爺様の話   薩摩男「大山 巌 おおやま・いわお」と 会津女「山川 捨松 すてまつ」の話 | dai4bunkuのブログ

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 薩摩藩士の西郷隆盛の父の弟は彦八といいますが、その彦八が大山家の養子となり大山彦八となります。

 

そしてその次男として1842年に生まれたのが岩次郎、通称 弥介、後の大山巌です。大山巌は西郷隆盛やその弟の西郷従道と従弟という血縁関係にあります。

 

 大山は6、7歳からから西郷隆盛が頭をしていた郷中教育で、読み書きや薩摩武士の精神を学びます。

 特に「真田三代記」、「武王軍談」、「三国志」、「太閤記」、「漢楚軍談」、「呉越軍談」などを読み、特に記憶力が非常によく「真田三代記」や「武田三代記」などは暗誦して周囲を驚かせていたといいます。

 卑怯なことを嫌い、死を覚悟する潔さを西郷隆盛から学びます。

 

 1862年、大山は島津久光公の上洛で京都に行き、各藩の攘夷派と合流します。しかし大山は寺田屋事件で鎮圧され帰国して謹慎させられました。

  

 謹慎放免後、薩英戦争に従軍してイギリス艦乗っ取りの決死隊に参加し、敗退するも、黒田清隆らとともに江戸の江川太郎左衛門塾に派遣されます。

 大山はこの江川塾で砲術を極めて砲術の免許皆伝となりました。

 ここで砲の研究をおこない「弥介砲」という十二斤綫臼砲をつくり上げました。

 

 戊辰戦争で大山は薩摩藩の二番砲兵隊長として従軍し、この弥介砲と免許皆伝の砲術を駆使して戦果を挙げました。

 

 維新後、ヨーロッパに留学し海軍の造船所や大砲の製造所などを見て回ります。「規模や精度はまだまだ日本は遅れている。こんな国と戦争をしたら日本は勝てない。国の独立には兵器の独立が必要だ」という気持ちを抱いて帰国しました。

 帰国して8ヵ月後にまたヨーロッパに留学します。普仏戦を観戦したことをきっかけに、軍事学を学び、陸軍をフランス式からドイツ式に改め、新しい知識を基礎に日本陸軍をつくりあげることを決意します。

 

 それからスイスに移り住みフランス語修得に励んでいた大山に日本から手紙が届きました。そこには「西郷隆盛が多くの薩摩藩士とともに鹿児島に帰ってしまったので、明治新政府が危機である。そのためにすぐ帰国してくれ」と書いてありました。

 3年ぶりに鹿児島へ帰ってきた大山は西郷を訪ねます。大山は腹を割って西郷を新政府に戻そうと説得します。しかし西郷の決意は固く変わりませんでした。

 

 西郷は不平を持った武士達とともに死ぬつもりでした。これが西郷の国家へのご奉仕でした。

大山は西郷の心の中がわかるだけに辛い気持ちになりました。西郷のもとを去り、幼い頃から多くのことを教えてもらった西郷ともこれが今生の別れだと思うと涙が流れて止まりませんでした。

 

 1877年、西郷のもとで武士達が立ち上がりました。この西南戦争が起こると、大山はこれを鎮圧するために、新政府の指揮官として鹿児島に向かうことになります。西郷を敵として戦うのは大山にとってこれほど辛いものはありません。

 半年以上の激しい戦いでついに西郷の立てこもる城山へ砲撃する時が来ました。その砲撃は大山がやることになります。午前4時からの攻撃は明け方までに勝負は決まりました。

 

 西郷は別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、襟を正し、跪座し、東に向かって拝礼して自刃します。

 

 午前9時、城山の戦いが終わるとともに大雨が降りました。雨後、浄光明寺跡で山縣旅団長たちが立ち会いのもとで検屍が行われました。

 西郷の遺体を大山は見ることが出来ませんでした。・・・・・・大山は西郷の夫人に弔慰金を渡して突き返されました。また大山の姉は泣きながら大山を責めました。

 

 大山は寡黙に一切の弁明をしませんでした。西郷だけがわかってくれていると信じていたのかもしれません。西郷亡き後、それまでは快活明朗だった大山は、人が変ったように寡黙になり多くは語らなくなったといいます。

 

 

 しかし、翌年に明治天皇が北陸や東北をご巡幸なされたときに大山は同行を命じられ、陛下からこのように言われました。

 

 「私は西郷に育てられた。西郷は賊の汚名を着せられ、さぞ悔しいと思う。私も悔しい。西郷亡き後、私はその方を西郷の身代わりと思うぞ」大山は陛下のこのお言葉に身が震えました。

 

「もったいないお言葉でございます。全身全霊を陛下に捧げる所存でございます」大山は陛下のこのお言葉でひかりが差しました。「兄さぁの代わりとなろう」大山の目から熱い涙が流れ落ちました。・・・・・

 

               ☆ ☆ ☆ ☆

 

 

 日本はロシアとの間に日露戦争が起こります。野戦軍と東京の大本営の間の機関として満洲総司令部が設置されます。この満洲軍総司令官は山縣有朋が選ばれるはずでしたが、明治天皇は大山巌を選びました。

 

 明治天皇は大山に、「山縣も不適任とは思わないが、困ったことに軍司令官たちが喜ばないようだ。山縣は鋭いし万事に気がついて細かく指導するので敬遠されるだろう。軍司令官ともなれば、ある程度の自由を欲するだろう。そこで、あまりうるさくない人者がよかろうということで大山に決めたわけだ」

 

 それに対して大山は「大山はボンヤリしているから総司令官に任命する、というふうにも聞こえますが。」明治天皇は「まず、そんなところであろう」と、笑って言われたといいます。日本が国家の存亡を賭けてのぞんだ日露戦争の陸戦の総司令官として、大山は陛下に大いに期待されました。

 

 事実、大山には「大山のもとでなら必ず勝てる」という人徳と人望がありました。日露戦争の陸軍の勝利は大山と作戦を立てる参謀次長の児玉源太郎にありました。大山は児玉の作戦を全面的に信頼して任せました。任せた以上は口出しをしない、しかし結果の責任は自分が全て負う。大山はこのような姿勢を貫きました。

 

ある時、沙河付近で秋山好古少将の騎兵第一旅団がロシア軍に包囲されます。ここが崩れると全軍が分断してしまいます。

 

 総司令部では児玉は怒鳴り、騒然として戦慄が走りました。この様子は大山の部屋にも伝わりました。大山は自分で指揮をとるしかないと考えますが、西郷ならばこの場合どうするかを考えてみました。

 

 そして大山は昼寝から目覚めたようにして総司令部の部屋をのぞくと、「 なんじゃ、賑やかじゃのう。児玉さん、今日もどこかでいくさが ごわすか」突然の大山のこの言葉に総司令部のみんなは笑い出しました。

 これで緊張感がほぐれ、冷静になって的確な状況判断が出来たといいます。知っていても知らない振りをする。何ごとにも動じない大山の忍耐力のある器量がものをいいました。この統率力こそが日本軍の強さであったかもしれません。

 

 大山は1885年、陸軍卿から第一次伊藤博文内閣で初の陸軍大臣就任。その後4回陸軍大臣となり、さらには海軍大臣にも1度就任し、参謀総長、内務大臣をも勤め元老となります。長州閥の山縣有朋と並ぶ陸軍の実力者でしたが、政治には関与しなかったといわれています。

 

 愛妻家で子煩悩な大山は仕事が終わると寄り道をせず、芸者遊びもせずに真っ直ぐ家に帰る。日露戦争後は栃木県の那須の別邸で農業に打ち込む生活をするようになりました。大山はけっして家人に威張ることがなく、悪口を言うこともない。

 海のように広い心を持ち、誰に対しても謙虚でした。大正5年12月10日、享年75歳で死去。
 

 意識朦朧の中、「兄さぁ」とうわごとを言い、後妻の捨松は「やっと西郷さんに会えたのね」と大山に話しかけました。 大山は西南戦争以来、一度も鹿児島に帰らなかった・・・。

  参考文献「明治と言う国家」 (日本放送出版協会)

      「鹿鳴館の貴婦人大山捨松」(中央公論社)等