本日5/5、松潤家康が浜松まつりに登場する予定。騎馬武者行列って否が応でも、岐阜のキムタク信長と比較されるだろう。

 

そして、いよいよ明後日5/7、NHK「どうする家康」で三方ケ原の戦い(1572年)が放送される。恰好のタイミングだ。

 

負け戦を見るのは辛いけど、その前後において戦国武将がどんなルートで三河と遠江の国境を進軍していったのか、そのルートに興味を持った。1つ目の図は決戦前後に絞って局所的に分かりやすい。

 

<岡崎の大河ドラマ館にて> ※2023.2

 

2つ目はほぼ同じ地図を2ケ所で目にしている。北遠の青崩峠や犬居城も含めた広域でルートを明示してくれているのがいい。実はこの地図を堀川城で見つけた時に別のテーマで書きたかったのだが、そちらはまだネタが揃っていないのでまたいつか。

 

余談ながら、奥山城ってどこだろう。天竜川の大井より上、青崩峠より南なので奥山氏の高根城を意味しいているのかも。

 

<確か堀川城址の周辺で> ※2022.2

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<浜松城天守閣にて> ※2023.2

 

最後は小冊子の巻末に載っていた地図。井伊谷の西に三河・遠江国境がずっと南北に続いており、峠の位置関係が分かりやすい。この地図に本坂峠、宇利峠、陣座峠、的場峠が載っている。尚、実線は21世紀の東名、新東名高速道路。

 

<小冊子「井伊直政・直虎物語」より>

 

三遠の国越えルートはいろいろある。海沿いから順にこうだ。

 

・東海道

*多米峠

*大知波峠

*本坂峠

*中山峠

*宇利峠

*瓶割峠

*陣座峠

・黒松峠

・的場峠

 

これまで山道を歩いた箇所を*印で表記した。陣座峠を除くといずれもAmebaブログに山行録をアップしている。長くなるのでここではリンク省略。

 

家康は信長に圧されて遠江に侵攻した。二手に分かれて家康が陣座峠から、酒井忠次が東海道(今切)から東進した。

 

信玄は複数の軍勢いに分かれていたが、青崩峠と犬居を通って、一部の軍勢は奥三河に回り込んで的場峠から遠江に入って二俣に集結。そして三方ケ原で勝利。そこから宇利峠(陣座峠と書かれた説もある)を通って三河に入り野田城を落とした。

 

ちなみに、勝頼が長篠の戦いに向かう時にも宇利峠(or陣座峠)を抜けて三河に侵攻したとか。

 

敢えて平野部を通らずにほとんど山道を通っているのが面白い。そんな理由を妄想してみた。3月にあれこれ調べて文章を書いたので、いずれどこかでアップしたい。