2023年冬の飯山ブログの途中ですが、ちょっとひと休み。
つい先日、ミツマタの花の時期に合わせて光明山(天竜区)に登ってきました。本日はタイトルに掲げたことに絞って書いていき、山行の詳細はまた改めてとします。
(1)いっぷく処横川で入手した地図
太い赤色(光明寺跡から奥の院跡までの直線)は配布時にマーカーされていたもの。細い赤色(東に突き出た三角形部分)は弊方で追記したもの。いっぷく処横川から北上して右の分岐に入り崖下の悪路にハマる。そこを抜けて、小豆坂の矢印が示すちょっと上の分岐で登り返して家康隠岩→奥の院跡→山頂へと向かった。
<入手した地図をグッと拡大>
(2)下山後に検索した地図
上の地図だと等高線が詰んでいて分かりにくいので、他の2地図を添付する。但し、これらには小豆坂の文字は記されていない。
小豆坂と思われるのは標高「539.7」mの文字から東に伸びる赤い線。「36光明山遺跡」は光明城址(=光明寺跡)のことで眺望良好。住職墓も写真に収めたがこちらは藪の中でオススメではない。
<「秋葉街道案内資料Ⅱ」p.17>
※出典
http://www2.wbs.ne.jp/~ota/akihakaidoannaishiryo-2.pdf
もう1つはアメブロから引用したもので、車道も描かれているので車利用の方にも適しているだろう。小豆坂はL地点からM地点への急勾配ルート。尚、こちらには上の2地図に描かれている②の難路(滑落の危険あり)は載ってない。危ないので敢えて避けたのかも。
<詳細な解説付きの地図>
※出典
https://ameblo.jp/deigonosentei/entry-12549710654.html
(3)急登の小豆坂
さてどうにか次の分岐に辿り着いて、西北西方向に登り返すことにした。以下の看板は北が上になっていないので「現在位置」からまっすぐ上に登るイメージで読むことになる。
<ようやく折り返しポイントの看板>
ただ、ここもかなり厳しい。ここは先人の言葉をそのまま拝借しよう。雲のハシゴと言う形容は尤もなもので巧い表現だ。
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下から登ってくる人たちのための道標で,奥の院への道と光明寺への道の分岐点にある。表に「右 奥の院道 鹿の通路といふ」「(左)光明寺本坊道 雲の梯階坂といふ」
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※出典
http://www2.wbs.ne.jp/~ota/akihakaidoannaishiryo-2.pdf
(4)小豆坂の逸話
山頂付近に家康の隠れ岩があったので、帰宅後にあまりの急坂になっている小豆坂も何か歴史があるのではと検索してみた。この光明山、引佐の兎荷山と同様なかなかに案内板がなくて分かりにくいため、何か情報を得られたらと思ったのだ。まず見つけたのがコチラ。
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武田の大将勝頼は、腹をすかせて近くの百姓家のかけ込み、
「これ、百姓。一番早く煮える食べ物は何か。」
と、たずねた。すると百姓が答えて言うには、
「殿さま、それは小豆の塩煮でございます。」
……(中略)……
それで家康が隠れた洞窟を、『隠れ岩』、両者が戦ったところの坂を『小豆坂』、と呼ぶようになった。なお小豆坂には、小豆のような赤い石がたくさんあるので、小豆坂(赤豆坂)と呼ぶようになったのだとも言われている。
……(中略)……
写真を撮影した山道で、秋葉山で見たのと同じ赤石、ラジオラリア板(盤)岩の小石が転がっていましたので、おそらくこの辺りが「小豆坂」だろうと思われます。
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※出典
https://arukunodaisuki.hamazo.tv/e7849906.html
上の例では「勝頼」と記されている。他にも同説があった。
一方、以下サイトではこう書かれている。僅か3年の違い、されどこの3年は家康にとって大きく状況が異なる。
1572年(三方原の戦いと同年)信玄と家康が光明山で戦って塩小豆と隠れ岩の逸話
1575年(信玄の死後)二俣城攻めで光明勝栗の逸話
※参考
https://www.pref.shizuoka.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/043/510/ieyasudensyou2.pdf
尚、光明(功名)勝栗の詳細はここでは割愛するが、光明勝栗HPには二俣城攻めの前に光明城攻めがあったのだとより詳しく書いている。
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天正3年(西暦1575年)6月上旬、徳川家康公は、武田方に奪われていた二俣城を攻めるにあたり、まず光明城を落とそうとした。大激戦の末勝利した家康公に、麓の村の百姓4人が、寺院を通じて村で採れた栗を献上したことが「光明勝栗」の始まりである。
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※出典
https://www.komyokachiguri.com/?page_id=26
(5)秋葉山にも小豆坂
実は、小豆坂と呼ばれる場所は光明山の背後にある秋葉山の参道にもあるのだと知った。しかもその上部には信玄岩まであったのだ。
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十四町日付近は,赤石山脈の名にふさわしく随所に赤い石が見られ,小豆坂と呼ばれる。
……(中略)……
三十七町目あたり,戦国時代,秋葉山の山腹に布陣した武田信玄が,気田川を挟んで光明山に陣取る徳川家康に向けて, この岩に足を掛けて強弓を射たという伝説がある。この場所の西南を「権現谷」,東北を「信玄谷」と呼んでいる
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※出典
http://www2.wbs.ne.jp/~ota/akihakaidoannaishiryo-2.pdf
この2地点について分かりやすい地図を発見したので添付する。
<秋葉山の表参道(抜粋)>
※出典
http://akihakodo.web.fc2.com/akiha/omote_sando.html
ちなみに、光明山は二俣から秋葉神社下社に続く秋葉街道の途中に位置している。下の古地図を見ると歩きやすい横川ではなく、光明山を越える参詣路になっているのが面白い。秋葉が火の神なのに対して、光明は水の神として信仰されており、登山口近くには家康ゆかりのお目たでの池(今回は未確認なのでいずれ)もあるとか。
<秋葉街道:二俣~光明~秋葉山>
※出典
(6)ホントの小豆坂は
はて? 光明山の小豆坂、秋葉山の小豆坂どちらが武田の逸話に通じるものなのか。
光明山説だと……
小豆坂の範囲を案内板でハッキリと確認できなかったが、あの「急な登り坂」で間違いないだろう。家康の隠れ岩まで至近距離なのでヒリヒリした戦の緊張感がある。どちらもこの付近に百姓家がありそうには思えないのだが、光明山古道は秋葉街道でもあり北東方向の長沢に宿場があったので百姓が暮らしていた可能性はある。
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長沢は「掛川誌稿」によると,坂下・和田之谷とともに秋葉山参詣の宿泊地として繁栄したという。「笹屋」「桜屋」という宿屋が大正末頃まで営業したという
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※出典
http://www2.wbs.ne.jp/~ota/akihakaidoannaishiryo-2.pdf
秋葉山説だと……
信玄が秋葉山参道から光明山に向けて強弓を射た逸話はポイントが高い。秋葉山下には坂下宿があり、気田川の向こう岸には和田之谷の集落もあった。参道(登山道)にも茶屋がいくつかあったので百姓家が近隣にあっておかしくない。
(7)信玄・勝頼どちらの時代が正しいのか
信玄は1573年に亡くなっている。光明勝栗は家康がパワーアップした1575年で違和感ない。ただ、小豆坂の逸話は1572年、1575年どちらの出来事だったのか。武田の進軍ルートは前に別ブログに書いている。
※参考ブログ
1572年説だと……
やっぱり武田の怖さは信玄の存在感あってのもの。ここでの戦いは信玄にとって三方原の地ならしに過ぎない。
1575年説だと……
長篠の戦いで勝頼を蹴散らした後だから「最強の騎馬軍団」も弱体化しているだろう。それでも、遠江国における武田の勢力は1581年の高天神城明け渡しまであと6年も続いているから油断ならない。
<ざっくり年表>
……
どちらもホントのことは素人に分かるはずもない。
ここは両論併記でふんわり終わりたい。
久々に秋葉山に登ってみよう!







