シュウの仁星 | 北斗の拳好きすぎるブログ

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『北斗の拳』ではトキに並ぶ人格者であり、ケンシロウが尊敬する人物の一人でもあるシュウ。仁星という名に相応しい生涯を遂げ、漫画と言えど、その凄絶な死に様は私達北斗ファンにも大きな感動を与えてくれた。

ケンシロウの、「貴様の髪の毛一本もこの世には残さぬという台詞には、全読者、視聴者の心が一つになったと瞬間と言っても過言ではない。更に、サウザーに対し「せめて一傷……きさまの体にシュウの拳を浴びせたかった」と、シュウの技で傷を負わせた時にはもう拍手喝采である。


そんな彼の持つ仁星の”仁”ついて少し語りたいと思う。



「仁」とはなにか



「仁」という言葉には深い意味がある。wikipediaによると、仁とは中国思想における徳の一つであり、孔子(儒教の始祖)がその中心にすえた倫理規定、人間関係の基本とあるのだ。

(以下引用)

主に「他人に対する親愛の情や優しさ」を意味しており、儒教における最重要な五常の徳の一つ。また、”仁”と”義”を合わせて「仁義」と呼ぶ。古代から現在に至るまで中国人の倫理規定の最重要項目となってきた。中国の伝統的な社会秩序(礼)を支える精神、心の在り方である。

日本においては、清和天皇が歴代天皇として初めて名前にこの「仁」を用い、皇室の重要な徳目のひとつとみなされてきた。また、「聖帝」と言われた仁徳天皇の事跡の多くは、この”仁”の美徳にかなったものであると思われる。



何せ、儒教の「仁」というのは仏教でいえば「慈悲」、キリスト教で言えば「愛」にあたり、私達人間にとってとても大切なことなのである。その仁を宿星に持つシュウは、まさに「仁」そのもの。シュウの仁を知る為に色々調べるよりも、シュウを知って仁を理解する方が早い位である。

シュウ自身は仁星を、「未来への希望に生きる宿命」と言っているが、決して意味を履き違えている訳ではない。仁という宿星、心を持つシュウにとっての解釈が、それに当たるのだろう。


サウザー推しの私でもシュウは大好き。それは、シュウという人柄、人間性そのものへの尊敬の念に近い。シュウが推しメンだという人は正直多い方ではないのだが、シュウ愛は北斗ファン全員が抱いているだろう。調べた訳じゃないし知らないけど、好きなキャラベスト3の常連枠ではないものの、シュウの為に涙を流した人は数えきれないと思う。ただの「いい人」だけに留まらぬ彼の魅力は次元を超え、シュウへの愛ゆえにサウザーが嫌いという人もいる位である。



「この少年は 誰よりも強く 激しく光る可能性を秘めている」

シュウの信念はこれにある。
ケンシロウの場合は特別なものがあるにしろ、全ての子ども達には光り輝く未来があり、己の力は全てそれらを守る為にあると信じてやまない。もう域が違う。

難なく勝ち進むケンシロウに敗北を教えたというのも、限りない可能性、素質を見出したからこその行動であり、身をもって戦いの厳しさを教えた訳だ。思いやりというのは、優しくすることだけではない。たとえ自分を犠牲にしてでも、相手を思いやる行動をとることが真の思いやりなのである。(因みに、ケンシロウの「戦いの厳しさを教えてもらいました」という台詞はアニメ版のみ。私はアニメが先だったため理解出来たが、原作だけだと、自ら名乗り出て犠牲となった意味がよくわからないことになっている。)

人の心というのは、本来こうあるべきことが理想だ。決して、自分を疎かにしてまでという意味ではない。仁の星を宿すシュウは、これを信念とし闘い続けたのだ。しかし、サウザーの言うように仁星とは悲しい星なのである。




仁星の役割



六星には各々役割が課せられている。世紀末では成り立たずに崩壊しているが、この六星が成立してこそ、北斗神拳と対を成す南斗聖拳となるのだろう。これに関しては、忘れていなければまた別の記事で語ろうと思うが、仁星の役割について少しだけ。


まず、シュウを見る限り、仁星は戦いに不向きである。何故なら、単純に良い人だからだ。

軍を率いてはいるが、拳法家らしき人物はいない様子。おそらく、腕の立つ者は皆聖帝軍に引き抜かれたのだろう。
リゾのように、シュウと共に修行時代を過ごしたという者が他にもいるはずだ。戦力である。 

だが、逆らえば家族が殺されるとわかっていながら、彼らを引き止めることがシュウに出来るだろうか?戦力になるからと、人質を無視して彼らを軍に誘うことが、シュウに出来るだろうか?
無理に決まっている(実際無理だからリゾが聖帝軍にいる)。

それに、いくら正義を掲げた所で、勝ち目のないサウザー、聖帝軍相手では犠牲が増える一方。寧ろ、行けと告げるだろう。

そうして残ったのが、抵抗勢力として聖帝軍と戦うと自ら名乗り出た村人たちである。

ただ、村人たちが集まった所で、徹底された聖帝軍と渡り合えるかというと無理である。それならば、それなりに戦略を立てて抵抗するべきなのだが、知略の面でもサウザーの方が上手だったように、良い人というのは、良い事柄を前提とするために悪知恵が働かない。

たとえ阿修羅となって闘おうが、悲しいかな、仁星は将星に勝てない。宿星の時点で無理があるのだ。


では、南斗聖拳のトップに位置する南斗六聖拳でありながら、戦いに不向きであるならシュウの役割とは一体何なのか。それは、この台詞にある。

「この石は百人の人質の命 そして南斗六聖拳の乱れを防ぐことの出来なかったわたしの痛み」

サウザーは、六聖の乱に責を感じるシュウを愚かと馬鹿にしているが、これこそがシュウの本来の役割だったのだろう。

先述したように、シュウの宿星は本来あるべき”人の心”である「仁」。仁の心を他の六聖に説き、正しい道へと導くことがシュウの役目なのだ。

しかし、シュウはそれが出来なかった。何故なら、南斗最強であるサウザーと出会った時には既に、”聖帝サウザー”が完成してしまっていたからだ。

努力はしただろう。他の六聖拳が各々好き勝手に動いていた時も、シュウはサウザーから目を離さなかった。

だが、最終的には六聖拳崩壊どころか戦乱の時代という、取り返しのつかない事態に。いよいよ手遅れとなり、ケンシロウに全てを懸ける以外術はなくなってしまったのだ。

もしシュウがその役割を果たせていたなら、時代は大きく変わっていただろう。

少なくとも、南斗による暴力や恐怖の支配はなかったと考えられる。南斗108派も、基本的にはそれぞれ六聖拳の傘下となり、たとえその中で野望を抱く者がいたとしても、南斗側にいる以上潰されるだけだ。

そうして団結した南斗は、乱世の統治に務める。
ラオウという壁は大きいものの、犠牲は最小限に抑えられスムーズに事が運ばれる訳だ。

ただ、それだとケンシロウの成長を妨げるどころか、愛だの悲しみだのに心打たれる場面は少ない。正直、何も面白くない。
そう考えると聖帝はやはり北斗界のカリスマ的存在なのである。



「仁は人の心なり 義は人の路なり 」



これは孔子の教えを継承した、孟子の言葉である。この後にも続きがあるのだがそれは置いといて、「義」というのは「仁」があってこそ成り立つのである。

正しい行いをし、正しい路を踏むことを「義」とするのであれば、思いやりの心である「仁」がなくては意味がない。
つまり、まぁまぁの年の差はあっても、シュウとレイは親友であって当然の流れなのだ。

ケンシロウという特殊な存在があったから、レイは本来あるべき義の心を取り戻したものの、南斗六聖拳誕生の時点で定められた宿命は、シュウとレイはプリキュアの如く、二人は一つということだったのかもしれない。

それは、拳においてもそうだと考えられる。レイとシュウの実力は、サウザーやシンより少し劣っているように思うのだ。

”盲目でなければサウザーとほぼ互角”というのは、サウザーの発言からの憶測でしかなく、私の勝手な考えでしかない。原作にはない一コマであるため、盲目となる以前と劇的な差がないとすると、レイと同じ位。

つまり、ラオウが黒王から下りないレベルなのである。
南斗の頂点である六聖拳が、表裏一体とされている北斗神拳の使い手とそこまで差があるのは納得いかない。南斗白鷺拳と南斗水鳥拳、仁・義が一つとなってようやく、各々の力を最大限に引き出せるのではないか…と、勝手に思った。

だって、そうじゃないとあまりにも納得がいかない。私の想いも報われない。仮にそうだとするとユダの役割が気になるが、究極版の表紙にも落選してるしまぁいっか。