第14章 覚醒 -56- | d2farm研究室

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―56―

 イチロウとのバトルに興奮しているジョン・レスリー・マッコーエンは、カナリの異変には気付かなかった。
いや、気付かない振りをしていただけかもしれなかった。
それほど、Zカスタムとの一騎撃ちは、ジョン・レスリーにとって、楽しい時間だったからだ。
ピットレポートで、エリナ・イーストというメカニックが、『このバトルを視聴者が楽しめているのか?』という疑問を口にしていたが、ジョン・レスリーは、即答したい気持ちでいっぱいだった。
(俺が、こんなに楽しいのだ……観ている連中が、楽しくないわけないじゃないか)
 ジョン・レスリーの提案で、オレンジゾーンコースだけを舞台に、繰り広げられているZカスタムとのバトルは、既に、第6ゲートで、ジョン・レスリーの勝利が確定し、この第7ゲートも、Zカスタムの頭を抑えることに成功している。
2連勝は見えている──
レインボーゲートコースは、縦幅は、広くないが、横幅は広大である。
通常のバトルは、ポイント獲得バトルであることから、上下へのプレッシャー──特に、下方向…つまり、地球に向かう方向へプレッシャーを掛ける事がセオリーであるが、ゾーンを特定させることで、バトルの内容自体が、違う意味で多くのバリエーションを産むことになる。
上下に逃げられないため、プレッシャーは、横方向にかける回数が、多くなる。
そのプレッシャーを受け流すか、甘んじて受けた後に、はじき出された場所から反撃に転じるか──選択肢が少ないだけに、バスケットボールで言うところのワンオンワン感覚が楽しめるのである。
敢えて、オレンジゾーンを選択したことで、勝てば、80点という高得点を得る事ができ、負ければ、順位点さえも付かない……そして、今、この瞬間は他の機体も、このバトルの邪魔をしようとはしない。
できれば、次の第8ゲートも、継続して、このルールでのバトルを楽しみたい──

「やめて!!」

 隣に座るカナリの口から、その言葉が吐き出されたのは、ちょうど、ジョン・レスリーが、オレンジに輝く第7ゲートを突破した瞬間だった。

「もう……やめて」

 次にカナリの口から吐き出された言葉は、初めに吐きだされた言葉よりも、弱々しかった。
「カナリ──」
 突然のパートナーの異変に、ジョン・レスリーは、狼狽した。
「ミッキー……カナリがおかしい──パイロットチェンジの準備をしておいてくれ──この周のタッチダウンで、ピットに戻る」
『もともと、燃料は、もう、すっからかんでしょう…ピットインの準備は、完璧にできていますよ』
「助かる……今回のレースは、これで終わりでも構わない──それより、今まで、こんなことは一度もなかった」
 通常、機内に設置された機内カメラは、映像を撮る為だけに利用されるため、音声は拾わない……しかし、カナリアバードに設置された機内カメラは、ヘルメット越しにパクパクと口を上下に開け閉めするカナリの表情を大きく映していたため、その繰り返し発してる言葉が、あたかも、マイクを通したかのように、はっきりと聞こえた気がした。
『やめて』
 ……そう、はっきりと、カナリは繰り返している。
(何をやめて欲しいのだ?)
 映像を観た誰もが、そう疑問を抱いた。
『ジョン……機内撮影用カメラの電源を切ってくれ…このままじゃ、晒し者だ』
 メイン・メカニックのミッキー・ライヒネンの言葉に従い、ジョン・レスリーは、機内カメラの電源をオフにする。
サブモニタ―に映し出されていたカナリアバードの機内映像が、その瞬間に消える。
「お願い……これ以上──カナリの心に触らないで……」
 か細いが、はっきりとした声で、カナリの訴えかける声が聞こえる。
「カナリは、いつも強がってるだけ……全然、強くなんかない……だから、放っておいて」
『ジョン……いつからだ?』
「いつから……とは?」
『カナリがこうなったのは…だ』
「悪い……こうなるまで、気付かなかった」

『先ほどまで、ルーパスチームとのバトルを繰り広げていましたポリスチームのメインパイロット……カナリ・オカダの様子がおかしいようですね』
 フルダチが、映像をフォローするようにコメントを入れる。
『激しい体当たりの衝撃と、たび重なる加速・減速のGに、身体が耐えられなくなったのでしょうか?』
 イマノミヤの言葉も、どこか的を外れている…ということを、聴いている者全員が同様に感じていた。
『可能性としては、それが一番考えられる原因であるとは思いますが……心配です……ピットの様子は、どうなっていますか?イツキノさん……』
 突然の異変に、バトルの実況を忘れて、フルダチは、ポリスチームのパドックにいるはずのヒトミコに様子を訊ねる。
『こちら、ポリスチームのパドックは、動きが慌ただしくなっています。まず、救護班が、コントロールルームに集まってきました……フィジカルデータの分析では、異常がないと判断されているものの…心拍数、脈拍ともに異常な数値が出ているそうです』
『他に、情報は集まってきてませんか?』
『こんなことは初めてだ……と、チームの関係者は、口を揃えて言っています。カナリ・オカダがレースに参加した中で、一度も経験したことがない事だと、その関係者の方は、話をしてくださいました』
『わかりました……ピットインするのは間違いないのですね』
『はい』
『リタイアもあり得ますか?』
『それは、ありません……メイン・メカニックのミッキー・ライヒネンが準備を整えています』
『ありがとうございます』

 ピットレポートの間、ポリスチームのパドックの映像がモニターに映し出されていたが、そのモニターに、ブルー・ヘブンズチームの3人の姿があることに、ミリーは気付いた。
「ねぇ……ギン──」
『あの3人──あんなところで、何をやってるのかな?』
「ヒトミコちゃんとアイコちゃん……友達だって言っていたよね」
『パドックパスがあれば、あそこまで入れないことはないけど』
「あれ?ミリーちゃん……どうしたの?ひとり言?」
 ギンと話をしているミリーの真剣な様子に気付いたエイク・ホソガイが、話しかけてくる。
『エイクさん…今、知り合いが、モニターに映っていたので、その確認をミリーとしてたんです』
 ギンが、エイクに直接テレパシーで話しかける。
「なんだ?きみと話してたの?」
『ええ……ブルーヘブンズというチームの3人なんですが…今、ポリスチームのパドックにいるのが、なんか、意味があるのかなって……』
「インディゴブルー…なんたらってプロジェクトのチームだったよね」
『そうです』
「これでも、ちゃんと下調べはしてきたからね」
 エイクも、モニターに映るブルーヘブンズの3人に眼を移す。
「このアイコ・ガンリキさんが代表だったよね……とても、9歳には見えないけど」
 モニターのアイコを人差し指で突きながら、ミリーにエイクが確認する。
「背の高さといい、言動といい、コントロールルームからの適切な指示といい、ほんとうに、あたしより若い女の子だなんて、信じられなかったよ」
「だよな……ほんとうに9歳なのか?この子──」
「のはずだよ──少なくとも中央政府のデータベースに記録されてる誕生日が本当ならね……」
 その後も、エイクは、モニターに映るアイコの姿から眼を逸らさなかった。

 ジョン・レスリー・マッコーエンは、カナリアバードを、ポリスチームパドックまで慎重にコントロールして到達させた。
その間、カナリは終始無言で、瞑想するように眼をつむり、時折、口元を微かに震わせ、誰かと会話でもしていうような表情を見せていたが、ジョン・レスリーの問いかけには、一切、応じる事はなかった。
パドックハンガーに納められたカナリアバードは、まず、二人を載せたまま、固形燃料の補充を行う。
機体の推進には、質量が大きく関係することから、固形燃料の補充については、残り周回を考慮して搭載量が決められる。
 残り周回が、まだ6周あるため、完全な満タンまで燃料補充を行うことは決定されていた。
「カナリ……」
 ジョン・レスリーの問いかけに、相変わらずカナリの反応はない。
「カナリ…ミッキーと代わるんだ」
 メインメカニックのミッキー・ライヒネンが、パイロットスーツを身にまとって、ハンガーまでやってきているのだが、カナリが、席を立たなければ、交代することはできない。
と…そこへ、ブルーヘブンズの3人が乗り込んでくる。
「時間がないんでしょ……ちょっとだけ、あたしたちに任せてください」
 ミッキー・ライヒネンを制して、身体を入れ替えたアイコが、カナリの指先と胸元に手を宛がう。
 そうしておいて、ぐったりとなったカナリの耳に、唇を近づけて、囁き始める。
(カナリさん……今、香苗と会話してますよね……だいじょうぶ、ちゃんと融合できます……あたしの中には、今、|聖子《しょうこ》がいます……だから、あなたも……ちゃんと香苗を受け入れてください……だいじょうぶよ──
 あたしも、そうやって覚醒することができたから──怖くない、全然、怖くないんだから)
アイコの表情が変化する──その表情は、9歳の少女のそれではない。かつて鷹島市狼と宇宙探査のために地球を離れた技術士官──大徳聖子──その人格が明らかに表面に出てきている。

「これ……カメラまわしてても平気?」
ピットレポートのために、ポリスチームのパドックに留まっていたヒトミコが、カメラマンに確認する。
「まぁ、止められてないから平気なんじゃないかな?」

 アイコは、顔をカナリの胸元に密着させる。
「香苗……あなたに会いたい……出てきて」
 その言葉が、トリガーとなった。
カナリの瞼がゆっくりと開かれる。
「ショウコ……?」
「カナリさんのサポート……できるよね」

「うん……まかせて」

 カナリが、ふたたび瞑想するような表情になったことを確認すると、アイコは、その場から離れる。
「お邪魔しました」
 アイコは、ミッキーに頭を下げると、下で待っているユキとテルシのところに戻る。
「お疲れ様」
「うん……もう大丈夫だよ」

「カナリ……ミッキーと代われるか?」
 ジョン・レスリーの問いかけに、カナリは、ゆっくりと眼を開く。
「交代はしません……燃料の補給が完了したら、レースに戻ります」
「そうか?」
 ジョン・レスリーは、モニターに映し出されるカナリのフィジカルデータとメンタルデータに眼を遣って、完全に安定していることを確認する。
「燃料補給は、あとどれくらいで完了するんだ?」
「あと1分15秒で満タンだ」
 ジョン・レスリーの問いかけにミッキーが即答する。
「この燃料補給の時間がもったいないな──」
「ああ……しかし、これも、このレースの決まりだからな……ジョン……空になるまで使いきる、お前が悪い」
「そう言うなよ……あのオオカミくん──けっこう、面白い……な、カナリ」
「部長は、なぜ、あのような無駄なバトルをやったのですか?」
「そう言うな……お前も、けっこう楽しんでいたじゃないか」
「わたしは、楽しくなかった
 そんなことよりも、ミッキー……ウイングチームとのポイント差は、何点?」
「今、3周目の第3ゲートを通過したことで、7300点だ…うちは、5450点のまま……点差は1850点だ──」
「オータチームは?」
「6460点──1010点差だ」
「1010点なら……追いつける」
 カナリが、不敵に笑う。
「ミッキー……ドリンクをくれないか?甘い飲み物を飲みたいと、わたしの中のカナエが言っている──」
 ミッキーは、ミックスジュースの入ったボトルをカナリに手渡す。
 笑顔でボトルを受け取ったカナリが、ボトルのストローに口をつける。
「ありがとう……必ず勝ってくる」
「調子が悪くなったら、いつでも代わってやる…遠慮せず言ってくれ」
「そうなったら、頼りにしている……でも、大丈夫そうだ。
悪かったな…ミッキー…いろいろ、心配をかけた──」
「チームだからな……」
「初めて飲むが……ミックスジュースも悪くない」
 そこで、給油が完了したことを示すサインランプがメインモニターに大きく表示される。
「行きます!」
 燃料補給が済んだとなれば、一刻も早く戦線に復帰する必要がある。
1秒のロスが、戦線復帰した時のポジション取りに大きく影響するからである。
カナリアバードが、スムーズに、ブシランチャー1号機のカタパルトデッキに移動を済ませる。
そこでも、ほんの数瞬のタイムロスを発生させることなく、レースコースへの復帰を果たす。
『ポリスチームが、今、給油を済ませて、コース復帰しました。
 先頭集団は、既に、第3ゲートを通過し、第4ゲートに向かっていくところです…この給油でのポリスチームのタイムロスは、4分12秒です。』

 給油を終えた機体は、当然のことながら、最後尾となる。2周を終えた後で、3周めの序盤で給油を行ったチームは、ポリスチームとハートゲットチームの2チームであった。
カナリは、一刻も早く、先頭集団に追いつくために、バーニアによる加速を続ける。
既に、レインボーゲートは、全てブラックアウトとなっていて、四隅のマーキングランプしか点灯していない。
その光を失ったレインボーゲートをカナリアバードは、最大加速で、通り抜けてゆく。
この3周目の周回で追いつけなければ、4周目で、ルーパスチームとバトルをすることはできなくなる。
先ほどのように気分だけでバトルをやった結果、この加速周回でも、燃料温存をすることができない状況となってしまうわけである。
「さっきのように燃料の無駄遣いをして、良いことなど一つもないのですよ……部長」
「そんなことは、わかっている……しかし、我が身を犠牲にしなければ、今のルーパスを止めることなどできない……」
「そうでもありませんよ……」
 ジョン・レスリーが、多少、言い訳に近い物言いをしたことについても、カナリは、穏やかな否定の言葉で応じる。
 そして、72km/秒まで増速したカナリアバードが、第4ゲートを通過したところで、慣性フライトに移行する。
「最大速度で、2周することは可能ですから、ここで追いつければ、4周めと5周めでトップを維持することはできます」
 今までと全く違う雰囲気となったカナリの表情に…ジョン・レスリーは、誰かが言っていた言葉──単語を思い出す。
【──覚醒──】
(別に、髪が金髪に染まるわけでもない──
 黄金のオーラが湧きたつわけでもない──
閃きを示す|雷《いかずち》もなければ──
瞳の反射光が消えるわけでもない……
それでも、これが、カナリの覚醒なのか?)

「ところで、勝手に72kmまでスピードを上げて、どこで減速するつもりなのだ?」
 静かにミックスジュースの入ったボトルのストローに口をつけて微笑しているカナリにジョン・レスリーは訊ねてみる。
「当然、このまま第8ゲートを通過するつもりですよ」
「そこから、減速か?」
「まさか……」
「ちょっと待て……このスピードでは減速できない」
「そんなことはありませんよ」
「ルーパスは、前面にバーニアを装備しているから、あの1周目の急減速ができたのだ…しかし、このポルシェに、ルーパスと同じような高出力のバーニアは、前方にはついていないんだぞ」
「言われなくても知っています」
「ならば……」
「後ろを向けばいいだけのことですよ……部長」
「な……」
「スラスターできっかけを与えてやれば、簡単に背面飛行することは可能です」
「そんな練習……一度だって、やったことはないではないか」
「今のわたしならできます」
「カナリ……」
「とりあえず、言っておかないと、部長の身体が心配ですからね」
 摩擦力はおろか空気抵抗のない宇宙空間では、速度を上げることよりも、速度を緩めることのほうが難しい。
特に、今のカナリアバードは、給油を終えたばかりで、質量自体が最大に近い状態である。
この最大質量の状態で、無理やり加速してきた、この第3周めであるから、通常よりは、燃料の減りは多いはずだが、それでもまだ80%以上は、燃料が残っている。

『このペースで行くと、ポリスチームは、第8ゲートで追いつきますね』
 フルダチが、フライト距離メーターを見ながら、ポリスチームの動向について予測を立てる。
『いえ……この後、給油のために減速しているチームもありますから、下手をすると、第7ゲートでポイントを得ることもできるかもしれませんよ』
 イマノミヤは、同様に距離メーターを見ながら、給油タイミングの過去データを画面に表示させて、ポリスチームがポイントを得る可能性があることを仄めかす。
『そうですね……ポリスチームとハートゲットチームは、3周目で給油しましたが、ワンストップ作戦のチームは、この後の第4周か、第5周で、ピットインするはずです』
『オータ……サブマリン……ウイングの3チームは、2月ステージ、3月ステージともに4周目を給油に使っていますから、間違いなく、ここでピットインします。
 ボールチームと、ソーサラーチームは、その時の状況で、作戦を柔軟に変えてくる作戦なので、今回、序盤ではバトルに絡んできていませんよね。
恐らく、第5周めを給油のために使ってくるでしょう。
ブシテレビチームは、毎回、ノーストップ作戦ですから、今回も作戦を変えてくるとは思えません』
『レギュラーチームの作戦は、ある程度予測できますが、予選組8チームは、どのような作戦を立てているのでしょうか?』
『ルーパスは、5周目で給油しそうですね……とすると、このままのペースで4周目に入って独走となる可能性が高いですね』
『今まで、バトルに絡まずボーナスポイント狙いで、ポイントを重ねてきた、ボールチームは、ここは、給油のためにチームが減りますから、通常ポイント狙いということになるでしょうね』
『ジュピターは、今回も、ここまでバトルには絡んでいませんから、前回同様……ノーストップだと思います』

3周目──
 2周目で燃料の消費を意識せずにバトルを繰り返した、ポリスチームと、ハートゲットチームは、ポイントを伸ばすことができず、早めのピットインをする結果となったが、その2チームが、ピットインしたことにより、先頭集団を構成するチームに若干の入れ替わりがあった。
第1ゲートで、トップを取ったのは、ルーパスチームであったが、第2ゲートで、ウイングチームとサットンチームに追いつかれ、1周目と同じ展開で、イエローゾーンから脱出できないまま、大きくポイントを稼げずにいた。
レッドゾーンでけん制し合う形になったのが、オータチームとサブマリンチームで、ポイントの激しい取り合いをしている。
両チームとも、このあとの4周目を給油の周回として作戦を立てていることから、4周目がノーポイントとなることを念頭に置いて、接触する回数を増やさないようにしながらポイントバトルを演じているのである。

 3周目の第7ゲート寸前でルーパスチームが突然、メインバーニアに点火し、Zカスタムに加速を与えた──
それは、慣性フライトが基本となるこのレースで、ありえない加速タイミングだった。
「ポリスチームが、減速しない──」
「うん──このまま、うちが慣性フライトを続けたら、追い抜かれるね」
 そう判断した上での、Zカスタムの加速だった。
当面のバトルの相手…ウイングとサットンの両チームを置き去りにする形で、無理やり、Zカスタムのスピードアップを果たしたが、それでも、一気に72km/秒までのスピードに乗せるのは厳しかった。
第7ゲートを加速の勢いにまかせて1位でレッドゾーンを通過したルーパスチームは、燃料の残量を計算しながら、ポリスチームの減速するタイミングを見計らいつつ、増速を続ける。
ポリスチームが、このまま、スピードを緩めなければ、72km/秒のイコールスピードまで加速する覚悟を、既に、イチロウとハルナ、そしてエリナは決めていた。
また、もう1チーム……このタイミングで、加速・増速を続けるチームがあることを、イチロウたちは忘れていなかった。
ボーナスポイントを巧みにゲットしながら、給油のタイミングをずらすことで、ポイントの積み重ねをしていくチームがレギュラーチームの中にいることを、全てのチームが知っていた。
そのチームが、総合ポイントで3位となっているボールチーム。
エリナにとって、唯一といっていい親友と呼べる少女──ニレキア・ガースウィンがナビゲータを務めるチームである。
ボール型の形状の機体──クラッシュ・ボールS2110は、エリナが昨年設計して作り出した機体である。
そのパフォーマンスは、まさに変幻自在と言えるもので、常に8番手をフライトしながら、レインボーゲートのどこに現れるか、まったく予想できないボーナスポイントを獲得することを作戦の軸に置いている。
丸い形状で、メインバーニア位置が自由に移動するクラッシュ・ボールは、高速バトル以外は、どんな作戦でも容易にこなす能力を持っている。

第7ゲート、トップでレッドゾーンを通過したルーパスチームに続き、2位で、このボールチームがオレンジゾーンを通過した。
そして、3位がウイング…4位がサブマリン…5位がサットン…6位がオータチームという順で通過していく。
この後の4周目で給油を予定しているチームは、当然ながら、不用意な加速はしない。
終盤まで加速を続けるルーパス、ボールの2チームが先行するのは無理ないことでもあったが、ついに、この第7ゲートで、カナリが操るポリスチームが追いついてきた。
オータチームが通過した後、7位のポジションでヴァイオレットゾーンを通過したのである。

「ついに|捉《とら》えた!」
 嬉々として、カナリが叫ぶ声を、ジョン・レスリーは、苦笑しながら聞いた。
「あと40秒もあれば追いつく……」
「そうだな──」
 カナリアバードが先行する2チームに追いついたのは、ちょうど第8ゲートを通過するタイミングとなったが、3チームとも特に絡むことなく、そのままの慣性フライトで、ゲートを順番に通過していく。
第8ゲートを1位通過したのは、そこまで加速を続けたボールチーム…そして、2位通過はルーパスチーム…3位はポリスチームであったが、3チームとも、その次に待つブシランチャーへのタッチアンドゴーの前の減速タイミング…チキンレースへの心構え…準備を当然、意識していた。

『はい……イチロウに質問です……今のスピードが何kmか知ってる?』
 エリナのきつい口調がイチロウの耳を刺す。
「ポリスに合わせたからな…72…」
『このスピードで練習なんかしてないよね』
「してないな」
『だったら……なんでスピード落とさないの?』
「いや……負けたくないし」
「お姉さま……なんとかなりますよ」
『そりゃ、ハルナは、賞金稼ぎで、活躍した時、めちゃくちゃやってたんだから、このくらいの減速Gに充分耐えられるでしょうけどね…イチロウは、まだ宇宙空間での生活を始めて、3か月も経ってないの……ここは、バカなことはやめて、抑えてよ』
「ハルナは、お姉さまの判断に任せてますから、減速の指示には素直に従います」
『イチロウは?』
「あとの周回は、全部、エリナに従う……ここだけ…あのカナリさんと度胸試しをさせてくれないか?」
『それは……カナリさんが覚醒したから?』
「そうかもしれない──」
『カメラで見る限り、なんにも変わっていないよ──』
「でも……」
『なによ』
「さっきから、香苗の声が聞こえる気がするんだ──だいじょうぶだよ──って言う声が──」
『気がする……だけなんでしょう』
「香苗は、先を見通す眼を持っていた──そして危機を回避する能力も優れていた」
『そんな人が、なんで、自分の命を失うような事態を予測できなかったの?』
「俺を守ってくれたからな……あの時は……だから、今は、香苗の言葉を信じたいんだ──今、香苗は、エリナを信じれば大丈夫だと言っている──」
 イチロウは、並走するカナリアバードを凝視する。
間違いなく、香苗のものと思える思念が、その方向から伝わってくるからだ。
『ばかばかしいよ──だれか言ってたよね…人間が、そんなに都合よくなれるわけないって──』
「おれは、エリナを信じてるから……エリナが無理だと思ったら、かまわない…減速が間に合わなければタッチダウンをスルーしてくれ」
『そんなことしたら、この3周目のポイント……ゼロになっちゃうんだよ』
「どっちみち、ここでポリスチームに先行を許したら、俺たちは優勝できない──諦めるのが早まるだけだ──何の問題もないよ……エリナ」
「ハルナも、お姉さまを信頼していますから──でも、年間優勝するためには、このレース負けられないんです──絶対に……」
『ほんとうに、みんなバカばっかり──』
「エリナが作ったZカスタムだ……絶対、みんなの命を守ってくれるさ」
『もう……』
「いつ麻痺薬を飲めばいいか言ってくれ」
『ブシランチャー手前の1000km地点で二人とも飲んで……そしたら、あとは、あたしが何とかする』
「了解!!」
 エリナの言葉に、イチロウとハルナが声をそろえる。

「やつらも、引く気はないようだな」
「カナエが、オオカミくんを説得してるから……この勝負には絶対乗ってきます──ルーパスは、減速のタイミングで、速攻性の麻痺薬を飲んでいるようです──部長も、お飲みになりますか?」
「そんなことが、なぜわかるのだ?」
「全て、カナエが教えてくれます──カナエは、2~3秒先の結末を見通すことができる能力を磨いていたそうです──
 だから、この勝負の結末もカナエだけは、知ることができる──それを、わたしに教えることも黙っていることもできる──
 そのカナエが、自信を持って言ってくれたことが一つあります
 ……命を落とすような危険はない──といっています」
「わかった──好きにしろ」

 太陽系レース──ゲートセッションの3周目…まず、初めに減速行動を取ったのは、ボールチームであった。
全方向にバーニアを噴射することが可能な、クラッシュボールS2110は、真正面へのバーニアの噴射により、徐々に減速をしていく…
 それから、ポリスチームのカナリアバードが、カナリの予告通りに、スラスターの上方への噴射できっかけをつくり、180度反転した背面フライトの姿勢を取る。
むしろ、回転させるきっかけを作った後の姿勢制御の困難さが、この作戦を成功させるための鍵であることをジョン・レスリーが一番よく知っていた。
バーニアを正確に進行方向に向けた瞬間、カナリがバーニアに最大出力を加える。
72km/秒で反転したカナリアバードは、バーニアの逆方向噴射で、徐々に速度を落としていく。
もちろん、通常のバーニアであるから、Zカスタムが見せたのと同じだけの出力があるわけではないが、確実に、スピードは落ちているため、ブシランチャーへのタッチダウンのタイミングまでに30km/秒まで落とすことは計算上明らかであった。
問題は、ルーパスチームのZカスタム──麻痺薬を服用したことで、既に、イチロウとハルナの二人は、深い眠りに堕ちている。
理屈では、50km/秒を減速させることと70km/秒を減速させることに、大きな違いがないことはわかっている。
それでも、ぶっつけ本番で、試すことにエリナは、不安をぬぐい去ることはできない──いっそ、このまま、減速させることなく、やり過ごそうか……そう気持ちの中で決めた瞬間、エリナは、気持ちとは全く逆に、身体が反応していた。
Zカスタムの前方ボンネットが解放され、制動に必要な量の燃料・推進剤が噴射され、あっと言う間に、Zカスタムは、スピードを限界ぎりぎりまで落とす。
3チーム…3機の機体が、30km/秒の速度まで減速を果たすことができたが、それぞれのブシランチャーのデッキにタッチを済ませたのは、同時ではなかった。
最初にタッチダウンを成功したのは、ポリスチームのカナリアバード。
タッチ後、すぐさま、最大加速により、第4周目の第1ゲートに向かって飛び立っていく。その時、電子ペイントが施された機体カラーは、それまでのカナリアイエローから、光輝くシャンパンゴールドに変化していた。
「覚醒のお祝いだ……機体のカラ―リングくらいなら、俺でも、何とでもしてあげられるからな……」
「でも、スーパーなんとかとは呼ばないでくださいね……部長……とっても、恥ずかしいですから」
「……」
「まさか、言うつもりだったんじゃ──」
「……」

「イチロウ?無事だよね」
 ハルナが、イチロウの表情を確認しながら訊ねる。
「ああ…ショックはでかいけどな」
『諦めないで……とにもかくにも、成功したんだから……予定より燃料多く使ったけど、まだ追いつけるよ』
 エリナの元気いっぱいの言葉が、コックピットにしっかりと届く。
「わかってるさ」
 ブシランチャー2号機へのタッチダウンのタイミングは、ポリスチームに続いて2番目だったZカスタムも、最大加速で、カナリアバードを追いかける。
「へぇ……ポリスチーム……カラーリング変えたんだ」
「俺たちも変えてみるか?」
「ほんと?」
「ハルナのモチベーションが高まるなら、ピンクの機体カラーでも、俺は問題ないからな」
 瞬時に機体のカラーリングをエメラルドグリ―ンから、ショッキングピンクに変化させたZカスタムが、カナリアバードを追いかける。
そして、ノートラブルながら、3番手に甘んじることになったボールチームが、カタパルトデッキを、一瞬回転するようなパフォーマンスを見せて、タッチダウンのアピールをした後で、カタパルトデッキから、第1ゲート方向へ、やっぱり、転がるようなパフォーマンスを見せて飛びだしていく。
「さすが、本家のエリナがつくった最新型だね……昨年型のエンジンのままじゃ、勝てないのかなぁ……」
 ニレキア・ガースウィンが、ニコニコしながら、メインパイロットのスティン・サクファスと、メインメカニックのハジメ・エリオスに話しかける。
「エリナが、このクラッシュ・ボールに与えてくれた能力は、減速性能だけじゃないだろう?減速性能を含めた、立体機動性能なら、どのチームにも負けない……これがあるから、クラッシュ・ボールは、ボーナスポイントをかき集めることが可能なんだからな──勝負は、まだまだ、これからさ」
『そうだ……ニレキア……諦めるのは、まだ早すぎるぞ』

 事実……今、このトップ集団を形成する3機以外は、ついて来れていない。
3周目の終わりで、ピットインした機体は、合計で8チーム──全チームの半数が、ここでピットイン……給油をすることになった。