東日本大震災が起き、人々の思考回路も少なからず変化をしたことと思う。
阪神大震災は関西圏の人々を変えたかもしれないし、中越地震は新潟という狭い範囲ではあるが何かしらの変化をもたらしたかもしれない。


しかし、今思う。
大きな変化の潮流を期待できるほど変わってはいないのではないか、と。

偉そうに言う私もその1人かもしれない。
いや、変わりたいが、変われない、変えるだけのエネルギー、モチベーションを持ち得ない、というのが正直な気持ちか。


退屈な日常が永遠に続くかに思えたものが、3.11で明らかに変わったはずである。
しかしそれがリアルに今だ感じることが出来ない。
原発震災についてはずっと関心を持って情報収集してきたが、これほどの悲劇を見ながら、自分自身は行動に踏み切れない。


怠惰な平和生活に慣れすぎてしまい、強制がかからないと何も変われない体になってしまったのか。

それほど甘美な怠惰を享受してしまった以上、快楽の僕となるしかないのか。


そうではないと思う。
満たされた欲望は必ず次の次元を求める。
それを欲しなくなったとき、人は生きる意味を見失う。


視覚で満たされたものは聴覚へ、聴覚を満たした後は触覚へ…
五感を満たしたものは脳レベルの無限空間に足を踏み入れる。


脳は未知数。
しかし不確。


脳のスペックには認知の限界はないのだろう。
いかようにもできる、と。


これは幽かな希望ではないだろうか。
飽くなき欲望の果てが無いことを物語っている。

人間はもう少し生きることが許されている。