パシン、と乾いた音がして、手のひらの痛みとともに、渚の正気が返る。
同時に平手打ちの衝撃で鞍馬の手から落ちた匙が窓枠に当たって跳ね、その向こうへ落ちていった。
少し遅れて、ぶたれた頬に蜜色の髪がさらさらと降りてくる。
それが元のとおりに収まると、鞍馬はゆっくりと渚に視線を戻した。
「気が済んだ? それともまだ殴り足りない?」
初めて人に手をあげた渚は、しびれる感覚をごまかすように、利き手を逆の手で握り込んだ。
鞍馬の左頬が赤く染まっていく様子は、まるで渚の中に広がる罪悪感をそのまま映したようだった。
久しぶりに見る紫色の瞳は静謐を閉じ込めたようにしんと鎮まり、どこか悲しげに見えた。
どんな接し方をしても喜怒哀楽の哀を見せない彼しか知らなかった渚は、その眼差しに胸をつぶされそうになって、耐え切れずに目を伏せた。
ああ、あたし・・・・ずっと顔を背けてたから。
鞍馬の気持ちを、それに本気で対して来なかった自分を、突きつけられた気がした。
「・・・・ごめんなさい」
「謝るの? 今の、間違いだったと思う?」
「いくら何でも、ちょっとあんまりな態度だったと思う」
正直に非を認め、口に出して詫びる。
位の高い人間には時としてひどく難しいことだが、渚にとっては造作もないことだ。
まっすぐに正直に、自分にも他人にも素直な心で対するように育った。
だからこそ、言葉は続く。
少女らしい顔を凛と上げて、再びあやめ色の瞳を仰いだ。
「鞍馬、あなたも謝るべきだわ。あの、・・・・無理やりの、こと」
「なぜ?好きな子にキスするのは間違いじゃないだろ?」
「間違いとかじゃなくて・・・・あなたがあたしを好きだって言ってくれるのはありがたいし、キキキキスとか、まあそういう風にしたいって思うのも、そういうもんなのかもしれないけど、だからってあたしの気持ちを無視していいってことにはならないでしょう」
「それは、そうだね」
渚の弁に納得した風で、鞍馬は肩をすくめた。
首の後ろで結った蜜色の髪が夏の風に巻き上がって、鞍馬を儚げに見せた。
「・・・・でも、君の気持ちを尊重するには、オレの気持ちを無視しなきゃなんないよ。オレがオレの気持ちを無視したら、オレの気持ちはどこに行くの」
鞍馬は、自分の恋を持て余していた。
片恋は、まるで弓矢だ。
溢れる想いを矢にして放ち、相手に向けてまっしぐらに飛ばす。その心を突き通すように、ただ祈る。
想う人の胸に届かずに落ち、跳ね返り、折れた弓は、皮肉なことに、もっとも深く射手を穿つのだ。
まして、その弓を飛ばす手さえなかったら。
渦巻く気持ちをどうすればいい。自分ごと飲み込まれてしまいそうな大波が繰り返し、すぐここまで打ち寄せてくるのに。
その手を取り上げようって言うのか。渚、君は。
男女主人公が一番恋愛から遠い話。←
(当初「誘惑」という小題だったのを、後日改題しました。内容は変更ありません。申し訳ありません・汗)