慶應義塾大学開校記念日・植物学の日 | dai4bunkuのブログ

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慶應義塾大学開校記念日(4月23日 記念日)

 

  1871年(明治4年)のこの日、「慶應義塾大学」の前身である「慶應義塾」が芝の新銀座(現在の港区浜松町)から現在本部のある三田(港区三田)に移転された。この日は「慶應義塾大学」の開校記念日として、大学は休校となる。

 

 

 1858年(安政5年)10月、中津藩(現在の大分県中津市)の藩士である福澤諭吉(1835~1901年)が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に「蘭学塾」を開塾した。この年が「慶應義塾大学」の創立年とされる。

 

 1868年(慶應4年/明治元年)4月、塾が芝の新銀座(現在の港区浜松町)に移転され、その時の年号をとって「慶應義塾」と命名された。1871年(明治4年)3月、現在本部のある三田(港区三田)の地に移転された。この移転された日を太陽暦に換算して、4月23日が開校記念日となった。

 

 1890年(明治23年)5月、大学部が開設され、文学・理財・法律の三科が置かれた。1920年(大正9年)4月、大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足され、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となった。

 

 1958年(昭和33年)4月23日、慶應義塾創立100年記念事業の一つとして、「蘭学塾」があったとされる現在の聖路加国際病院のある付近に「慶應義塾発祥の地記念碑」が建てられた

 同年11月8日、昭和天皇のご臨席のもと、日吉キャンパス(神奈川県横浜市港北区)に新設された日吉記念館において創立100年記念式典が挙行された

 2008年(平成20年)11月8日、天皇・皇后両陛下のご臨席のもと、日吉キャンパス陸上競技場において創立150年記念式典が挙行された。

 

植物学の日(4月23日 記念日)

牧野富太郎

 

牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日〈文久2年4月24日〉 - 1957年〈昭和32年〉1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。位階は従三位。

日本の植物学の父」の呼び名で一般に広く知られ、日本各地に牧野の名前を冠した顕彰施設が存在する。多数の新種を発見し、命名も行った近代植物分類学の権威である。

 その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。旧制小学校中退でありながら理学博士の学位を取得した。

 誕生日である4月24日は「植物学の日」に制定された。

94歳で死去する直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製した。個人的に所蔵していた分だけでも40万枚におよび、命名植物は1,500種類を超える。財団法人板垣会顧問。

生涯

1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で、近隣から「岸屋」という屋号の商家(雑貨業)と酒造業を営む裕福な家に生まれた。平民身分であったが苗字帯刀も許されていたという。

 元は「成太郎」という名であったが、3歳で父の佐平を、5歳で母の久壽を、6歳で祖父の小左衛門を亡くしたころ、「富太郎」に改名している。その後は小左衛門の後妻である血の繋がらない祖母の浪子に育てられた。

 10歳より西谷にある土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると義校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林(1815年 - 1895年)に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。

 漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。

 名教館は学制改革により、校舎はそのままに佐川小学校となった。そこへ入学したものの寺子屋や塾で習熟した授業内容に嫌気が差し、2年で中退して植物について独学で学ぶようになった。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている。

 酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた。15歳から佐川小学校の「授業生」、すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった。佐川で勉強するだけでは物足りなくなった富太郎は、植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と記している。

 

 そして、江戸時代の本草学者小野蘭山の手による「本草綱目啓蒙」に出会い、本草学、とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになる。そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した。

 東京市では博物局の田中芳男と小野職愨の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学した。

 帰郷した1881年(明治14年)、富太郎は2歳年下の従妹でかねてから許嫁の猶(旧姓=山本)と祝言を挙げ、牧野猶は本家岸屋の若女将となる。

 

 1884年(明治17年)、富太郎は本格的な植物学を志し、22歳の時に再び上京する。そこで東京大学理学部(後の帝国大学理科大学)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。そのとき、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシア帝国のカール・ヨハン・マキシモヴィッチに標本と図を送っている。

 

 富太郎は天性の描画力にも恵まれており、マキシモヴィッチから図を絶賛する返事が届いた。やがて25歳で、同教室の大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊。同雑誌には澤田駒次郎や白井光太郎、三好学らも参加している。

 1887年(明治20年)、育ててくれた祖母、浪子が77歳で死去。

26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。印刷工場に出向いて石板印刷技術を学び、絵は自分で描いた。

 これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりであり、マキシモヴィッチからも高く評価された。

 

 この時期、富太郎は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、その研究費は亡き祖母浪子に代わって猶が工面し、富太郎の求めるままに東京に送金したため、実家岸屋の経営は瞬くうちに傾いていった。

 

 富太郎は佐川の実家に本妻の牧野猶がいたが、1887年(明治20年)12月ごろ、菓子屋の看板娘小澤壽衛(14歳)に一目惚れし、親の承諾を得ないまま下谷区根岸の御隠殿(輪王寺宮門跡の別邸)跡の離れ家で一緒に暮らしはじめ、翌年(明治21年)10月、第一子長女・園子(1888年 - 1893年)が生まれる。

 

 1889年(明治22年)、27歳で新種の植物を発見。『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけた。1890年(明治23年)、28歳のときに東京府南葛飾郡の小岩町で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。

 

 しかし同年、植物学教室の蔵書の無断持ち出しなどが問題となり、矢田部教授から植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまう。失意の牧野は日本の植物標本とともにロシアに亡命し、マキシモヴィッチの下で研究を続けようと企てたが、1891年にマキシモヴィッチがインフルエンザで急死したことにより、実現しなかった。

 

 1891年(明治24年)、実家の岸屋がついに破綻し、家財を精算するために帰郷する。このとき当主の富太郎は、猶と番頭の井上和之助を結婚させて店の後始末を託す。

 一方、富太郎は郷里の高知に帰郷中、地元の植物の研究をしたり、西洋音楽の演奏会を開いて自ら指導し、時には指揮者として指揮棒を振ったりしていたが、長女園子の急死の電報を受け、遺産相続分の代金(約60万円)を受領し、急遽帰京。

 1893年(明治26年)、矢田部非職後に東京帝国大学理科大学の主任教授となった松村任三教授に呼び戻される形で助手となった。助手の月給で一家を養っていたが、文献購入費などの研究に必要な資金には事欠いていた。それでも、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入していたため多額の借金をつくり、ついには家賃が払えず、家財道具一切を競売にかけられたこともある。

 

 その後、各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の無断借用や返却の遅延などにより、研究室の同僚との軋轢が絶えなかった。

 1900年(明治33年)から、未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく『大日本植物志』を刊行する。今回は自費ではなく帝大から費用が捻出され、東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だがこれも松村の妨害により、4巻で中断してしまった。

 

 1916年(大正5年)には個人で『植物研究雑誌』(英語版)を創刊(3号までは自己負担による発刊)。発刊間隔が空いたり、池長孟からの援助が打ち切られたりするなど、その刊行継続は必ずしも順調ではなかった。

 支援者であった中村春二の死去により再び行き詰まった後、1926年(大正15年)に津村重舎(後には会社としての津村順天堂→ツムラ)の財政的援助を得て復刊にこぎ着けている。

1912年(明治45年)1月30日(牧野49歳)から1939年(昭和14年)5月31日(77歳)まで東京帝国大学理科大学講師を勤める。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、松村教授など学内から何度も圧力があったが、学長の箕作佳吉の庇護もあり結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代(1893年(明治26年)から計約46年間、大学に留任している。

 

                牧野富太郎墓碑

1927年(昭和2年)4月、65歳で藤井健次郎や池野成一郎たちの推薦により、東京帝国大学から理学博士を受ける。論文の題は「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種の笹に、翌年死去する妻の名をとって「スエコザサ」(学名:la ramosa var. suwekoana)と名付けた。

1928年(昭和3年)、牧野壽衛が病没、死因は子宮癌と推察される。享年55歳。

1937年(昭和12年)、朝日文化賞を受賞。

1939年(昭和14年)、東京帝国大学講師を辞任。

1940年(昭和15年)、壽衛の他界から12年後、富太郎が78歳のとき、研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」初版を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。

1945年(昭和20年)、山梨県北巨摩郡穂坂村(現・韮崎市)に疎開。

1949年(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも、回復。

1950年(昭和25年)、日本学士院会員。

1951年(昭和26年)、未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理すべく、朝比奈泰彦科学研究所所長が中心となって「牧野博士標本保存委員会」が組織。文部省から30万円の補助金を得て翌年にかけて標本整理が行われた。同年設立された第1回文化功労者の対象者となる。

1953年(昭和28年)、91歳で東京都名誉都民。

1954年(昭和29年)ごろから病気がちとなり、寝込むことが多くなった。

1956年(昭和31年)、「植物学九十年」・「牧野富太郎自叙伝」を刊行。同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民。また、高知県に牧野植物園が設立されることが決定された。

1957年(昭和32年)、死去。享年96(満94歳没)。没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を追贈された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。郷里の佐川町にも分骨されて

1958年(昭和33年)4月、高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園した。また、同年、東京都立大学の一施設として、遺族から寄贈された標本をもとに、牧野標本館が設立された(一部公開)。

2008年(平成20年)、練馬区名誉区民に選定。