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爺様: 豊平神社にも「四神旗」がある。

豊平神社七十年記念誌には、大正十四年七月十四日新神殿造営竣功に伴うご遷座祭を執行しており、その行列の記述があり四神旗を用いている。

 その後の昭和四年七月十五日新調なった御神輿の初渡御が行われ、その大行列について記述されており、やはり四神旗が用いられている。

四神旗の由来 

四神(ししん、しじん)は、中国の神話、天の四方の方角を司る霊獣である(別名、天之四霊)。四獣(しじゅう)、四象(ししょう)ともいう。四象と四神・四獣は同義であり、実体のない概念である四象に実体を持たせたものが四神・四獣とされる。

東の青龍  Azure Dragon of the East

南の朱雀  Vermillion Bird of the South

西の白虎  White Tiger of the West

北の玄武  Black Tortoise of the North

である。

四神旗(ししんき)はどういう順番に並べる。

 

四神とは四方の神、すなわち東の青龍(せいりゅう)、西の白虎(びゃっこ)、南の朱雀(すざく)、北の玄武(げんぶ)をいい、高松塚の古墳の壁画にも見られます。


 昔、朝廷で元旦朝賀(ちょうが)・即位礼などの折りに威儀をととのえるため、大極殿(だいごくでん)または紫宸殿(ししんでん)の庭に、四神を描いた四つの仗旗(じょうき)が立てられました。

 

これを四神旗といいますが、ご社殿などに飾る場合は、

青龍は東北(春・朝を表す)に、

朱雀は東南(夏・正午を表す)に、

白虎は南西(秋・午後を表す)

玄武は北西(冬・夜を表す)に

立てます。

一列に並べるときは、社殿に向かって右から、青龍・朱雀・白虎・玄武の順に正中(せいちゅう)をあけて並べます。

 

 豊平神社では、現在も猿田彦を先頭に大例祭時には、豊平~美薗、美園~豊平間の国道36号を練り歩く大神輿。山車・子ども神輿の合同パレードを実施している。戦前のような大規模な祭列ではないが、地域の伝統行事として親しまれている。

[四神」にまつわる話

青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)は、中国における大刀の一種。 名に「青龍」を冠するのは、刃の部分に青龍の装飾が施されているためである。

 

 

『三国志演義』では、商人の張世平らから提供された鋼を用い、劉備たちとの挙兵時に村の鍛冶屋に作らせている。

 重さは八十二斤あった(後漢時代の度量衡計算では1斤=222.4gで約18kg、三国志演義が成立した元末 - 明代では50kg弱)とされる。

 荊州陥落後、関羽は息子の関平や、周倉らと共に麦城に籠城したが、呂蒙らに捕らえられ親子ともども斬られた。

 

 青龍偃月刀はその後、関羽を捕らえた潘璋に孫権から褒美として与えられた。しかしその後、潘璋は関羽の子・関興に追われ、その途中で関羽の亡霊に出くわして驚いたところを関興に斬られた。

 こうして関興は青龍偃月刀を奪い返し、この武器は親から子へと受け継がれることとなった。

 

 しかし青龍偃月刀と呼ばれる武器が出現したのは宋代以降であり、当然ながら関羽はこれを実際には使用しているはずもなく、陳寿の正史『三国志』にもこの刀は登場しない。なお、小説で義弟の張飛が用いたとされる蛇矛にいたっては明代以降の武具である。

 

 なお、小説『水滸伝』では関羽の子孫とされる関勝が青龍偃月刀を用いたとされている。

 

 これは関勝が関羽の子孫であることを示す一種の記号的な存在であるとされ、別段この刀が活躍するわけでもない。関勝は正史『宋史』に登場する実在の人物だが、青龍偃月刀を用いたという記述はない。ただし大刀の名手であったのは事実である。

 

            青龍偃月刀をもつ京劇の関羽(俳優は殷秋瑞)

白虎隊(びゃっこたい)は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。

 中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来する。

 

 会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られるが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きた[

 

 1928年(昭和3年)に刊行された平石弁蔵『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって、白虎隊は若松城周辺から上がる煙を見て落城したと誤認し、自決を選んだという認識が一般に広まった。

 

 貞吉が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(貞吉からの聞き書きに本人が朱を入れたもの)を、会津藩士の子孫や研究家からなる「白虎隊の会」事務局長の飯沼一元(貞吉の孫)が2010年頃に親類宅で見つけ、若松城へたどり着くか、敵軍に斬り込むか「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」というやり取りがあったことを知った。

 白虎隊の会は2011年、落城誤認説は誤りであるとする説明文を飯盛山に建てた。入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したとみられる。

 

 途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。

 

 籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。

 

 その後、飯沼は電信技士として明治・大正を生き抜き、1931年(昭和6年)に77歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。

 ちなみに飯沼は電信技士をしていた時期に札幌に勤務していた。

 

 日清戦争が勃発し、陸軍歩兵大尉として出征して漢陽に渡った際、ピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。

 

 飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(ただし、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。

 

明治5年(1872年)に工部省技術教場(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。その後、国内各地での勤務を経て、1885年(明治18年)に工部省が逓信省に変わった時には新潟に勤務。

 

1891年(明治24年)、広島電信建築区電信建築長に就任、2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌1894年(明治27年)には日清戦争のため、大本営付となり技術部総督(階級は陸軍歩兵大尉)として出征。

 この間、1892年(明治25年)6月18日付で戸籍訂正し、生年を真実の嘉永7年に改正している。1905年(明治38年)、札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。正五位勲四等を受章。会津会の会員でもあった。

 

「会津藩白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地」碑。

 

 南7条西1丁目にある札幌第一ホテルの入り口近くに置かれているのが、「会津藩白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地」碑です。この碑は、戊辰戦争の犠牲となった会津少年兵白虎隊の悲劇の唯一の生存者である飯沼貞吉の住居跡に建てられています。

 

碑の背面には

「飯沼貞吉(後の貞雄)は安政元年会津藩士の家に生る。慶応4年(1868年)戊辰戦争の際、白虎隊士として出陣するも飯盛山で同士と共に自刃 唯一蘇生。白虎隊のすべてを後世に伝え、歴史の貴重な証言者となる。

 

 明治5年逓信省に入り不撓不屈の努力と卓越なる技術をもって、わが国電気通信事業の先駆者として同38年(1905年)より5年間札幌に勤務 この地に在住す。謹厳寡黙 北海道産業の振興に貢献 大正2年まで実に40余年逓信技術者としての足跡偉大なり。昭和6年仙台にて歿 享年78歳。

平成元年8月 撰文 日本電信電話株式会社 北海道支社

建立 飯沼貞吉ゆかりの地碑建立世話人会

 

 

 

 

 

 

朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)において南面する正門。大内裏の外郭十二門のうち最も重要な門であった。「しゅじゃくもん」ともいう。

玄武洞(げんぶどう)は、兵庫県豊岡市赤石の円山川東岸にある洞窟・絶壁。国の天然記念物に指定され、山陰海岸国立公園に含まれる。玄武洞のほか、青龍洞白虎洞南朱雀洞北朱雀洞の洞窟が玄武洞公園として整備されている。