第14章 覚醒 -55- | d2farm研究室

d2farm研究室

d2farm会員コーナー

―55―

 キリエ・ヒカリイズミは、モニターに映し出されるZカスタムとカナリアバードの姿をルーパスチームパドックで、複雑な表情で見つめていた。
カナリアバードの機体をコントロールしているのが、ナビゲータのジョン・レスリー・マッコーエンであることは、Zカスタムのメイン・モニターで交わされた会話通信で、わかっていた。
キリエのかつての恋人…サリオ・アマギの命を奪った、カナリ・シルフ・オカダ。
あの事故のことをキリエが、忘れることはない。


あの事故の日…警察隊の2名が殉職し、ルーパス号のクルー2名が命を落としたあの日……

 ルーパス号で、辺境の惑星から物資と燃料の材料となる鉱物資源を調達しに行ったエリナを迎えようとしたキリエの眼の前で、その戦闘は開始された。
 ルーパス号に着艦するルートの全てに、警察隊仕様のミニクルーザーを配置したカナリは、通信用のマイクを手に握る。
『こちらは、|超高機動警察隊《スーパーポリス》別動部隊…シルフである。エリナ・イーストに逮捕状が出ている……おとなしくお縄につきなさい……エリナ・イースト・アズマザキ!』
そして、帰艦の為に、惑星から飛び出して来たエリナの操縦するシャトルクルーザーのコックピットと、ルーパス号のブリッジに、そのメッセージを、同時に送りつけた。
「エリナ……どうやら囲まれたらしい」
『そうみたいね……キリエたちだけでも逃げて──』
「そういう訳にはいかない……奴らの標的はエリナなんだから……お前を置いてはいけない」
『あたしが、資材の調達に手間取っちゃったから…』
『大人しく出頭することを命じる……ここで、その丸腰のシャトルクルーザーを撃ち落とすのは|容易《たやす》いことではあるが、出頭すれば、命の保証はしよう…でなければ、エリナ・イースト……お前の存在は、この宇宙から消滅することとなる……時間の猶予など与える気持はない…このメッセージが終わった時点で、攻撃を開始する……出頭する気になったら、この通常通信で、通信をしてくれれば、逮捕の手続きをする』
 カナリの事務的な言葉が、エリナの耳に届く。そして、そのメッセージのとおりに、エリナの乗るシャトルクルーザーに、一筋のレーザー光が襲いかかる。
間一髪、エリナは、そのレーザー光をかわすが、第2射、第3射が、続けて放たれる。
(丸腰じゃないもん──)
 エリナは、シャトルクルーザーに取り付けた自衛のための唯一の武装──軽機関ビーム砲のトリガーに手を添える。
「キリエ……俺たち二人で、エリナの保護をする……援護射撃を頼む」
 サリオ・アマギは、妹のアンジュ・アマギと共に、ハンガーに置かれたトルネード・ファントムに乗り込むとブリッジのキリエの返事を待たずに、エリナの盾となるべく宇宙空間に飛び出していった。
「サリオ……無茶しないで」
 ルーパス号への直接攻撃は、当然ながらない。
シルフとの追いかけっこを繰り返した、この1年……どの辺境の星に行ってもシルフは、必ず、ルーパス号を発見し、そのたびに、ルーパス号への威嚇射撃を浴びせはするものの、ルーパス号そのものへの致命的となる攻撃はしてこなかった…
それ故に、この時まで、逃げることが可能であったとも言えるのだが。
そして、今までは、ルーパス号の隠れ場所を探り当てると、|躊躇《ためら》うことなく、ルーパス号に対する威嚇攻撃を行ってきたシルフチームであったが、この時の作戦では、ルーパス号を発見した後で、すぐには逮捕行動に出ずに、時を待った。
シルフの表向きの行動理由は、特A級犯罪者であるエリナ・イーストの逮捕であったが、ルーパス号艦内に安置されている鷹島市狼という男の身柄確保も、同時に命令されていた。
エリナ・イーストの身柄の捕獲については、逮捕の条件として、特A級犯罪者捕獲のための特別法が適用されるため、「生死を問わず」という但し書きが添えられている。
エリナ・イーストは、殺していいが、鷹島市狼の身柄を損壊させることがあってはならない…というのが、シルフが、それまで、ルーパス号に直接攻撃を加えなかった理由であった。
『エリナを守ることが、俺たちの使命なんだろう……』
 サリオが、キリエに確認するように呟く。
『この辺境の地に来て、約2カ月…ようやく安住の地を見つけたと思ったんだが、あいつらは、エリナが、ルーパスから離れるタイミングを測っていたんだな』
 エリナのシャトルクルーザーに最接近しながら、サリオが、そのように、キリエに今の状況を推測し伝える。
『そうみたいね……』
『サリオ…キリエ…アンジュ…あたしのことは、放っておいて……
 油断したあたしが悪いんだから』
『放っておけるか……捕まったら死刑確定なんだろう……大事な仲間を、そんな、わけのわからない理由で見放すことなんかできない』
 サリオが、そう言ってエリナを励ます。
『そういうことだ…エリナ…お前だって、イチロウと話しをすることを楽しみにしているんだろう……こんなことで、生きることを諦めてはいけない』
 キリエも、ルーパス号のブリッジからエリナに、話しかけながら、突破口を探る。
サリオの操るトルネードファントムから放たれる迎撃ビーム砲は、シルフの放つエリナの乗るシャトルクルーザーへのビーム光を、精密かつ正確なピンポイントシューティングで、霧散させ、無力化している。
『エリナ……俺たちのそばを離れないよう付いてきてくれ』
『はい……』
『ルーパスの着艦ハッチの進入口からルーパスに入ることさえできれば、いつもの手順で、ワープして、振り切ることができるんだ…それまでの辛抱だ……絶対に諦めるな…エリナ』
『いつも迷惑掛けちゃうね……』
『言うなよ……俺たち特殊遺伝子を持って産まれてきた者たちは、百年革命がなければ、市民として生きることもできなかった……』
 迎撃ビームの発射を繰り返しながら、サリオは、エリナを励ますことをやめない。
シルフチームは、エリナの乗るシャトルクルーザーを狙うグループと、ルーパス号の着艦ハッチへの進入コースを閉ざすグループの2つに分けられている。
ルーパスへの着艦を焦るエリナが、シャトルクルーザーに搭載されたビーム砲を、その着艦ハッチを閉ざしている1機のミニクルーザーに向けて発射した。
その機体は、ビーム砲の攻撃を、派手なアクションでかわした。
「エリナ……いい判断だ……そうやって、威嚇攻撃を繰り返すうちに、着艦ルートが開くはずだ……
 奴らが、お前のビームをかわした瞬間…飛び込めるようなら、飛びこんで来い!!全ての着艦ハッチをフルオープンにしておくから……」
キリエは、ルーパス号のブリッジからエリナを励まし、できるかぎり、エリナが着艦し易い体勢…着艦姿勢となるようにルーパス号をコントロールする。
 当てる必要はない……威嚇すれば、彼らシルフは、ビームをかわしてくれる。そうすれば、ルーパスに戻れる。
自分が、メンテナンスをしているルーパス号……今までも、この宇宙船で逃げられなかったことは一度もない……辿りつきさえすれば…という想いで、エリナは、ビーム砲を、その後も数発発射する。
いずれも、派手なアクションで、ビーム攻撃をかわし、そして、瞬時に持ち場に戻るシルフの機体……それを数回繰り返すうちに、エリナも、1機の機体の癖を見抜くことができたと判断し、その機体に向けて、ビームを放った。
と、同時に、その機体がよけた隙をつこうと、シャトルクルーザーを着艦ハッチに突っ込ませる。
しかし、その機体は、動かない…よけない…よけずに、エリナの機体に向けて、正面を向き、ビームを発射してきた。エリナは、当然ながら、そのビームを間一髪よけたが……よける瞬間、エリナの放ったビームで大破するシルフチームのクルーザーの姿を視認する。
『エリナ…何を|躊躇《ちゅうちょ》している!!突っ込め!』
 サリオの言葉が、通信機を通して、エリナの耳に届く。
しかし、エリナは、凍りついたように操縦桿を握りしめるだけで、次の行動を起こすことができない。
そのエリナの機体に、数条の光線の矢が集中する…。
サリオの機体から、迎撃ビームが繰り出されるが、全てのビームを撃ち落とすことができないことはわかっている。
サリオは、トルネード・ファントムをエリナのシャトルクルーザーに寄せようとする。
『エリナ……ハッチは空いてる…今なら、敵もいない!!……すぐに飛びこむんだ!!』
 凍りついたように動かないエリナのシャトルクルーザーに最接近する機体があった。トルネード・ファントムからの迎撃ビームを無効化するために、その機体は、エリナのクルーザーに完全に貼りつき、ゼロ距離射撃の体勢を取る。
サリオは、トルネードファントムのメインバーニアに最大出力を与えると、エリナを狙うシルフの機体にビームを放ちながら、体当たりのコースを取る。
「サリオ……やめて!!」
 サリオの行動の意図を察知したキリエが、叫ぶ。
しかし、シルフの機体は、その体当たりから逃げることなく、停止している。
サリオの放ったビームを、その機体に受けながら。
『キリエ……あとを頼む』
「アンジュ……サリオを止めて!なんでもいい、お願いだから…サリオを止めて」
 キリエが叫ぶ。
『エリナだけは、死なせちゃいけないんだよ…キリエ、ごめんね』
 アンジュのその言葉が、最後だった。
キリエにできることは、爆風でコントロールを失ったエリナの乗るシャトルクルーザーにルーパス号を寄せ、邪魔する者のいなくなった着艦ハッチから作業用アームを伸ばして、その機体を収容すること……
そうすることだけで精一杯あった。

 その時の隊長機…黄色いポルシェ──カナリアバードが、メインモニターの中で、ルーパスチームのZカスタムとバトルを繰り返している。
ゲート直前のバトルだけではなく、すべての区間において、ジョン・レスリーは、Zカスタムに絡んでいく。
賞金稼ぎとして腕を磨いたハルナの能力を持ってしても、老獪なジョン・レスリーの、この周回における執拗なアタックに、Zカスタムは、容赦なく、その身に蓄えた燃料を消費していくのが手に取るようにわかる。
その様子を、キリエは、複雑な思いで眺める。
「百年革命で、人は、たくさんの人間を殺してしまった。
 だから、少しの間……人は、人が死ぬことに麻痺していたんだと思う…キリエ…こうやって、平和な時が続けばいいと、ほんとうは、皆が思っているはずなんだ……
 キリエたちが守り抜いたエリナの命とイチロウの命は、こうやって、たくさんの人に、たくさんの感動を与えてる……俺も、その一人だ」
ソランが、キリエの背後から、キリエの肩に、その大きな手を載せ、キリエにだけ聞こえる声の大きさで、そっと囁く。
「ソラン……」
 キリエが、振り返る。
「エリナが言っていた言葉を覚えてるか?」
「エリナは、おしゃべりだから……全部は、覚えきれないよ」
「私の力を正しく使って欲しいと願っています…とエリナは言った」
「そのことか……うん…覚えてる……」
「エリナは、いつも、他人のことばかり考えてる……自分が、こうしたい…生き抜きたい…じゃなくて、誰かを…というか沢山の人に、幸せになってほしい……
 そういう意味の言葉なんだと、俺は理解した」
「エリナが、その力を正しく使えるかどうかは…あたしたちが、しっかり面倒みてやらないとダメってこと?」
「エリナは、今、俺たち以外の仲間…ほんとうの家族を手に入れたんだ。
 だから、俺たちが責任を感じる必要はない……きっと、新しい仲間たち…家族が、エリナを幸せにしてくれる……きっと、良い方向に導いてくれる」

 ルーパスチームとポリスチームのタイマンバトルの結果──
第2ゲートは、Zカスタムが、1位でオレンジゾーンを通過できたが、第3ゲートと第4ゲートでは、カナリアバードが、2位でオレンジゾーンを通過した。
この時1位だったのが、ウイングチームで、ポイント争いだけで言えば、断トツで、ウイングチームが獲得ポイント数を伸ばしていた。

第5ゲートの手前でも、ジョン・レスリーは、Zカスタムへの攻撃の手を緩める事をしない。
「さすが、ポリスチームの部長さん……こうやって一か八かのアタックを繰り返されたら、こっちでポイントを重ねるのは厳しいね」
 ハルナは、2連続でノーポイントとなったことに、少なからず危機感を抱き始めた。
「とりあえず、燃料消費は、ギリギリ抑えているけど……これ以上、ノーポイントが続くのはまずい」
 イチロウもカナリアバードから眼を離さずに、ハルナの言葉に応じる。
『今、逃げてポイントを得るほうがいいことだってことはわかるよね…イチロウ』
「でも、俺は逃げたくない」
『イチロウに聞けば、そう言うのは、わかっていたけど…相手は、あのポリスチームだから』
「操縦してるのは、カナリさんじゃなくて、例の部長さんだ……その部長さんが、敢えて、俺と勝負したいと言ってきてる…だから、絶対に逃げない」
『しょうがないなぁ……』
 エリナが、頬を膨らませているのが、モニター越しでも、よくわかる。
「まだ、ここは序盤ですから…イチロウの好きにさせてあげましょう
 ね…お姉さま」
 そう言ったハルナも、2連続ノーポイントで終わったことに悔しさを感じているのか、口元は笑っていながらも、眼は笑っていなかった。
『今のウイングチームとの点差…言ってみて』
 エリナからの質問に応えるため、イチロウは、サブモニタ―に表示されている1位のチーム──ウイングチームの得点に眼を遣る。
「俺たちの今のポイントが、5240点……ウイングチームが、6430点だから…差は1190点」
『まだ、210点しか点差を縮めてないんだから……そのことを絶対に忘れないでね』
「了解!!」
 イチロウは、左右上下の、どこから仕掛けてくるかわからないカナリアバードの挙動に手を焼いていたのは確かであった。
カナリの操縦するカナリアバードと、ジョン・レスリーが操縦するそれとは、明らかに、行動パターンが違っている。
しかも、燃料消費に頓着せずに向かってくる相手に、気圧されていたことも事実であった。
「ふぅ……」
 イチロウが、大きなため息を吐く。
そして、ずっと、オレンジゾーンコースで展開していたバトルエリアを拡げる作戦を思いついたイチロウが、Zカスタムを、上方に大きく跳ね上げ、レッドゾーンコースに移動させる。
そこで、オータチームとサブマリンチームがバトルをしていることは知っていた。
『レッドに逃げたか…なぜ、ここに留まって勝負しないんだ!!』
「その答えは……」
 イチロウは、Zカスタムを急降下させて、カナリアバードを押しつぶす作戦に出る。
追ってきたカナリアバードを、サブマリンチームのシンカイ2105がフライトしている方向に誘導するように、押しつけてゆく。
カナリアバードが、右方向に避けた瞬間に、イチロウは、バーニアとスラスターの同時噴射により、オレンジコースに、Zカスタムを戻し、そのまま、オレンジゾーンのスクリーンを通り過ぎる。
『他の機体を利用するか……』
 既にレッドコースは、オータチームが1位通過を果たしていて、サブマリンチームも、突然のイチロウの作戦行動に巻き込まれたため、オータチームとのバトルを早々に、取りやめ……と言っても、一瞬の判断で、オレンジの真下……イエローゾーンに機体を移動させていた。
順位としては、オータ…ルーパス…サブマリン…ウィングの順で、ゲートを通り過ぎていったことになる。
レッドゾーンに置き去られた形となったジョン・レスリーが操るカナリアバードは、ノーポイントとなってしまった。
『まぁ……何でもアリなのは、このレースの性質上しょうがない部分がある……次の第6、第7ゲート……オレンジゾーンだけで勝負しないか?』
 ジョン・レスリーは、特に「卑怯!」と罵ることもせず、イチロウに、そう提案をする。
「いいですよ……」
「大丈夫?」
「百戦錬磨の部長さんが、俺と勝負したがってる……結果はどうあれ、この2周目…とことん、つきあってみるよ」
「自信なさそうね」
「ハルナは、イコールコンディションで、あの部長さんとやりあって、勝てるのか?」
「う~ん……全然、勝てる気しない……だから、イチロウに任せるよ」
「ハルナがそういうのは珍しいな」
「もともと、あっちのポルシェは、性能ダントツの機体なんだよ……本来の半永久機関の核エンジンで勝負したら、スピードを含めた全てで勝てるわけがないの…その機体が、あれだけ燃料消費を度外視して挑んでくるんだから……燃料を気にしてバトルしてる、こっちと勝負になるわけがないの」
「そういうことか……」
「受けちゃった以上は、第6と第7……ノーポイントを覚悟してるから…いいよ、好きにして」
「こっちも、燃料気にしないで……とは言ってくれないのか?」
「言えるわけないでしょ……ほんとうに、男って、無駄遣いとか平気なんだから」
「平気なわけじゃない……」

「どうだ……カナリ……わたしの腕も落ちてないだろう……」
 第1周目で、予選組のハートゲットチームに、いいようにあしらわれた結果、ポリスチームは第1周めでは、8ゲートのうちの6ゲートがノーポイントとなっていた。
完全に|鴨《カモ》扱いされた上に、2周目からは、一番信頼し敬愛するジョン・レスリーから、シートをミッキー・ライヒネンに譲るよう勧告された。
そのジョン・レスリーは、カナリが手こずった相手……ルーパスチームを完全に子供扱いしている……自分では、刻々と変化していく状況に、何一つ対応することができない。
(悔しい…)
【メイン・パイロットシートにいること自体が……邪魔でしかない】
 先ほどから、ジョン・レスリーから言われた、その言葉がカナリの頭の中で繰り返される。
ジョン・レスリーとイチロウの会話も、もう耳障りでしかない。
 相手は、カナリ自身が、世界で一番嫌っているエリナ・イーストというメインメカニックがいるルーパスチームなのだ。
(何が、そんなに楽しい……)
 カナリには、ジョン・レスリーの、今見せているような楽しい表情に接した記憶が、なかった。
(いや…昨日か…ルーパスのパドックにいた小娘たちとゲームをしている時……今のように眼を細めていた…)
【邪魔でしかない】
 また、頭の中で、その言葉がリフレインされる。
(ふざけるな……私は、親友を失いながらも、職務を忠実に果たしてる……適当に、いい加減にへらへら笑って、その日を暮らしてる市民を、大切なものを失いながらも、守っているんだ)
【邪魔でしかない】
(誉められることがあっても、非難されることなど……あっていいわけがない…私が、シルフのリーダーをやめたら、凶悪な犯罪者が、今以上に、海賊行為や略奪行為を繰り返すだけだ)
「私に、タイマン勝負を挑むのが、10年早いということがわかったかな?オオカミくん?」
 耳を閉ざしたいのに……ジョン・レスリーの無神経な言葉が、その閉ざしていないカナリの鼓膜を通して、響いてくる。
(私をのけものにして……部長は、なにが、そんなに楽しいのだ……)
【あなたは、カナエ・アイダの遺伝子を受け継いでいる……過去の世で果たされなかった、イチロウ・タカシマと結ばれる運命が、既に決まっているのです】
(誰から言われたか…つい、最近だった気がする……なぜ、わたしが、あのいけすかない女と男を取り合わなければならないのだ)
 同じ言葉が繰り返される中にあって、カナリは、もう、時間の感覚さえ失っていた。
(ああ…もう、どうでもいい……こんなレース、勝っても負けても意味はない)
【トップのウイングチームと、ポリスチームの得点差がついに、1270点となりました…過去の記録だけを紐解いても、この点差を逆転した例はないですよね……】
(確か、ついさっきの実況で、そのような言葉がスピーカーから流れていたっけ……)
 思いっきり、髪をかきむしりたい衝動に駆られたカナリは、一瞬だけ、現実に引き戻される感覚を覚えて……サブモニタ―に眼を遣る。
そこには、カナリ自身が、仇敵と扱っているエリナの心配そうな顔が、映されていた。
それが実況放送の途中で、呼び出されたパドックを映し出すピットレポートの映像であることに、カナリは、すぐに気付く。
 エリナのそばには、決して若いとは言えない年格好の男が寄り添っている。
(あの男の顔は良く知っている……)
 昨日のパーティで、婚約発表があった。
シンイチ・カドクラという男だ。
『挑発に乗らないで…と指示はしましたが……
 きっと、視聴者が望んでいるバトルだから…
そう言って、メインパイロットに説得されました……本当に、視聴者は、今のこのバトルを望んでいるんでしょうか?』
(こんな意味のないバトルを望んでいるのは、どうせ、うちの部長だけだ──)
『カ…リ…んの身体の具合が悪そうなので、とても心配です──』
(誰の具合が心配だって──?)
「カナリ……聞こえているか?調子が悪いなら、この後のピットストップの給油の時、ミッキーと代われ──ルーパスのエリナさんが、心配してるぞ」
 ポリスチームのコックピットには、車内映像を映すための公式カメラが設置されている。おそらく、それで、妄想に耽っている自分のだらしない顔がアップで映されたのだろうと、カナリは、ぼんやりとした頭の中で、ぼんやりと気付いていた。
(ああ…もう、なにもかも面倒くさい──)
 サブモニタ―に映されるエリナの顔を殴りつけたくなって、コックピットのシートから腰を浮かせようとした、その刹那──

【わたくしの願いを受け取ってくれたのは、あなたですね──】

 今まで、聴いた事のない声が、カナリの頭の中に、はっきりと響いたのである。

(お前は──誰だ?)
【ありがとう──】
(礼など言うな──)
【ずっと、あなたと話をしたかった──】
(わたしは、お前と話すことなど……なにもない)
【わたしの名前を呼んでいただけますか?】
(知らない……お前の名前など知らない)
【わたしの名前は──】
 
(藍田香苗と言うのだろう?)
【はい……】