から「コロムビアレコード」として第1回新譜臨時発売分として市場に出た。

 

 廃盤まで長期間にわたり継続生産された為に、レーベルの印刷書式・インク・用紙に様々な区分がある。初版はレコード番号の前に規格区分の12が記され、社名が日蓄工業とローマ字で印刷されたものである。このレコードについては、「(当初は)A面が『そよかぜ』、B面が『リンゴの唄』であった」という説が広く信じられていたが、実物のレコードではA面・B面の表記はなく(レコード番号は「そよ風」がA五九b、「リンゴの唄」がA五九aであった)、またレコード内容や当時の新聞広告などから、永嶺は実質的なA面は「リンゴの唄」であったと考えられるとしている。

 なお、並木が独唱で録音した音源(1945年12月14日以前の録音)が存在するとの説があるが、録音台帳と発売原簿には上記の事実は存在せず、事実誤認と考えられる。

 1949年(昭和24年)には並木のソロ歌唱によるレコードが発売されている。

 

 レコード売上には諸説あるが、1947年末までの2年間に12万5000枚を売り上げたという記事があり、レコード業界が非常な苦境にあった当時としては驚異的な大ヒットであったと考えられる。文献によっては発売から2〜3年で約33万枚に達した、累計で58万枚売れたという資料もある。

 

 オリジナル盤は1960年に販売中止となる。その後1965年に並木のソロ歌唱によるステレオ音源が録音され、同年発売のLP『ステレオによる戦後20年歌のヒット・アルバム -「リンゴの唄」から「北国の街」まで-〈その一〉』(日本コロムビア ADX-26〜7)や1966年発売のコンパクト盤『歌は世につれ-リンゴの唄-』(日本コロムビア ASS-200)などに収録された。この再録音版は後にシングルカットされ、1977年8月にも再発売された。再録音盤は1984年の1年間に1830枚が売れた。

 

 この曲の発表当時まだリンゴは貴重品であり、1945年12月10日放送の公開ラジオ番組(NHK『希望音楽会』)において並木がこの歌を歌いながら客席に降り、篭からリンゴを配ったところ、会場がリンゴの奪い合いで大騒ぎになったというエピソードもある。その後並木がこの歌を歌う際には、リンゴ投げのパフォーマンスが定番になった。

 

 JASRACの公式本によると、リンゴの唄により並木が家を建てたと舶来のウィスキーを持ってサトウのもとに礼を言いに来た際、サトウは俺達は犬小屋も建てられないとして開店休業中だった著作権管理団体を本格的に復活させようと仲間と共に運動を始めた。

 日本国において本作の著作権は、歌詞が2043年12月31日、曲が2038年12月31日に消滅する(曲は旧法においては2018年末に消滅の予定であったが、2018年に法改正が行われ、消滅直前に20年延長となった最初の例の一つとなった)。

 

 ☆ ☆

 戦後と復興の象徴として

この曲はテレビ番組などの資料映像として終戦直後の焼け跡の空撮、闇市、買い出し列車などが流れる際、必ずと言っていいほどBGMに使われる“定番BGM”としても知られている。1982年に学習研究社から発行された『証言の昭和史』6巻のタイトルは『焼跡に流れるリンゴの唄 占領下の日本』であった。

 

 並木は阪神・淡路大震災(1995年1月17日発生)の最大の被災地である神戸市長田区への慰問に訪れた際にも、避難所となった学校の校庭に設けられた仮設ステージでこの曲を歌唱しており、その模様を載せた当時の新聞紙面には「焼け跡に再び『リンゴの唄』が流れた」という見出しが躍った。

 さらに2011年の東日本大震災では、復興を願いコミュニティFMに「りんごラジオ」と名付けられた。また、並木が死去した直後の2001年(平成13年)4月、モーニング娘。のメンバー(当時)・石川梨華が「今私たちがこうして歌えることの源流が並木さんの『リンゴの唄』であることを思うと、その先人の功績を忘れることなく歌い続けなければならない」という追悼談話を述べた。

 

 1999年(平成11年)に青森県がりんごを通じた活動により県の経済・産業の発展に寄与した人物・団体を顕彰するために「青森りんご勲章」を設けると、第1回受賞者として「『リンゴの唄』を通じ戦後の国土復興に取り組んだ人々を元気づけた」功績により歌唱者としての並木が選ばれた。

 

「リンゴの唄」を題材としたドキュメンタリー

 NHKでは『終戦秘話シリーズ -焼跡にリンゴの唄が流れた-』(1980年8月19日放送)や『その時歴史が動いた 響け 希望の歌声 -戦後初の流行歌「リンゴの唄」-』(2006年5月17日放送)をはじめ、これまでに「リンゴの唄」を題材としたドキュメンタリー番組をいくつか放送している。

 前者の放送当時には、作詞のサトウや作曲の万城目は既に故人となっていたが、並木、霧島昇、上原謙、佐々木康ら「リンゴの唄」に関わった人物の約半数が存命中だったため、彼らの貴重な証言を聞くことができる(なお本放送時、番組中に新宿西口バス放火事件のNHKニュース速報が流れた)。

 また、後者は再現VTRを交えた構成で放送され、並木の生前の著書『リンゴの唄の昭和史』の一節を、リンゴの産地である長野県出身の乙葉が朗読している。なお両番組とも、NHKアーカイブスで公開されている。

 

☆ ☆

爺さん:爺さんは樺太生まれである。昭和23年に引揚者の家族として着の身着の儘(きのみきのまま)で、北海道の片田舎の山奥に開墾地の名の土地に居住地を割り当てられたと聞いている。

 したがって、爺さん自身には幼少の頃の記憶がないのである。

もちろんラジオなるものも知らないし、両親も兄弟も「生きるために食べる」ことが、最優先であり、食べられる野草はなんでも食べた、

 ふき・よめな・あざみ・げんのしょうこ・いらくさ・オオバコ・ウド・イタドリの新芽・笹の芽・根曲がり竹の子・タラの芽・桑の実・山ぶどう・こくわ・どくだみ・あずきな・カタクリ・ひょう・タンポポの若葉・わらび・ゼンマイ・野イチゴ・グスベリ・お茶がわりの柳の若葉・どんぐり・野兎・山鳩・スズメ・魚のきゅうり・ウグイ・ちか・川どじょう・川カレイ・カモの卵等々も食べた。

 食用油や粉が買えないので、野草はおしたし、胡麻和え、魚や動物を食べた後の油を貯めては、素揚げにして、ただ、塩や味噌をつけて食らう。そんな幼少期であった。

 

 小学生高学年か中学のころ、ラジオなるものを初めて知った。

白黒テレビの時代がきたが、金持ちの家にしか無かった。父と母が働いていた木工場の厚生施設等で似せてもらった記憶がある。

 

 

 その後、このリンゴの唄を耳にした。

 

☆ ☆

戦後初の大ヒット歌謡曲「リンゴの唄」を解釈

「赤いリンゴに くちびる寄せて」。
1945年10月、戦後初の映画『そよかぜ』の挿入歌としてリリースされ、驚異的なヒットを記録した並木路子『リンゴの唄』。


 敗戦後の苦境を生きる全国民に勇気と希望を与えた、日本の歴史に残る名曲です。
作詞は『ちいさい秋みつけた』や『長崎の鐘』などで知られるサトウハチロー
作曲は『悲しき口笛』や『東京キッド』などの代表曲がある万城目正(まんじょうめただし)が手がけました。
 映画やラジオを通じて大流行した『リンゴの唄』は「戦後初のヒット曲」とも称されています。
 当時の時代背景を踏まえながら、そんな『リンゴの唄』の歌詞の意味をじっくり考えていきましょう。

 

リンゴと青空、日常の尊さ

 

一番

 

赤いリンゴに くちびる寄せて


だまって見ている 青い空


リンゴは何にも いわないけれど


リンゴの気持ちは よくわかる


リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

 

 のちに「リンゴによく似た可愛いい娘」というフレーズが出てくるので、冒頭の歌詞は愛しの女性に口づけをしている描写だと考察できます。
 続く歌詞は「だまって見ている 青い空」。
 戦火に染まった空ではない当たり前の青空を、ただ黙って見つめる。
そんな平穏なひとときを過ごす物言わぬ「リンゴ」は、ひたすらに目の前の幸せを噛み締めているように感じられます。

 あるいは、亡くなった家族や友人のことを想っているのかもしれませんね。

「リンゴの気持ち」が想像できたところで、2番の歌詞に入っていきましょう。

 

あの娘よい子だ 気立てのよい娘


リンゴによく似た 可愛いい娘


どなたがいったか うれしいうわさ


軽いクシャミも トンデ出る


リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

 

リンゴのように可愛らしい、気立てのよい「あの娘」。


 誰からともなく流れている彼女に関する「うわさ」は、主人公にとって嬉しい内容だったようです。
 もしかしたらその「うわさ」は、愛しい「あの娘」が自分のことを好いているといった恋愛話のたぐいだったのかもしれません。
 飛ぶように伝わっていく浮いた話に「軽いクシャミも トンデ出る」。
くしゃみが出るたび、主人公は自分と「あの娘」についてうわさされていると感じて良い気分になっているのでしょうね。


 恋愛話にうつつを抜かすことができる日常も、1つの平和の象徴だといえそうです。

 

3番です。

 

愛と希望の輪は時代を超えて

 

朝のあいさつ 夕べの別れ


いとしいリンゴに ささやけば


言葉は出さずに 小くびをまげて


あすもまたネと 夢見顔


リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ


「朝のあいさつ 夕べの別れ」からは、日中主人公が愛しい “リンゴ” と同じ職場(あるいは教室など)にいることが推測できます。
 

 言葉を交わさずに小首を曲げて「あすもまたネ」と伝えることからも、二人の親交が深いことがうかがえますね。
 彼女の顔が「夢見顔」に見えるのは、自分のことが好きとうわさで聞いたからでしょうか。
お馴染みの「リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ」には、“リンゴ” に対する愛くるしさはもちろん、“リンゴ” と一緒にいられる日常へのときめきもいっそう強く感じられます。

 

歌いましょうか リンゴの歌を


二人で歌えば なお楽し


皆なで歌えば なおなおうれし


リンゴの気持ちを 伝えよか


リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

 

これまでは登場人物が限られていましたが、4番では私たち全員を巻き込むように歌詞が展開されています。

「二人で歌えば なお楽し 皆なで歌えば なおなおうれし」。
 

 親しい恋人、ご近所さん、日本中の人々へと、愛と平和の輪がどんどん広がっていくようなイメージが湧いてきますね。
 

 「リンゴ」という比喩は、私たち一人一人にとって大切で愛おしい人すべてを意味しているのかもしれません。
 

 上機嫌で表情が明るい男性、純粋な恋にポッとなる女性、真っ赤なほっぺたの子供たち。
 誰も彼もが別の誰かにとっての愛しい「リンゴ」であるなら、「リンゴの気持ち」は他でもない自分自身の気持ちでもあります。


 大切な人の愛おしさ、平穏な日常の尊さを伝え合い、歌い継いでいくことが『リンゴの唄』における理想の世界なのかもしれません。

 

「赤いリンゴ」から豊かな未来へ

並木路子『リンゴの唄』の歌詞の意味を勝手に考察してみました。


 大人も子供も親しみやすいフレーズで愛や希望がつづられた心温まる歌詞でしたね。
 美しい青空やちょっとしたうわさ話のような、現代社会では忘れがちな尊い日常のひとコマも強く認識させられる楽曲でした。
ち なみに、戦後間もない頃の市民にとって「赤いリンゴ」は憧れの高級食品だったそうです。
そんな「リンゴ」も今では当然のように身の回りで見ることができます。
小さく可愛らしい、それでいて尊い「リンゴ」。
「赤いリンゴ」は、
私たちへ日常の尊さを表すと同時に、豊かな未来への希望を象徴しているように思えます。