はい! 奈央です。
曲り田遺跡にやってきました。
曲り田遺跡は、福岡県糸島市にある弥生時代の遺跡です。
魏志倭人伝に基づけば、伊都国に所属するムラです。
菜畑遺跡と曲り田遺跡
季刊「古代史ネット」第2号よりお借りしました。
古代史(日本人のルーツを訪ねて)HPよりお借りしました。
今、私が居る所は、左下の駐車場と野球場の間の③の場所ですね。曲り田遺跡の発掘場所の中心は、野球場の左上①のあたりですが、なんと、私は、そこに行けなかったのです。
理由は簡単で、野球場に多くの人が来ていて、野球場の反対側に行けなかったのと、駐車場が一杯で道路わきに止めたので、長居できなかったんです。
いつか、もう一回、行ってやるー!
歴史の里 曲り田スポーツ公園 古墳めぐりウォーキング in 福岡HPよりお借りしました。
気を取り直して
さて、この曲り田遺跡がどうして重要な遺跡なのでしょうか?
そう! 前のブログに書いたように、ここで鉄器が出土したからなんです。
弥生の土器と鉄器を訪ねて⑬ 菜畑遺跡で 鉄器 は使用されたのか?
昭和54年(1979年)の調査により、板付I式土器よりもさらに古い土器群(後に「曲り田古式土器」と名付けられる)とともに、
曲り田古式土器 糸島市HPよりお借りしました。
稲作の始まりを裏付ける大陸系磨製石器などの遺物、そして、板状の小鉄片 が出土しました。 大きさが 3.0 x 1.5cm、厚さ4mmで板状鉄斧の頭部と推定されたのです。
藤尾慎一郎 弥生鉄史観の見直し
国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014よりお借りしました。
そして、その鉄片は、佐々木稔氏による金属学的調査により、鉄鉱石原料の鍛造鉄器であると報告され、中国の長江流域の楚からもたらされた鉄器との見解が示されたのです。
曲り田遺跡
いこいこ糸島HPよりお借りしました。
この曲り田遺跡は、菜畑遺跡と同時期の最初期の水田稲作遺跡であり、最初期の水田稲作レベルや遺跡群のことを「菜畑・曲り田段階」と称することがあるそうです。
立命館大学の家根祥多氏は、曲り田遺跡について次のような指摘を行っています。
弥生土器は朝鮮半島の無文土器の系譜をひいており、こうした無文土器を作る人々が稲作を持って渡来したことは確実である。
曲り田遺跡では、朝鮮系の無文土器の甕が30%、縄文土器の深鉢が60%存在する。
このデータから、新たに渡来した人々は、縄文人と同じ集落に住み、村の住民の三人に一人は渡来人であったろうと推定している。
曲り田遺跡では、夜臼式土器文化期の竪穴住居が30棟出土しており、菜畑遺跡の弥生初頭の竪穴住居8棟に比べると、かなり大きなムラであり、渡来人の集団もある程度の規模を有していたと考えられる。
したがって、この曲り田ムラのケースは、まさに南部朝鮮人が、曲り田ムラの縄文人に協力を求めて、移住して来たと考えて間違いないだろう。
このような事例に関して、安田喜憲氏は「縄文文明の環境」(吉川弘文館 p202)の中で、次のように述べています。
「このように、争いを伴わず、新たに渡来して来た人々が、在地の縄文人と平和裏に融合して共に生活をした場合もあった。いな、むしろその方が多かったのかもしれない。在地の縄文人が積極的に渡来した人々を受け入れ、ともに仲良く暮していたと解釈できる事例が多い。古くから朝鮮半島との交流があった北九州では、言語の面においても十分に意志の疎通が可能であったかもしれない。」
以上の様な、朝鮮半島からの渡来人と在地の縄文人とが平和裏に融合したというのは、前のブログで書いたように、この地域に支石墓が分布していることからも言えるのだそうです。
支石墓 古墳めぐりウォーキング in 福岡HPよりお借りしました。
ここ曲り田遺跡には、発掘調査によっていくつもの掘立柱建物の跡が確認されました。
このモニュメントは、1号掘立柱建物を参考に考案されたもので、当時の建物空間を表現しているそうです。
遊んじゃおーっと!
ブーン。 (天空の城ラビュタのフラップターのつもり)
両手を一杯広げても大丈夫なくらい広い間ですね。
クルリクルリとフラップターは小回りが利くのです。
掘立柱をの中を縫うように飛んだフラップターが帰ってきました。
ラピュタを知らない方は、アホとしか思えないでしょうね。
(marine: 知っててもアホにしか見えん。
そうかなあ?
でも楽しいよ。
それじゃあ、今日はここまででーす。
次回は、ここ曲り田遺跡で発掘された鉄器のその後のことをお話しします。
それじゃあ、またね。