乃木希典 | 本の音色を聴こう♪

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『アナログ力のすゝめ 結果を出す人がやっているアナログ仕事術』出版

 

ちょいよしNO.2984
勉強忍耐は、 才力智徳の種子なり

 

 

今日のちょいよし本

 

2004年8月30日第刷1発行

 

Amazon紹介

 

旅順で数万の兵を死なせた「愚将」か、自らの存在すべてをもって帝国陸軍の名誉を支えた「聖人」か?

幼年期から殉死までをつぶさに追い、乃木希典の知られざる実像に迫る傑作評伝

 

 

目次

 

1 面影
2 国家
3 徳義
4 葬礼

 

 

乃木希典の人物像

 

乃木希典は日露戦争時に203高地の激戦で多くの犠牲祭者を出した指揮官として有名です。

その難局を打開した児玉源太郎と比べられ、愚将と評されることもありますが、後年は昭和天皇の教育係にもなった立派な人。



明治36年に読売新聞が次のように評していて、それを読むと彼の人物像が鮮明に浮かんできます。

↓↓↓

鉄砲玉の怖くない人、部下を愛する人、清廉潔白の人、古名将の風格のある人、日露開戦せば真先に引っ張り出したき人なり(P.13)

 

古名将とは、武士の風格を残しているということです。

名君といった感じでしょうか。

 

 

学者になりたい

 

乃木家はもともと長州藩の侍医でした。

しかし、武士になることを熱望した父親が周囲を説得して武士に転身しました。

 

ところが、息子である希典は生まれつき身体が弱く内向きな気質…

武士に向かないと思いつめて、学者になろうと決心します。

そして、その思いが募って16歳のときに家出、あるところに向かいます。

 

その行き先がスゴイ!

なんと、あの吉田松陰を教育した玉木文之進(松陰は甥)の所なのです。

 

長府の家を出て、萩にある文之進の家に着いたのは夜でした。

 

しかし、事情を聞いた文之進は「武士の家に生まれて武芸を好まずば、百姓をせよ」と激怒しました。

さすが、松陰を縁側から蹴落とすほどの激しい教育をした文之進です。

 

希典は面食らいます。

武士をやめて学者になると言ったら、百姓になれと言われてしまったのです…

 

 

そんな状態で…分が過ぎる

 

とぼとぼと踵を返す希典を婦人が追いかけて、文之進に内緒で家に泊めました。

そして、おもむろに『論語』を持ってきて希典に渡して、読んで御覧なさいと言います。

 

ところが、その時の希典はほとんどまともに読めなかったのです。

 

夫人が諭します。

↓↓↓

此の如き事にて学者にならんとは分に過ぎたり。翁の許されざるも誠に理あり。御身若しいよいよ農業に従事せんとならば、自分は御身の為に日本外史などを読みやらん(P.52)

 

論語もろくに読めないような、学問と真剣に向き合っていない状態で学者になりたいとははなはだ分が過ぎていませんか。文之進が許さないのも理に適っています。あなたは若いのだから、まずは真剣に農業に励んでみなさい。そうすれば私はあなたのために、日本外史(日本の歴史)などを読み聞かせてあげましょう。

 

 

玉木文之進の元で

 

厳しい口調ですが、そこには温情がありました。

こうして希典は文之進のもとで農業に従事しながら学問をすることになります。


ちなみに、希典が文之進のもとで学問を始めたのは、松陰が安政の大獄で命を落とした5年後でした。

松陰の話は夫妻から何度も聞かされたといいます。

それゆえ、希典の生きざまにおいて、実際に会ったことはなくても、松陰の人物像はありありとあったでしょう。

それゆえ、彼は松陰の影響が色濃いのです。

 

松陰を松陰たらしめたのは玉木文之進であり、乃木希典を乃木希典たらしめたのもまた玉木文之進なのです。

 

松陰も優れた教育者ですが、玉木文之進もまたそうであったのですね。(その激しさは現代では行き過ぎたしつけかもしれませんが…)

 

 

今日のちょいよし

 

勉強忍耐は、 才力智徳の種子なり。

 

 

文之進の元での学問は、忍耐以外の何者でもないような…