私はこのブログを2年か3年か忘れたけど毎日読んでいて、こんなにわかりやすくて面白い心理ブログは他にないと思っている。
この『ナリ心理学』を読んでると、人にあまり興味持てない私も人って面白いなと思う。
で、今回この記事を読んでふと、サウザーは絶望と発狂の世界にいたのか、それとも閉塞感の世界にいたのか、そしてケンシロウに敗れたことでダイヤモンドの世界に突入できたのかが気になった。
私は、サウザーはきっとダイヤモンドの世界に突入できたのだろうなと思っている。
ケンシロウに敗れ、「ぬくもり」を思い出すまでの間には恐らく停滞の世界にいた。いたというか思考はそこまで進んでたはずだ。
そして「ぬくもり」を思い出し、オウガイの亡骸の隣ではきっと、ダイヤモンドの世界に突入できたはず。
しかも聖帝様だから。早いのだ、移行が。
人が数年かけてたどり着く領域に、聖帝様は秘孔を突かれ死亡するまでの間に突入してしまわれるのだ。
漫画だが私は至って真剣である。
で、また心理の話に戻るが、サウザーがケンシロウと出会い気付けたように、人も偶然出会った何かに気付かされることがある。
それが漫画だったり、映画だったり、猫だったり、全然関係ないものから不意に気付かされることって結構ある。
しかし、やはり人によっては何が起きても気付かない、もしくは斜め上の気付き(誤解)を得る人もいる。
あ、そっち?みたいな。
気付きながらも絶対認めない人もいる。
この違いはなんなんだろう。
若さなのか、老いなのか、意思なのか、プライドなのか。
北斗の拳で言うと、ケンシロウには圧倒的『愛』があった。これに触れた者は皆、色んな意味で敗北する。言うなら少年バットもそうだ。私だってそうだ。
圧倒的な愛の強さに敗北する。
若さも老いも、意思もプライドも打ち負かされる。気付かずにはいられない、認めざるを得なくなる。
なぜなら圧倒的『愛』だからだ。
となると、ジャギやアミバが『悪』のまま生涯を終えたのは、ケンシロウの圧倒的愛に触れることすらできなかったからなのだろうか。
圧倒的『愛』ではなく、圧倒的『怒り』に叩きのめされたからなのだろうか。
許されなかったからなのだろうか。
そう考えると、気付けないことは悲しい。
気付かせてもらえないこともまた、悲しい。
しかしそれは本人の問題であって、他人の私が憐れむことでもない。
(ジャギやアミバのことではなくて)
因みにジャギやアミバに関しては、それこそが彼らの魅力となったわけだから全く問題ない。
現実の世界にも、救いようのない『悪』というのは存在するのかもしれない。
そしてその根本には、深い闇があるのかもしれない。
しかし、他人がそれを理解する必要もなければ、憐れむものでもない。
結局は本人の問題で、本人次第である。
人が人を救うなどそう簡単にはいかないのだ。
『悪』に限らず。
ただ、自分が自分の根っこを腐らせさえしなければ自分を救えることはできる。
そして、滅多に腐らない。
知らんけど。
何が言いたいかわからんが、私はどの心理系ブログにも全く感化されなかったが、『ナリ心理学』は違った。
そしてサウザーも、『ケンシロウ』は違ったんだろうなと思った。
そういうのあるよね、という話でした。