愛を説くケンシロウ | 北斗の拳好きすぎるブログ

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たまに他のアニメも語っちゃいます。



今、まだ心理学にハマってる。


心の仕組みが面白い。


私の好きな「ナリ心理学」のナリくんは、ある日突然現れた救世主である。
私にとっては。



だから、そのナリくんとケンシロウがかぶるのだ。

人柄とか、生き様とかそういうのじゃない。全くそういうのではない。そういう何か、共通点があるというわけではない。同じ人間でもない。
共通点があるとすれば、2人とも私を知らないということくらい。

そういうのではなくて、私にとって、この2人がかぶっているというだけである。


ケンシロウは、愛を説けと言われて説いてるのではなく、ケンシロウそのものが愛。
だから、サウザーもカイオウも、愛(ケンシロウ)と接したのだからそりゃ愛とりもどすし、私も愛(ケンシロウ)
が主人公の漫画見てたら、そりゃこっちにも愛が生まれる。

ナリくんもそんな感じ。

ナリくん心理カウンセラーではないらしいが(多分。忘れた。)私は他の心理カウンセラーの人の話を聞くよりも、ナリくんのブログを読んでる方が入ってくる。
何が入ってくるかというと、無意識に欲しているものが入ってくる。
だから、他の人がどれだけいい事を話していても、私にとってはナリくんのブログを読んでる方が、物凄い影響がある。

求めているものそのものに、触れている感覚。

その点がかぶってるのだ。

勿論、書いてる内容自体にも惹かれるから読み続けてるのだが、ナリくんの伝え方、ナリくんの言葉だからこそ、入ってきたものに気付く。


何を言うか、何をするか
ではなく
誰が言うか、誰がするか
である。

最近これ↑にハマってる。


で、私が、何を言いたいかというと。

ケンシロウって凄いなってこと。

結局それ。
またそれ。


乱世を治めた救世主って簡単に言うけど、凄いことしてるよあの人。

ケンシロウという存在そのものが、飢えた心に癒しを与え、悪に染った心に愛を取り戻すのだから。


誰よりも愛深きゆえ、心が壊れてしまったサウザーに、闘いを通して愛を説く。

母を失い、愛を見失い、心を歪めてしまったカイオウに、闘いを通して愛を説く。

2人とも、もっと早くにケンシロウに出会っていたら、あんな罪をおかすこともなかったのだろう。

そう考えると、私がナリくんを知ったように、心に闇を抱える人たちも、自分の本当に求めることそのものに出会えたら、世の中から犯罪はなくなるんじゃないかと思うのだ。


サウザーもカイオウも、まさか自分が愛を求めているだなんて、認めはしなかった。
だけど、愛そのものであるケンシロウと出会った以上、実は欲しかったものに触れた以上、救われないわけが無い。
救われてしまうのだ。どうしたって。


愛を否定するのは何故か、愛を見失ったのは何故か。
それは、愛ゆえに傷つき、悲しみ、苦しむことを知ったから。
愛によって得るものよりも、失うものの方が大きいという経験をしたからだ。

そんな彼らに、「そんなことはないよ」と言ったところで、伝わらない。伝わらないどころか殺される。
だが、愛そのものであるケンシロウは、言葉ではなく「闘い」と、己の「生き様」でそれを与えた。


愛を背負う者の闘いには、敗北はない。


これを証明できるのは、愛そのものであるケンシロウだからこそ。
何故、ケンシロウには証明できるのか。
それは、ケンシロウは愛が到達点である北斗神拳伝承者だからである。






これは、破門されたキムさん。

早い段階でケンシロウと出会ったキムさんはきっと、少しではあるがリュウケンの元で修行した拳を活かし、村を守る優しいお兄さんになってるはず。

破門されたまま途方に暮れていたら、復讐心を燃やしていたのかも知れない。

これを見たトキは、「ケンシロウが1番強くなるかも」
と言っていた。
それはリュウケンからの
「他人の悲しみを知る人間は その悲しみを自分の力に変えることができる」
という教えからである。


もう何が言いたかったのかわからなくなったので、終わります。