はい! 奈央です。

 

 

やっと、シリーズタイトル鉄器の話しに入っていけます。

 

 1988年、宮原晋一菜畑遺跡弥生早期山ノ寺式土器が出土した地層で水田跡に使われていた大量の杭の先端が、鉄器で加工されていたという調査結果を発表しました。

 

 

菜畑遣跡の水路と井堰 台地への刻印HPよりお借りしました。

 

 その後、2007年今村峯雄氏と藤尾慎一郎は、福岡県小郡市力武内畑遺跡第7次調査の際に出土した弥生前期前葉(板付Ⅰ式新段階)に比定された井堰の杭や矢板12本の木材試料を調査し、矢板に鉄器使用の加工痕を確認したと報告しました。

 

藤尾慎一郎ら 弥生時代井堰の年代 福岡県小郡市力武内畑遺跡の年代学的調査 国立歴史民俗博物館研究報告 第153集 2009よりお借りしました。

 

 菜畑遺跡での宮原氏の説は、弥生早期鉄器杭の先端を尖らせる工具として使われ、その後、鉄器農具を作るようになるまでには、弥生III期までの長い時間が必要だったということだそうです。

 このことは、弥生時代の長期編年説と併せて考えると、世界の歴史上、とても特異な状況を意味するのだそうです。

つまり、ありえない状況であるということです。

 ① 青銅器時代と同時期、あるいはより早い鉄器の使用

 ② 中国大陸、韓半島での鉄器の歴史に比較してあまりにも早い鉄器の導入

 

これらの問題から、その後の議論の紛糾に発展していきます。

 

 

 当時、宮原氏の説は、それほど突飛な話でもなかったようなのです。

 なぜなら、歴史を遡ること33年1955年熊本県斎藤山(さいとやま)遺跡から、板付Ⅰ式土器夜臼式土器に伴って、鉄器が発見され、弥生最古の鉄器 として位置づけられたのです。

 

藤尾慎一郎 弥生鉄史観の見直し 

国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014よりお借りしました。

 

 1961年杉原荘介は、板付遺跡板付Ⅰ式期金属製の道具で掘削したが見つかったと報告しています。

 また、同年乙益重隆が、「私はかつて、板付遺跡の溝底に印された鋭い刃物の痕跡 を実測した際に、およそ刃幅が6cmから7cm強を有する金属器を想定したことがある。」と報告し、斎藤山遺跡出土の鉄器の刃部の幅に近いことを報告したのです。

 (ただし、20年以上経った1980年代福岡市教育委員会による板付遺跡環濠の再調査ではそのような痕跡は見つからなかったそうです。チュー

 

 昭和54年(1979年)菜畑遺跡にほど近い、伊都国の石崎・曲り田遺跡が発掘調査されました。

 この調査により、竪穴住居が30棟、支石墓1基、弥生時代前期の甕棺墓8基などが発掘されました。

 

季刊「古代史ネット」第2号よりお借りしました。

曲り田古式土器 糸島市HPよりお借りしました。

 

 そして注目すべきは、板付I式土器よりもさらに古い土器群(後に曲り田古式土器と名付けられる)とともに、稲作の始まりを裏付ける大陸系磨製石器などの遺物、そして、板状の小鉄片が出土しました。 大きさが 3.0 x 1.5cm、厚さ4mm板状鉄斧の頭部と推定されたのです。

 

藤尾慎一郎 弥生鉄史観の見直し 

国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014よりお借りしました。

 

 佐々木稔金属学的調査により、鉄鉱石原料の鍛造鉄器であると報告され、中国の長江流域のからもたらされた鉄器との見解が示されたのです。

 そう、これこそが日本の水田耕作の歴史弥生の争乱の時代の幕開けと関連しているみたいなんです。

 このことについては、後の番外編でお話ししますね。

 

日本に渡来した2種類の米の源郷 

日本古代史ネットワークHPよりお借りしました。

 

外国からの水田稲作技術の導入と原住民との衝突・・・

 

だんだんと、弥生早期九州地域の情勢が慌ただしくなってきた雰囲気が分かってきました。

そのあたりのことは、後のブログに譲るとして、もう少し、菜畑遺跡体感しましょう!

marine: また、走るんじゃない?)

まさか、失礼ね!

これは、屋外に再現された竪穴式住居です。

そして、こちらは支石墓(しせきぼ)です。

これは、宇木汲田遺跡で発掘されたものをこちらに移したんだそうです。

えへってへぺろ

こんな広くて気持ちいい芝生を見てると・・・

やっぱり、走りたくなっちゃうなあ爆  笑

marine: ほーらね。)

気持ちいいー!照れ

弥生早期の人たちもこんな風にここを走り回ったのよね。

あー、すっきりした。ニコニコ

それじゃ、次の目的地に行きましょう。

次は、福岡の曲り田遺跡に行きまーす。

それじゃ、またねー。