世の中のしくみ、ってどうなっているんだろう。

そんな疑問に簡潔に答えられるのは聖人、狂人、詩人。

“近代”は複雑だ。

産業革命、全てはそこから始まった。

人権という思考もそこから始まった。

資本主義社会は搾取するもの、されるものの生々しい構図だが、市場という“自由”が、そして民主主義という“制度”が負の部分を覆い隠している。

身分制社会から脱却するために革命は起きた。
虐げられていたものが、虐げられていたことを自覚した瞬間だ。

自覚はルサンチマンとなり、王政、帝政を破壊する運動となる。


この自覚が、日本社会には存在しない。
お上主義、言い換えれば丸投げ。
それが官僚帝国を築いた。
その責任は誰?
責任押し付けも日本人は好きみたい。

国民主権の民主主義では国民にある。

政治に興味を持たない=丸投げ
という構図だが、そうなっているんだということにも気付けないような社会がある。
官僚帝国の思うがままだ。

そんな中で生まれてくる政治家の多くは各分野の利権の代表者に他ならない。
いわゆる属議員だ。
当選回数で序列が決まる大臣のポスト。
派閥という名前だけ消しても今だ存在するのは利権集団。

それぞれの利益のために活動する、それは否定されるべきことではない。
利益を出し、豊かな生活をしたいのは誰もが望む自然な欲求。

しかし、その利益が一部の受給者で、多くの人間が享受できない社会とはどうなのか?
そこが問題にすべきところだが、利益、利権といった段階で、アレルギー反応を起こすことがある。
これは危険な思考回路といえる。
中身ではなく、言葉で真実を見失っているからだ。

資本主義社会は利益を出して経済活動をしなければ成り立たない社会だ。

高福祉社会が共産主義、社会主義とするのは早計だ。

共産主義、社会主義が何よりも柔軟性に欠けるシステムであることは歴史が証明した。
理想だけでは現実はついてこない。
欠陥だらけであろうが、資本主義が今のところ社会を柔軟に動かすシステムであることは事実である。

問題の根源はどこか。

人口だ。

暮らしやすくなれば人口も増える。
これだけの人間が暮らすには、当然ながら共存がテーマになる。

平和な社会には共存の認識が不可欠だ。

その認識が薄いと、豊かだが不幸な社会を作り出す。
そう、今の日本だ。

幸福度アンケートがGDPに比例しない国。

自殺者年間3万人を維持する国。

この3万人、今回の震災の死亡、行方不明者の合計よりも多い。

これって凄いことだよね?

このことに真剣に向かい合えない、
臭いものには蓋。
出る杭は打つ。
事なかれ主義。

これらで社会の隅に追いやられる人は、人口のパーセンテージから言ったら少数であろう。
これが存在しなかったかのようになっている社会が、ますい、と思うのだ。


負の部分は存在しない。
原発事故は起こらない、安全だ。

似ている・・・

それを伝播するのは何を隠そう、大手メディアのテレビ、新聞だ。
そこに存在するのは強大な利権。
飼いならされたマスメディア。

日本には地方紙はあるが、大手に飲み込まれている。独立していない。
言論は闊達に行われない。
どの新聞もテレビも同じ記事。
これは実はおかしいこと。
でもそれに気付けない。

制度上、表現の自由があるが、その根源的な意味を表現できていない。

政治に理念がないのと同じく、思考停止的な制度重視が世界から意味をイレースしている。


アイデンティティは、意味のない世界からは生まれない。

だから日本はアイデンティティなどないのだ。

熱しやすく冷めやすい。
恋愛ではないが、こんな曖昧な感情によって国が動いている。

根源が希薄だから、すぐに後悔し、断絶し、生まれ変われる。
明治維新、それが紛れもない日本人の姿だ。
たかが数年でどうしてちょんまげが七三になれるのだ?
何もない証拠だ。

トレンド、流行と同じ。
表面だけの世界。

同調圧力によって迎合する。
ブルセラ、援交もそれ。

そんな誰もが興味を惹くテーマで日本社会を解説した社会学者、
それが宮台真司氏だった。

尊敬する人物に挙げているのはそういった理由です。

興味のある方は是非彼の著作を読んでみてください。





始めに断っておきます。
私は学者でも専門家でもなく、一介の日本国民です。


震災以来これまで何度か考えを述べてきました。
これから現時点での考えをまとめたいと思います。


個々の事象を責めたり、擁護したりは全体を見失うので避けたいと思います。

国難に対処するには国の判断がが重要性を持つ。
かつて原発を推進したように、国が方向性を示すことが構造を決めるレベルのことがあります。

歴史を辿れば、原発が日本にとって避けられない政策であったことは否定できません。
もう、そのことはいいと思うのです。
しかし、その経緯を知ることは避けて通れません。

産業発展のために電力は欠かせないエネルギーです。
日本は今も問題にされてますが、独占の電力会社が発電と送電を共に支配しています。
戦後復興、高度経済成長時にはそれでよかったかもしれませんが、その後は弊害を生みます。
しかし、市場主義になりすぎると、アメリカのエンロン事件のように混乱を呼ぶこともあります。
電力とは、かなりナイーブな産業といえるでしょう。

日本は実際起こってみないと変わらない、という体質があるように思えます。
理屈では分かっているけども、まあ、今が大丈夫ならいいんじゃない?
といった保守的というか、楽観的というか、構造の闇の部分が見えても事なかれ主義で、現利権を死守する方に意識が向かいます。
外国も多かれ少なかれ利権にしがみつくのは、人類共通のものかもしれません。
いや、外国の方が凄いかもしれません。
ではどうして、外国は早くから対策が実行できているのでしょうか。

その大きな要因の一つにジャーナリズムの成熟があると思います。
それはジャーナリズムは権力(リヴァイアサン)の監視機能を担う、というテーゼが生きているからだと思います。

かつて報道写真家ロバート・キャパが、出版社の検閲で戦場の悲惨さの真実を報道できないジレンマを解消するために、自ら“マグナム”を創始ました。
写真家の地位が低かった時代に、マグナムが地位向上に大きく貢献しました。
スペイン内戦で、兵士が撃たれた瞬間の写真は有名だが、これが意味するものはその後の戦争をも変えたことでしょう。

写真技術が報道世界を一新させました。
瞬間を映し出す能力は、真実を伝えると共に多くの誤解をも生んだように、写真は諸刃の剣でもありました。
映像は静止画であれ、動画であれ、人に与える影響は多大です。

出版社やマスコミ関係にとって広告収入は経営にとって重要であることはわかります。
しかし、目的が手段になってしまっては本末転倒です。
目的は真実を伝える(権力の監視)であり、広告収入を得るためではありません。

これが核の傘の中、おかしくなってしまった。
ジャーナリズムは権力におもねる堕落を犯しました。
それを可能にしたのが
記者クラブ制度
です。

記者クラブとは、調べてもらった方がよく分かると思いますが、
簡単に言うと、新聞、テレビという大手メディアが会員となり、彼ら独占の記者会見を開いている、ということです。
政府の重要な記者会見は全て記者クラブ主催であり、その中にフリーのジャーナリストは参加できない状態が今の今まで続いてきました。
その蜜月の中で慣例となっていったことには枚挙に暇がないかもしれません。
要するに、マスコミは政治家に気を配り、情報という名の連絡事項を手に入れ、新聞、テレビで報道の名の下に垂れ流すこと。
政治家ならまだしも、検察発表も同じで、司法世界もこの利権構造に組み込まれていました。

私たちが知性を得る手段として新聞を読む、ということを推奨されていましたが、読まされていた情報はこんなところからできてきた臭いものには蓋の世界であり、広告主を一切侵害しない情報でしかなかったのです。

・・・

じゃあ、変えれば?

そう簡単にはいかないのは、この原発問題を抱えた中でも変わらない現実を見ればわかると思います。

政治主導も思うように行かないのは、とても複雑に巧妙に利権者が網を張り巡らしているからだと考えます。

政治家ももっと頭が良くなると同時に、全体を俯瞰できる人物が必要かと思います。

こんな中でも少しずつ変化が見えています。
ネット社会を通じて、ようやく現実に気付く人が増えてきたように思えます。
主にツイッターを通してですが、そこから派生して各サイトに飛んで、情報収集をする。
その流れの中で腐ったジャーナリズムに気付く人が確実に増えていると感じます。

私自身は2008年、秋葉原殺傷事件を機に見出した
ビデオニュース
http://www.videonews.com/
を機に知ることが出来ました。

今回の原発事故の際も、確実な情報をここから得ることができました。
テレビ、新聞は見ません。
ネットでテレビ、新聞の報道内容は見ます。
それで十分です。


マスコミが監視機能を失った世界で、ネット言論の社会は価値を帯びてきました。
しかしそこにも圧力がかかり始めました。(法律を通してしまいました)
いわゆるデマを封じ込めるため、だそうですが、安全デマを流していたのはどこの誰でしょうか??
パニックを起こさないため、といういいわけがあるようですが、果たしてそうでしょうか?
パニックの定義を再確認し、それに該当するかを考えてみてください。

政府は早くにスピーディーの結果を公表して、非難をさせるべきでした。
そのために高いお金を投じて導入したのに、このときのために導入したはずなのに、何なんでしょうか?
それで消費税アップなんて到底納得できませんね。


福島に関しては、徐々に実態が明るみになっていますが、
非常に悲観的な状況でしょう。
チェルノブイリは原子炉が爆発したので、それで飛び散った放射性物質を辿ればよいだけですが、福島はなまじ爆発しなかったために、日々多かれ少なかれ放射性物質が大気上、海洋に流失しています。

その量を測るのは技術的に難しいでしょう。
周辺の作物などからの検出を強化して計るべきと思います。
海洋汚染はもはや不明。
広すぎて、どう展開していくのか分かりません。
地上に関してはしっかりと検査していくべきでしょう。
福島産を全部出荷停止にするのではなく、検査を綿密にして、いいものは出す、という風にしなければ安心はやってこない。
肉も牛だけターゲットにされているようですが、おかしなことであることはネット言論の中では常識です。
上杉隆氏はスケープビーフ、と呼んでいますね。

とにかく政府は隠したい。それはパニックを起こさせないため?
そして大手マスコミを手なづけているのでそれが可能だと思っています。
そして大手マスコミも忠実な動きをしています。

人口の多くは今だテレビと新聞を情報収集手段として頼り、そして信用しています。(ネットは信用していません)
この壁を突破しないと、中々この動きは変わらないでしょう。
もちろんネットは全て正しいなどと言っていません。
むしろネットの方が流言飛語様々あります。
しかしネットリテラシーのある人はその中から確実に得るべき情報を得ます。
それがオピニオンリーダーとなり、伝播します。
それでいいのです。


福島は全く終息していません。
他の原発も使用済み燃料の行き場を失ってアップアップです。
地震活動は活動期に入っています。
日本で大地震はどこで起こってもおかしくありません。
今回福島の海洋ではなく、内陸部を震源として大きな地震が起こっています。
これはまったく記録にないところで、即ちそれが証明しています。


原発を止めても電力をまかなえる。
それはバックアップがあるからです。
燃料なんて調達すればいいし、それにかかる費用であれば払ってもいいと思うでしょう。
しかしそれは一時的なもので、今後のエネルギー構想を打ち出して、その中でやっていくこと。

原発は儲かる、そこに関わる人は、それはそうでしょう。
しかし、コストにしてもよくよく調べると全く高価なもので、電力会社発表のデータをそのまま出す餌付けされたマスコミ情報など糞でしょう。
しかし、世の中でもそれが真実なのです。
多くの人がそれを信じる構造になっていますから。

これはもう、歯がゆさいっぱいです。
言論の自由は曲がりなりにもできているのに、伝わらない。
民主主義の負の部分でしょう。
平和が続くと去勢されてしまう。

こんな中でも信念で活動されている方が沢山います。
そういう人たちを応援することくらいしか、今の自分には出来ません。
そして、自分が発言し、発信すること。


エネルギーシフトは産業革命と同じくらい、社会構造を大きく変えることになります。
それによって職を失うもの、得るもの、双方があるでしょう。
そのせめぎあいの中で、
将来のビジョンが、理想が最終的に必要になってくるのだと思います。
そしてそれが実行できるのは、もはや国しかないのです。
国を動かすのは民主主義では国民です。

国民がアホなら、国もアホなんでしょう。

自分は、こんな国でも日本が好きです。
嫌なとこも沢山あるけど、日本がいい。

必要なのは情報革命。
それが第一歩だと思います。





涼宮ハルヒの憂鬱・第2期において、賛否両論、いや、否定的意見の多かった『エンドレスエイト』
この話は何と8回も“繰り返された”
時にしておよそ2ヶ月間。
私たちは8回も同じものを見せられた!
・・・
と怒りの声が上がっていた。
噂された『涼宮ハルヒの消失』が放送されることはなく、エンドレスエイトに8回を費やし、『涼宮ハルヒの溜息』(文化祭の

ために制作されたSOS団の映画撮影記録みたいなもの)に5回。

新しい話は笹の葉ラプソディくらいしかないのか!
と、怒りは頂点に達するようであった。

さて、前置きはこれくらいにして、エンドレスエイトとは何だったのか、というより、
“エンドレスエイトの楽しみ方”
を見出したので書いてみたいと思う。
あらかじめ言っておくが、これはあくまで私の主観であり、それ以外のものでもなんでもない。
共感できる人がいたら、仲良くなれるかもしれない。


◆第1話

☆見どころ・ポイント
物語の始めの話なので、別段特徴的なものはない。
デジャブ、既視感もなく、楽しい夏休みが進行。
盆踊りで、長門がお面を買うが、ここではキョンは買ってあげようとはしない。


☆余興
冒頭のハルヒの電話、オーバ~に対してや~だ~、とキョンがつぶやく。


◆第2話

☆見どころ・ポイント
この回は15498回目のターン。
プール後の喫茶店ミーティング後、キョンは長門に声をかける。
盆踊りでキョンは長門にお面を買ってあげてもよかった、と思う。実際買ってあげようとはしない。
繰り返しに気付く第1回目。
天体観測で、これから毎回交わされるキョンと古泉の会話、I love you とささやいてみてはどうですか?
バッティングセンターで、キョンが長門に、何故繰り返していることを言わなかったかを訪ねる。これ以降もそのシーンがある。


◆第3話

☆見どころ・ポイント
15499回目
キョンの妹、キョン君電話~を2回言う。
プール後の喫茶で古泉リストをチェック。
盆踊り、キョン、長門にお面を買ってあげようとする。
盆踊り、長門、お面を被り、そのまま花火も。
公園で古泉、「私たちは同じ時間をループ云々…」を3回繰り返す。
これはエンドレスエイト3話目という意味か。


☆余興
出だしのハルヒの電話、オーバ~に対して何だ~、とキョンがつぶやく。
古泉、プールシーンでゴーグルを付けており、キモい飛び込みを披露する。


◆第4話

☆見どころ・ポイント
15513回目
全体的に暗いBGMと演出。
冒頭のハルヒの電話、自転車で云々をキョンが言う。
待ち合わせの駅、ハルヒが「失った時間は云々」言ってる間、キョンは上の空で聴いている。(エフェクトでハルヒの声は小さ

く、どんよりしている)
プール後の喫茶で、古泉がリストに目を通した後、キョンと目が合う。
公園で、古泉は「涼宮さんでしょう」というところにハルヒのカットが入る。


☆余興
ハルヒ、水着も浴衣もカチューシャしていない。
長門、クリームソーダを飲まないで、吹いてブクブクさせている。
キョンはプールも昆虫採集も変な帽子を被っている。


◆第5話

☆見どころ・ポイント
15521回目
明るい雰囲気
浴衣を買うシーンがない
バッティングセンターでのキョンと長門の会話は肝試しになっている。
ラストの喫茶店、ハルヒのリストに落書きをする。(8の数字を書いている)
その後ハルヒが席を立って、出口に向かうまでのシーンを4回繰り返す。
それは次回が15524回目であるので、それに繋がるものと考える。(15520+4)

☆余興
古泉、ビキニ水着。
バイト終了後、キョン、ゼロ号機の気持ちがよく分かる的な発言をする。聞き取り不可能言語あり。
夜中の呼び出し電話シーン、キョンふざけて、「おかけになった電話番号は・・・」と言う。
公園で古泉、かっこよく腕時計を見せる


◆第6話

☆見どころ・ポイント
15524回目
プール後の喫茶店帰り、キョンと長門の間に長い沈黙がある。
盆踊り、長門は買ったお面を被るが、すぐに外す。


☆余興
冒頭自宅、キョンタンクトップ。
プールでキョン、古泉、潜水対決。
古泉浮き輪を持参。
プール後喫茶、みくるタオルを顔に当てている(ハルヒにボールを食らったため)
バイト後、キョン「アッザムリーダーから開放された気分」とガンダムネタを披露。
公園、古泉、キョンともにふざけて女子高生風にしゃべる。
天体観測、キョン「その言葉を待っていたぜ~・・・なんてするか!」
古泉も大分変になってきている。


◆第7話

☆見どころ・ポイント
15527回目
冒頭、おかしい、と3連発、「市民プールというより庶民プールだな」を2回繰り返す。
次回が15532回なので、それに通じるのかと思う。
高校野球のテレビはハレーションで真っ白。
プール、盆踊りでデジャブシーンがモノトーンとなる。


☆余興
みくるデコ出し。
盆踊り、古泉甚平着ている。
夜のTEL、みくるろれる回らず。
古泉テンションMAX
天体観測、I love you・・・支配からの卒業!(キョン)


◆第8話

☆見どころ・ポイント
15532回目
ラストの回です。
待ち合わせ駅、キョン、みくるに「あなたのために来ました!」発言。
喫茶でハルヒが出すリストの表示が少ない。


☆余興
公園シーン、みくるがまったくろれつが回っていません。


以上、自分的なエンドレスエイトの楽しみ方です。
演出も大分違っていたし、同じシーンでもカット割がまったく違う。
そして各話、肝になるカットやシーンが必ずあり、少し先に進んでいる感覚を無意識的に感じることができたのではないか。
だから、自分は皆が言うほど退屈や怒りを感じなかった。
いや、むしろ楽しんだ。

さて、これから夏本番、私たちの夏は何回繰り返されるのだろうか??
いや、今は何回目をループしているのだろうか・・・

中二病的妄想で締めさせていただきたいと思います。


社会の構造とは何か、
日本社会の構造とは何か、

それぞれ歴史を経て、変化しているもの。
その変化には必ず理由がある。

日本はどうして原発震災が起こりながら、このような動きしかできなかったのか、そして今もその場しのぎ的な先の見えない判断しかできないのか。

簡潔に、しかし鋭く、
宮台真司氏が解き明かしてくれている。

是非一読を薦めます。

「どう生きるのか」という本当の問いに向き合うとき
http://news.livedoor.com/article/detail/5566602/


東日本大震災が起き、人々の思考回路も少なからず変化をしたことと思う。
阪神大震災は関西圏の人々を変えたかもしれないし、中越地震は新潟という狭い範囲ではあるが何かしらの変化をもたらしたかもしれない。


しかし、今思う。
大きな変化の潮流を期待できるほど変わってはいないのではないか、と。

偉そうに言う私もその1人かもしれない。
いや、変わりたいが、変われない、変えるだけのエネルギー、モチベーションを持ち得ない、というのが正直な気持ちか。


退屈な日常が永遠に続くかに思えたものが、3.11で明らかに変わったはずである。
しかしそれがリアルに今だ感じることが出来ない。
原発震災についてはずっと関心を持って情報収集してきたが、これほどの悲劇を見ながら、自分自身は行動に踏み切れない。


怠惰な平和生活に慣れすぎてしまい、強制がかからないと何も変われない体になってしまったのか。

それほど甘美な怠惰を享受してしまった以上、快楽の僕となるしかないのか。


そうではないと思う。
満たされた欲望は必ず次の次元を求める。
それを欲しなくなったとき、人は生きる意味を見失う。


視覚で満たされたものは聴覚へ、聴覚を満たした後は触覚へ…
五感を満たしたものは脳レベルの無限空間に足を踏み入れる。


脳は未知数。
しかし不確。


脳のスペックには認知の限界はないのだろう。
いかようにもできる、と。


これは幽かな希望ではないだろうか。
飽くなき欲望の果てが無いことを物語っている。

人間はもう少し生きることが許されている。