日本の歴史を動かした女たち② | 本の音色を聴こう♪

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『アナログ力のすゝめ 結果を出す人がやっているアナログ仕事術』出版

 

ちょいよしNO.2677
世治まり 民やすかれと 祈るこそ 我が身につきぬ 思ひなりけれ

 

 

今日のちょいよし本

 

2009年3月6日第1刷発行

 

Amazon紹介・目次

 

日本の歴史を動かした女たち①を参照ください。

 

 

南朝史観

 

今日は、昨日書き損ねた「南北朝」についてです。


てっきり天皇家の正統は「南朝」だと思っていたら「北朝」だったのですね…びっくり

みやちゃんを初め、なぜ、日本人のほとんどが「南朝」が正統だったと勘違いしているかというと、それは「南朝史観」によるものです。

別の言い方をするなら「太平記史観」です。

 

ただ、後醍醐天皇が三種の神器をもって吉野に閉じこもっていたからです。

 

 

それだけです…


「三種の神器」の継承は非常に説得力があるので、それはそれでいいとは思いますが…

 

それを利用したのが明治政府だったのです。

明治政府は王政復古をやりました。

徳川幕府から朝廷に政権を奪い返したことが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して建武の新政をやった事績となぞらえるとわかりやすくて、維新を正当化することができたのです。

 

 

南北朝の起こり
 

南北朝の起こりは、ある天皇のワガママでした…

後嵯峨天皇の後に後深草(ごふかくさ)天皇が即位しましたが、弟の方が可愛いくてしかたがない後嵯峨天皇は、後深草天皇を早々に退位させて、弟を亀山天皇として即位させました。

そこから、後深草天皇系統が北朝、亀山天皇系統が南朝となり、2つに分かれてしまったのです。

 

それでも、北朝と南朝から10年ごとに交互に天皇を出すという約束があって、うまくやっていたわけです。

それを反故にしたのが、南朝の後統である後醍醐天皇です。

 

 

後醍醐天皇の主張

 

苦難の末に鎌倉幕府を倒して建武新政を実施した後醍醐天皇は、革命に尽力した武士たちの功績を認めようとせず、近親の公家たちを優遇したため、不満が爆発、足利尊氏の離反に遭い京都を追われてしまいます。

そのときに後醍醐天皇は「三種の神器」をもって吉野に逃げ込み、当地に立てこもって南朝政権(吉野朝廷)を立てました。

「三種の神器を持つ自分たちこそが正統な皇系だ」と後醍醐天皇は主張したのですが、朝廷としての実体はなく、統治権もないに等しい有り様でした…

 

京都に天皇がいなくなるという事態が起きたため、足利尊氏は三種の神器を伴った皇位継承ではないけれども、北朝(兄系、正統)から天皇を立てました。

このこと自体は、北朝南朝から交互に帝位につく約束に拠ったため、なんら不自然ではないといいます。

吉野にあって統治権を発揮しない天皇より、北朝の天皇の方がよっぽど朝廷としての実体があったといいます。

 

その後、南北朝統一の時に、三種の神器が北朝に渡され、皇統が本来の北朝(兄側)に戻ります。

現在の天皇、昭和天皇、大正天皇、明治天皇は北朝系列の天皇なのだそうです。

 

 

明治政府のミスリード

 

後醍醐天皇に忠誠を誓い、数々の伝説を遺した楠木正成
 
南北朝統一以来、現在までずっと天皇は北朝系です。
なのに、皇居の前の広場には、北朝に敵対した楠木正成像が北朝の皇室を守るがごとく堂々と建っている。
 
このゆがみは、明治政府が南朝を正統としたことによるという。
しかし、楠木正成が忠臣であることは変わりません。
 
皇統系譜には、今上天皇まで125代ありますが、南北朝時代の北朝の天皇5代は数えられていないという…
脇に付け足しのように加えられているだけ…
対して、朝廷としての実体のなかった南朝系の天皇が正統として数えられています。
99代の長慶(ちょうけい)天皇にいたっては、即位していたかどうかも確かではないという…
それが認められたのは80年前…大正15年なのだそう…

600年前のことが80年前に決められた…

歴史って不思議ですびっくり

 

 

今日のちょいよし

 

世治まり 民やすかれと 祈るこそ 我が身につきぬ 思ひなりけれ

 

 

後醍醐天皇の歌。

世が治まり民が安穏であれと祈ることこそが、私のつきることのない思いなのだ、という意味。

 

 

今日もいいことが学べたなぁ
みなさまには心から感謝申し上げます
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