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対人関係では、相手のちょっとした言動がきっかけで急に不信感が芽生えること、ありますよね。


わかり合えていたつもりが、いきなりわかり合えなくなったように感じてしまう。

 

恋人同士や夫婦間であっても、往々にしてこのようなことに陥ってしまう場面があります。


「相手の食べ方や箸の持ち方が気に入らない」と言って婚約を解消したり別れたりする人もいたりします。

 

決別のきっかけとしては理解できる話ですよね。おそらく、「食べ方や箸の持ち方」に象徴される「何か」があったはずなのです。

 

個人の倫理観などにかかわる言動となると、不信感は更に募ってしまいます。


例えば、私は被災地に義援金を送ったのにパートナーは、かたくなに送る必要は無いと言い張って聞かない。

 

こんなに冷たい人だったなんて。人として許せない。「人として」という差別的な言葉が出てくるとパートナーとの距離は絶望的に拡がってしまいます。

 

ついにはパートナーでは無くなる。わかり合えない、いや、絶対にわかり合いたくもない「やつら」の一員になってしまうのです。

 

同じ文化のもとで育った日本人同志でなのであるのならば、独特の「遠慮」と、必用以上に相手をおもんばかった言葉や態度で直ぐに決別にはならないでしょう。

 

日本人には、感情的になるのは無益で合理的ではない、自分が主張せず同調を優先することで収まるのであればその方が良い、と考える人が多いからです。

 

ですが、これが文化も思考法も全く違う国から日本へやってきた外国人で、未だ日が浅いという状況であればいかがでしょうか。

 

 

ある「対話」についてのエピソードを紹介します。

 

ある日本人が赴任先のヨーロッパのある国から帰国するに当り、現地で飼っていた猫も連れて帰ることにしたそうです。

 

そのことを軽い気持ちで赴任先の外国人の同僚に話したところ、その同僚にいきなり非難をされたそうです。

 

動物を10時間以上も飛行機に乗せて運ぶなんて、猫にとっては大変なストレスだ。


また、空港に長い時間留め置かれることにもなる。これは動物虐待に近いものだ。人として絶対に許せない、というのです。

 

では、どうすれば良いのか。家族同然の猫なのに、里親でも探せばよいと言うのでしょうか。


いや、ここまで育ててきた猫を他の飼い主の元に置くのはそれはそれで残酷な仕打ちだと言われる。

 

それなら、どうしろと言うのだろうか?彼の偏狭な態度に辟易としつつ、次の言葉を待ったそうです。

 

すると、その彼はサラッと言ったそうです。

 

「安楽死させなさい」。。

 

安楽死?本人は耳を疑ったそうです。この、家族同然の猫を殺せと言うのか?


そう、過酷な苦しみを与える位なら、早々に「楽にさせる」のが飼い主としての義務だと彼は言うのです。


人として許せない!本人は心のそこから憤りました。外国人の彼とは、長年一緒に仕事をしており、気心の知れた仲のつもりだったのです。


彼にはペットの犬もいてペット談義をきっかけにプライベートな付き合いもあったのです。

 

それなのに「殺せ」とは。。。
やはり、外国人とはわかり合えないのかも知れないと考えるようになったそうです。

 

本人は、彼と絶交するつもりでこう言い放ったそうです。「あなたが何を言おうと、私は猫を日本に連れて帰る」と。

 

ところが、この言葉に対する彼の言葉もまた、全く予想外のものだったそうです。

 

「飼い主のあなたがそこまで決心したのならば仕方ない」ということで、今度は猫をできるだけ快適に日本に移動をさせるべく、献身的に働き始めたそうなのです。

 

航空会社と交渉して猫を客室内に持ち込めるようにしたり、両国の検疫当局と交渉して猫の健康診断書を提出する事を条件に日本での動物検疫免除を勝ち取ったり。

 

ただ、献身的に働きながらも、彼は本人に「猫を日本にに連れて帰るなんて、あなたは間違っている」と。。

 

このエピソードは相手に不信感を抱きつつも、対話による「協働」の事例ともなっています。

 

 

驚かされるのは外国人の彼の非常に対話的な態度です。彼が最善と思う解決策(猫の安楽死)が不可能とわかれば、次の解決策(猫の快適な移動)を目指して本人と協働したことです。

 

しかも、「人として許せない部分」について最後まで解りあえないまま、粛々と協働作業を進めているのです。

 

本人の考え方に対して、中途半端に理解を示していないところも良いと思います。


自分にとって絶対に許せない考え方を真摯に「受け止め」はするが、「受入れ」はしていない。

 

本人の「わかり合えない部分」は仕方の無い物として留保し、残っている「わかり合える部分」で最低限の人間関係を維持できるかどうか。これが対話的態度の基盤となるのです。

 

本人は彼から「安楽死」という言葉を聞いた瞬間、理解不能の怪物に見えたことでしょう。急転直下、わかり合いたくもない「やつら」として認識したのだと思います。

 

かたや、彼は何があっても「わたし」と「あなた」の関係を維持したのです。動物虐待として本人にそうそう腹を立て内心は「やつら」と思いながらも最低限の人間関係は維持しました。

 

同僚の彼の対話的態度のかいあってか、本人との人間関係は今でも海を越えて良好なのだそうです。

 

対話とは、理解不能な「やつら」が相手であっても、底に何らか共通の言葉を見出し、わかり合える範囲内で理解と納得を成立させるコミュニケーションです。

 

そうすることで、理解不能な「やつら」とも、限定的ではありますが「わたし」と「あなた」として、人間関係が構築可能となるのです。

 

特定の個人や社会集団を「やつら」として捉えつづける限り、そこからは創造的なものは何も生れません。

 

そこにあるのは無視や差別、嘲笑、憤怒であって、対話が生まれることは決してありません。

 

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