私たちは、一体。 何のために生きているのか その3 | dai4bunkuのブログ

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福祉(幸福・しあわせ)の追求

福祉のまち推進センターの運営目的探しにいろんな面から紹介しましょう!

 

出典:「生きる意味109」長南瑞生 著 1万年堂出版

私たちは、一体。

何のために生きているのか その3

 

人間に生まれてくる確率は、宝くじに連続して当たる以上に低い

 

人間に生まれることは難しいというのは、どれくらい難しいのでしょうか。

 

  ある時、釈迦は、阿南というお弟子に、

「阿南よ、そなたは人間に生まれたことを、どのように思っているか?」

と尋ねられました。

「はい、大変喜んでおります」

と答えると

「どれほど喜んでいるか」

と重ねて聞かれます。

 

 どれほどか、と聞かれても、どう答えていいか、とまどってしまいます。

「人間に生まれたことを喜んでいる」というところまでは模範的な答えですが、さらにそれがどれくらいかとなると、あなたも聞かれら困るのではないでしょうか?

 

 阿南尊者が言葉に詰まると、釈迦は。こんな話をされています。

 今日、「盲亀浮木のたとえ」といわれる例え話です。

 

「果てしなく広がる海の底に、一匹の目の見えないカメがいる」・・・「盲亀浮木」の[盲亀]とは。この目の見えないカメのことです。

「その目の見えないカメが、百年に一度、海面に顔を出すのだ」

「海面には一本の丸太ん棒が浮かんでいる」・・・これが「盲亀浮木」の「浮木」です。

「その丸太ん棒の真ん中には、小さな穴がある。そして、広い海の上を、風のまにまに、波のまにまに、東へ西へ、南へ北へと漂っているのだ」

 

「阿南よ。百年に一度、海面に顔を出すこのカメが浮かび上がった拍子に、ひょいと丸太ん棒の穴に首を入れることがあると思うか?」

 

 聞かれた阿南尊者は驚いて

「お釈迦さま、とてもそんなことは考えられません」

と答えると

 

「では、絶対にないと言い切れるか」

と念を押されます。

 絶対にないかと聞かれると、そうとも言い切れません。

 

「何億かける何億年、何兆かける何兆年の間には、ひょっと、頭を入れることがあるかもしれませんが、ないと言ってもいいくらい難しいことです」

 

 阿南尊者が答えると、

 

釈迦は、

「私たちが人間に生まれることは、このカメが、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも難しいことなのだ。有難いことなのだよ」

と教えられています。

 

 目の見える私たちが、太平洋のどこかに漂う一本の丸太ん棒を見付けられるかと言われても、モーターボートで毎日全力で探しても難しいことだと思います。

 それが、百年に一度、目の見えないカメですから、とうてい有りえることではありません。

 

 日本語の「有り難う」はここから来ているといわれていますが、もともとは人間に生まれることは、有ることが難しいというのが起源なのです。

 

 実際、もし地球上の他の生命と人間とに同じ確率で生まれるとすれば、他の生き物に生まれる確率のほうがはるかに高くなります。

 

 人間は70億程度ですが、マンボウという魚は一回の産卵で2~3億個の卵を産むといわれます。

 ネズミなら「ねずみ算」といわれるように、二匹のつがいのネズミが一か月に12匹の子供を産んでいくと、

 

 1年後には280億匹なることになります。そんな魚や動物、虫たちが、地球上にどれだけいるか分かりません。人間に生まれる確率は、宝くじに連続して当たる以上に低いことでしょう、

どれだけ人間に生まれることが有り難いかが分かります。

 

  水戸黄門もニーチェも、

   「人生は苦しい」と言っている

 

 それほど、人間に生まれることは難しいと教えられているのですが、もちろん、ただ難しいだけでは、人間に生まれてよかったと喜ぶことはできません。

 実際、人間に生まれたことを喜んでいる人が、どれだけあるでしょうか。

 テレビドラマで人気の水戸黄門は、全国を漫遊し、庶民の味方として描かれていますが、

 

 ただ見れば なんお苦もなき水鳥の 足にひまなき わが思いかな

 

と言っています。楽しそうにすいすい泳ぐ水鳥も、水面下では必死で足をじたばたしているように、「私も皆さんから見えないところでは大変なんだ、印籠さえ出せばいいんじゃないんだぞ」ということです。やはり水戸藩の藩主ともなると、現実問題として、苦労も多かったのでありしょう。

 

 それでも苦しみを乗り越えてこそ、幸せもあるのではないかと思いますが、18世紀のフランス啓蒙主義の哲学者ヴォルテールはこう言います。

 

  幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である。

 

 ヴォルテールの生きた時代は、長らく文化が停滞していた暗黒時代から、理性の光によって啓蒙し、いよいよ近代化に拍車がかかっていく中でしたが、それでも現実は苦しいようです

 さらに19世紀のドイツの哲学者ニーチェは

 

  人間は、人生に見入ること深きほど、苦悩にも深く見入る。

 

といいます。人生楽しいと心から言っていられるのは、まだ人生観の浅い子供のうちくらいのものなのかしれません。

 

 中国の唐の時代、長安を中心に活躍された高僧・善導大師は、

 

   四方八方眺むれど ただ愁嘆の声のみぞ聞く。

 と言われています。

 長安といえば、唐の首都。最盛期には人口100万人にも達した世界最大の国際都市で、日本でもまねして平城京や平安京を造った、あこがれの都です。そんなみんがうらやむ大都会でも、四方八方から聞こえてくるのは、苦しみ悩み、愁い嘆きの声ばかりだ、ということです。

 

「人間に生まれてよかった」と喜べるのは、どんな時?

 

 このように、もし人間に生まれても、苦しみ悩み、やがては死ぬだけだとすれば、なぜ釈迦は、「人身受け難し 今すぐに受く」、生まれ難い人間に生まれてよかったという生命の大歓喜をとかれているのでしょうか?

 

 それは、人間に生まれた時しか果たすことのできない、尊い目的があるからです。

 

 それを達成した時にこそ、

「人身受け難し 今すぐ受く」(生まれ難い人間に生まれてよかった)、

人間医生まれたのはこれ一つだった、という生命の大歓喜を味わうことができるのです。

 

 その尊い目的は、生まれ難い人間に生まれた時にしか果たすことができませんから、釈迦は「人間に生まれたことを喜びなさい」と言われているのです。

 

 でも、生まれてから死ぬまでの間に、

 

「人間に生まれてよかった、よくぞこの身に生まれたものぞ」

の生命の大歓喜が起きる、本当の人生の目的とは、一体どんなものなのでしょうか。

 

 私たちは、一体、

 何のために生きているのか

 

 まとめ

 

〇 「生きる意味」とは、生まれてから死ぬまでに、これ一つ果たせば人間に生

 まれてよかったと大満足できる「生きる目的」と言っても同じです。

 

〇 すべての人に共通する人生のプロセスは、一休が「門松は冥土の旅の一里

 塚」と詠んでいるように、冥土への旅であり、死へ向かう行進です。

 もし生きる意味や目的がなければ、苦しんで死ぬだけの報われない人生にな

 ってしまいます。

 

〇 ところが仏教では「生まれ難い人間に生まれたことを喜びなさい」と教え

 られています。

 それは、人間に生まれた時にしか果たせない、尊い目的が存在するからです。

 

爺様: 昨日は、町連広報紙の編集委員会が。今日は豊平神社編集委員が開かれた。

神社記念誌は85%位の完成度。写真や年表の補正等の作業と不足している項目の補充執筆依頼、作成部数やデザインプロの形成作業、見積額の算出と作成費用の捻出等に入っていく。

 

 次は、生きる意味について、よくある間違いを紹介しましょう。

ブログを書けることは、 「有難いことです」。