北海道神宮・豊平神社例祭近し | dai4bunkuのブログ

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北海道神宮・豊平神社例祭近し

 前回、豊平神社の子供神輿会連合会の実行委員会の開催について、アップした。

ところで、「子供神輿に参加しないのは、戦後、政教分離になったからだ」とのご意見がありました。

 

以下、爺さんの私見を書きます。

 

 ご指摘のとおり、日本国憲法の「政教分離の原則」とは、国家と宗教は切り離して考えるべきであるとする原則のことをいいます。上述した信教の自由と絡んで問題となるものです。

政教分離の原則は、憲法第20条1項後段および第20条3項、第89条の規定のことを指しています。

〔憲法〕

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 

 政治と宗教が結びついた場合、国が特定の宗教に有利となるよう国政を行うことになるため、特定の宗教以外の宗教は、排除されていくおそれがあります。

 現代社会において、国は全国民に平等でなければならないことが当然のことと考えられていますので、憲法において、国が特定の宗教と結びつくことがないよう政教分離の原則を制定しました。

 

 

神道は宗教か否か

 

日本の民族信仰であり、日本土着の自然信仰の一つ。日本社会古来からの風習。

 

起源

 神道は、天照大神を代表し、様々な神や、日本最古の英雄である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の武勇伝などが記された日本書紀および古事記から歴史は始まり、現在の天皇陛下へと繋がっている。多神教の一種と考えられる。

 

 しかしながら、例えば神として「天照大神」は存在するが、それを唯一神として崇めるものではないという特徴が挙げられる。

 

 また「神」とは言っても、欧米の一神教のGod(神)とは異質である。

 

神道の神

大抵の民族は、それぞれの宗教を持つが、殆どの宗教では人は神の奴隷である。しかし日本人には、そのような感覚は存在しない。それどころか、人が神を使役することさえもある。

 また日本においては「神」という概念は定義が広く、何らかの「力」や「現象」さえも神となる。こうして古来より、あらゆる物に神は宿ると言われている。

こうして何でも神とするため、異教の神に対しても何も考えずに受け入れてしまうのが特徴である。

 

宗教か否か

 神道というものは、日本人の「いい加減な」宗教性をよく表わした存在である。

神道は、宗教的な概念ではあれども、まず神道には統一された教義が存在せず、布教団体もない(神道系新興宗教を除く)。このことから、いわゆる西洋的概念による「宗教」には合致しない。

 

 西洋的概念での宗教では、①教祖、②教典、③タブーの三つを必須とするとされるが、神道にはこれが一つもないのが特徴である。

 

 ただそこに神社があって、ただ民が参る、そういうものである。あまりに日本文化に浸透し過ぎており、本人たちも宗教性に気づかない。

 

 このため、何も考えずに、毎年初詣や祭、時には七五三参りや厄払い、またある時には神頼みにと、足しげく民は神社に通うが、皆は口を揃えて「私は無宗教です」と答える、不思議な文化。それが神道である。

 

 つまり、神道は宗教ではなく、もっと崇高なもの、と言える。このため、多くの日本人はこれを大切にし、汚さないようにしているのである。

 

平和的な信仰

 神道にはタブーがなく、他の信仰を排斥することも無い。

布教もせず、宗教をもとにした侵略もしない。神社には鳥居が立つが、鳥居には扉がない。これは、来る者を拒まず、去る者を追わない事を如実に表わしている。

これは日本人の普遍的な道徳心の現われとも言える。

 

特徴

宗教的概念

神道の宗教的概念としては、罪穢れを嫌い、これを祓う、といったごく簡単なことだけである。従って、何をもって「神道への入信」とし、「神道を信仰する者」とするかは明確な規定がない。

一般には、家などに神棚を置いたり、神社に寄付したり、神社の祭に積極的に参加する者などが、信者と考えられる。

 日本では、初詣、神社での賽銭やかしわ手、結婚式(神式)、七五三などが神道における宗教的行事である。

 なお、宗教法人としての神道は大きく二派あり、一つは神社神道、もう一つは教派神道である。後者は教組がいる新興宗教の一派であり、これは明確に宗教(あるいはカルト)と言うことができる。

 

神道の基盤

 

 まず日本古来の神は、それが人などを束縛するための存在ではないと考えられた。また全ての命は神の恵みであり、また人間の命も自らのものではなく、天照大神に護られてこそ生きているもの、と考えた。

 なぜなら日本人は農耕民族であり、自然には決して逆らえなかったからである。神(つまり自然)を怒らせては生きて行けないので、神を崇め奉るようになったと考えられる。

 

 こうして、人間の能力も天から授かったもので、人間は神の恵みを享受するだけの存在であると考えた。そして自然崇拝も神道の特徴ともいえる。八百万の神(やおよろずのかみ)ともいい、あらゆるものに神が宿る、という考え方の原点である。

 

 こういった考え方は、宗教というよりは道徳として日本人の生活に深く入り込んでいる。神道というのは他のあらゆる宗教と矛盾せず共存できるので、無宗教を自称する者も含め、広い意味では日本国民のほぼ全員は神道の信者であるともいえる。

 

日本人の宗教観

 日本人の宗教観を一言で表わす特徴的文言に、次のようなものがある。

神様・仏様・バース様

 

 日本人は神に親近感を持ち過ぎており、野球の応援ですら神様を気軽に持ち出すのである。外国人バッターでも、凄ければ神様仏様と同列なのである(ちなみに、バースとは元阪神タイガース在籍のランディ・バース)。

 

 よく言えば大らかであり、悪くいえばいい加減な、何かに凝り固まることのない適当な宗教観が体系化されれば、神道のようなものが出来上がるわけである。

 

 実際に、かつての横浜ベイスターズの名投手、佐々木主浩を主祭神(?)とし右腕から型取りした御神体が収められた「ハマの大魔神社」などが作られると、連日絶え間なく参拝者が訪れた。

 

シャーマニズムとアニミズム

 神道は、シャーマニズムとアニミズムで構成されると言われている。

 

 シャーマニズムは、呪い(呪術)などの、超越的な力を信仰することである。

 こういった超自然的な力(神、精霊、死霊など)と直接交渉を行ない、もって予言、託宣・卜筮、あるいは難病治療などを行なうのがシャーマン(巫女、まじない師、呪術師など)である。

 

 アニミズムは、霊魂信仰、精霊崇拝などと訳されている。神道のあらゆる物に神が宿るという精神も、このアニミズムの一つといえる。

 この日本のアニミズムが到達した一つの境地は「擬人化」であると考えられ、神や悪魔を人になぞらえて描写し、あまつさえ(今風で言うなら)萌えキャラにしてしまえるような信仰は、他に類例を求めるのは困難と思われる。

 

神道の存在感

 そもそも、日本にはキリスト教徒は数%しかいないが、これは世界の先進国の中では例外ともいえる少なさである。

 これは、日常は無宗教と考えながらも実は、キリスト教に対抗できる強い信仰があった、つまり神道があったからこそだといえる。

 

* * *

 

全国各地で鎮守様のまつりに多くの子供が参加して地域の人々と交流し楽しんでいる。

 

このような体験を通じて大人へと成長していくものである。

 

 子どもは神仏のつかい? 全国のまつりと子どもが深く関わる理由とは

 

 全国には、大人たちが子どもの誕生を祝い、成長を願ったり、子どもたち自身が登場して活躍したりと、子どもを主役にしたまつりが数多くあります。

 

 伝統行事やまつりと子どもが深い関わりをもっているのはなぜなのでしょうか? 

 

 そこには、病などで子どもが健やかに成長することが現代よりも難しかった昔の人々の思いが隠されています。具体的なまつりを紹介しながら、解説していきましょう。

 

  幼い子どもは神仏とともにある? さまざまな儀礼とともに成長する子ども

 

 日本で生まれ育った人の多くが、誕生してまもない頃から、数々の儀礼を積み重ねて成長してきたはずです。

 生後七日の「お七夜」、生後三十日前後での「お宮参り」、生後百日前後の「お食い初め」、3月ないしは5月の「初節句」などは生まれて1年以内に、その後は「七五三」「十三詣り」と続きます。

 

 地域によって多少の差はありますが、生まれてから数年の間に、これだけのことを経験するのです。

 いずれも根底にあるのは、子どもの健やかな成長への願いであり、神仏への祈りが込められています。その背景には、子どもは、いまも昔も病の影響を受けやすいということがあるでしょう。

 

 古来、恐れられていた流行り病のひとつに、疱瘡があります。いわゆる天然痘です。

 

 その戦いは紀元前からといわれており、1800年代にワクチンがいきわたったものの、WHOの天然痘根絶宣言が出されたのは1980年になってからでした。

 

 江戸時代にも何度も流行した記録が残っており、特に子どもの罹患率と死亡率は大人よりも高いものでした。このような病気の影響もあり、

 一説によれば、当時6歳を無事に迎えることができた子どもは10人中7人以下だったとのこと。

 

 このような実情を鑑みれば、民俗学者・柳田国男の「七つ前は神のうち」という言葉には、子どもの生命のはかなさへの実感が込められていたのではないでしょうか。

 

 特に5~6歳頃までの子どもは、「稚児」と呼ばれることがあります。「乳飲み子」からきているという説が有力で、この年頃までは、赤子同様に、いつ神仏に返すことになるかわからない状況だったことがうかがえます。

 

 医療を含めた社会的未熟の時代には、子どもが大人になることが、現代ほど容易ではなかったのです。

 

 このように考えると、子どもとは、節目ごとに儀礼とともに歩んでいく一面があり、とりわけその地区で信仰されている神仏と近い関係性のなかで成長すると考えられます。

 

* *

 

子どものまつりを分類すると

 

子どもとまつりとの関わり方は、どのような観点でみるかによって、分類が異なります。

 

 子どもがどのような立場で参加するかという観点でみてみましょう。そうすると、

「大人たちが子どもの誕生を祝し成長を祈るもの」と

「子どもが演者として参加するもの」とに分類できます。

 

 そして後者には、子どもが神仏の「よりまし」(編注:神霊がよりつく肉体)になるもの、通過儀礼的意味合いが強いものなどがあります。

 しかしながら、これらの分類は必ずしも明確とはいえず、むしろ重なり合うことのほうが多いのが実情です。

 

誕生を祝し成長を祈るまつり

 

 子どもの誕生や成長を祈るものとして、たとえば各地でおこなわれている「泣き相撲」があります。ここでは、生後1年ほどの子ども同士が、大人に抱かれて土俵にあがり、向かい合います。「先に泣くと勝ち」「泣かないと勝ち」「泣き声が大きい方が勝ち」「勝敗なし」など、行司の判定はさまざまです。

 

 いずれのパターンでも、子どもの健やかな成長を祈願するとともに、氏神さまへの披露を兼ねていることから、子どもが社会的にも観念的にも地域コミュニティーに受け入れられるための儀礼ともとらえられるでしょう。

 

よりましとして大切な役目を担うまつり

 

 子どもが神仏の「よりまし」となるまつりに、「稚児舞」があります。

 たとえば、静岡県周智郡森町の小國神社の「十二段舞楽」では、毎年4月の例祭で稚児舞が披露されます。

 演者である子どもたちは、稽古として神社の敷地にある建物に寝泊まりして「おこもり」し、口にするもの、身につけるもの、お風呂のお湯などには、神水である湧水を使います。

 例祭当日は、白塗りの顔に化粧、頭に天冠をつけます。このように身を清め整えて神のよりしろとなった稚児は、地面に足をつけず、肩車されて移動するのです。

 

 舞は、緩やかながらも、反閇(踏みしめる動作によって霊魂を鎮め、地中の息吹を呼び覚ます)や、四方固め(四方向で舞い、結界をはる)などの呪術的な所作で構成されています。

 また、稚児舞の終わりには、大人の演者によって、人間の世に引き戻されるような場面が登場するのも興味深いです。

 

 稚児は、社会的表象として、2つの面をもっています。それは、「聖なる存在」と「伝承の担い手」という面です。

  

 よりましとなる一方で、伝承の担い手として、ひいては地域共同体の担い手として、大人たちに交じって役目を果たしてきました。

 稚児舞は、「聖なる子どもが演じる、聖なる舞踊」であるとともに、「地域の人間を育てる社会的な舞踊」であるともいえるでしょう。

 

 小國の十二段舞楽では、稚児よりも大きい子どもたちによる「太刀の舞」も披露されます。

 太刀を振りながら勇壮に舞う舞は、邪気を祓う舞として、日本各地でみることができます。

 

 神仏のよりしろとなるために、藁でつくったものの周囲を回るパターンもあります。

 鳥取県鳥取市気高町酒津で小正月に行われる火祭り「酒津のトンドウ」には、藁や竹などでできた大きな円錐形のトンドウが登場します。

 これが年神さまのよりしろとなり、その周りを7~12歳の男子が駆け回ることで、子どもに神が乗り移ります。

 

 こうした特定のものをぐるりと取り囲んだり、回ったりすることで、その場にいる人たちを神がかり状態にするまつりは、中国地方にみられる特徴でしょう。その後子どもたちは、海藻を携えて地区を清めるという行為もおこないます。

 

 また、子どもたちが協力して、神仏のよりしろとともに練り歩くパターンもあります。

 その例が、龍や蛇にみたてた綱を藁で編み、練り歩く行事です。

 これは、年始、春、秋といった季節の節目、夏の盆などにおこなわれ、東北から関東、近畿、中国、九州以南地方と、広く分布しています。

 

 なかでもお盆の時期におこなわれるものは、「盆綱」と呼ばれ、ご先祖さまの霊魂を乗せて地区を巡ります。子どもたちは、地縁でつながる霊魂を迎え入れ、送り出すと同時に、地区を清めて歩くという重要な役割を担うのです。

 

 子どもから大人へ。通過儀礼の様相のまつり

 

 子どもが成長するために必要な儀礼的様相を示すまつりとしては、鹿児島県肝属郡肝付町新富の四十九所神社で10月におこなわれる「高山流鏑馬」があります。

 中学生が馬上で弓と鏑矢を構え、疾走しながら的をねらうというものです。

 約1か月の稽古があり、その間、地区の大人たちからさまざまな教えを受けるといいます。

一連の神事を経て、大勢の注目を浴びるなか、たった1名の射手として挑む姿は、まさに大人への成長の証といえるのではないでしょうか。

 

 ところで、子どものまつりを支えるのは、いうまでもなく地区の大人たちです。

 子どもは、まつりの期間、精進潔斎や稽古、神事などを通して、普段関わることのない大人たちと深く関わり合います。

  

 こうした交流が、子どもにとっても、地域コミュニティーにとっても、かけがえのない絆を生む場になっていると考えられます。

 

 子どもは、庇護される存在でありながら、神仏に近い存在としてコミュニティーへの貢献を期待される存在でもあります。子ども自身にとっても、自分が生まれ育つ文化・社会・人への愛着が芽生える機会になっているのでしょう。

 

地域の伝統行事から、未来志向のコミュニティーづくり

 

 子どもが主体的に関わるまつりにおいて、後継者探しに苦労する話をよく耳にします。

 現在日本では深刻な少子化が進んでいますし、何よりも子どもをとりまく社会状況が変わっています。

 

 たとえば、一定期間自宅から離れなければならない精進潔斎、普段あまり口にしないような食事、また、学校との兼ね合い、特に定期試験や受験の時期のまつりへの参加の難しさなどは、ともすれば、子ども・家庭をまつりから遠ざけてしまう要因となる恐れがあります。

 そうした社会の変化に柔軟に対応しながら、脈々と伝承をつなげている地区の方々には、頭が下がる思いです。

 

 その一方で、新しい関わり方も生まれています。

 

 それは、教育現場との連携です。文部科学省の学習指導要領によれば、

 地域の文化財や伝統行事などを題材として、思考力や社会性などを育成することが推奨されています。

 

 たとえば、地域の人々と親密になり、自然や文化財に関心をもち、伝統行事などに参加したりすることで、地域への愛着を高め、豊かな生活につなげる。

 

 そして、郷土を創る次世代の人材育成や持続可能な地域社会の形成につなげるというのです。

 

 こうした子どもの学びの現場との前向きな関係づくりも、これからの多様な世の中で、ますます重視されるでしょう。それはまた、未来志向の地域コミュニティーづくりとなるのではないでしょうか。

 

 いかがでしょうか。豊平神社の歴史は140年を過ぎました。地域のコミュニティの中で明治前後の開拓期からの豊平・美園地区の発展とともに現在につながっているのです。

 開拓期、原生林を開き、厳しい冬を乗り越え歯を食いしばって「生きるため」耐えてきた歴史があります。

 そんな中、精神的なよりどころとして、古郷の神社の祭神と山の神、穀物の神を祭り小さな祠を祀ったのが起源なのです。

 夏の一日、地域のお祭り、子供神輿にも参加しましょう。地域の大人の人との交流や、伝統を体感できる人生の中での「貴重な1ページ」になります。

 地域の中で親御さんの交流の機会でもあると思います。ご理解をいただき地域のまつりを大いに楽しみませんか。

 

 

    

 

 

 

    

 

    

 

 

             豊平神社主祭神 上毛野 田道 命