新居町で見つけた「荘境石」、それと類似した境界標識についてまとめておきたい。
(1)荘境石
荘境石は一般的なもので全国的に残っているものだろうか。新居町の荘境石は整った文字で比較的新しい時期に掘られたもののようにも思えるのだが、荘園なので平安・鎌倉期の跡なのだろうか。ただ残念なことに、いくらネット検索しても「荘境石」について全く収穫を得られなかった。
「新居ものがたり 100選」(1993年)なる本があると知りチェックしたのだが、この件に関する記述はなかった。
<新居町の荘境石>
この言葉そのものは見つけられなかったが、以下サイトが雰囲気を伝えてくれている。このサイトには川や傍示で荘園の範囲を規定していること、その中に八幡宮が置かれていたことを示す簡単な絵図が載っていた。
======
桛田荘は、1183年に後白河法皇が京都神護寺に寄進した荘園とされている。四隅と南にある黒い●は榜示という荘園の領域の境目を示すものである。
======
※出典
http://nozawanote.g1.xrea.com/01tuusi/02heian/heian6.html
(2)四至牓示
その代わりに見つけたのが四至牓示だった。その例として播州鵤荘の記述を見つけた。
======
荘園の区域を示すために四方に置かれた標識。12世紀には立券荘号とともに設置され、官使・国司・領家使・荘官が立ち会い、後証のために四至牓示図(荘園絵図)が作られた。
======
※出典
四至牓示(シシボウジ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
======
太子町の歴史資料館へ行って「法隆寺領 播磨国 鵤荘」というパンフレットをもらってきました。至徳3年(1386)重文・播磨国鵤荘絵図(法隆寺蔵)があり●印で9個の牓示石が示されています。
======
※出典
https://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/5a4e7ab22fca6655f1dc1edb0c5db5e2
尚、上記リングが現在では切れてしまっているので、兵庫県太子町のサイトも付けておく。
======
太子町内の5ヶ所・姫路市大谷に1ヶ所の地点には「太子のはじき石」・「太子の投げ石」といわれる大きな「石」があります。聖徳太子が鵤荘に下向してこの荘園の境界を示すために置いた「牓示石」ともいわれ、……
======
※出典
(3)傍示石、傍示木、傍示杭、傍示本など
「傍示x」なる境界を主張するモノはいろいろあるのだと知った。いろいろ読んでいくと境界を表すモノであったり、高札場のような役割のようなモノもあったようだ。
【傍示石】
いろいろな「傍示x」の中で最も古そう、かつ保存に適しているのが傍示石だろう。2例を挙げる。
======
江戸時代の大村藩・佐賀藩・平戸藩の三藩の境界となる石碑である。三方境傍示石(三領石)は、この三藩境を示すため寛保2(1742)年三藩の役人が立ち会って建てられた三角柱の石碑……
======
※出典
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/746
======
JR東海道線藤枝駅から県道225号を進み、五差呂の青木交差点ですぐ左の道へ左折します。……(中略)……当時、瀬戸新屋村は田中藩領・掛川藩領が入り組む特異な村でした。左にはその境界を示す「田中藩傍示石跡碑」があります。
======
※出典
http://yurakukan.blog27.fc2.com/?cat=31&page=0
今年になって知ったことだが、田中藩の田中城址は同心円状の堀が掘られた珍しい構造で気になる存在だ。
※参考ブログ
【傍示木】
傍示木は傍木、分木とも呼ぶようだ。
======
土地の境界を標示する木。榜示木 (ぼうじぎ) 。分木 (ぶんぎ) 。
======
※出典
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%A6%9C%E6%9C%A8/
以前にウオーキングイベントの途中でボンジギなるものを見かけたことがある。当時は何のことやら分からず登山道の道標と同レベルのものと思ってスルーしてしまった。かつては領地の境を示すものであり、かつ街道を往来する人の貴重な目印になっていたのだろう。
※参考ブログ
【傍示杭】
======
傍示杭とは、境界のしるしに建てられた標柱のことで、街道施設に限っての名称ではないが、街道筋においては、宿場境や距離の基準点を示す重要な施設であったに違いない。
======
※出典
https://www.jinriki.info/kaidolist/yogo/bojikui.html
【傍示本】
愛知県東郷町には傍示が城の名前になっているところまであった。読み方は「ほうじもと」。
======
後醍醐天皇の頃、国境を示す「傍示」が立てられたことから、「傍示本」と云われる。……(中略)……現在は傍示本公民館角に石碑が立ち、遺構は無い。
======
※出典
https://shiro200303.sakura.ne.jp/Hojimotojyou.html
浜松市博物館を訪れたら「五榜の掲示」なる展示もあった。「榜」とはどうやら江戸時代の高札場に架かっていた掲示と同じもののようだ。「榜」や「傍」についてはこの辺で切り上げよう。
(4)領地の境を示す石
「境」、「堺」、「界」はどちらも「さかい」と読めるので、類似のものと考えて間違いないだろう。
【領界石】
江戸時代の忍藩の境界を示す領界石が5つほど埼玉県内に残されている。
<忍藩の領界石> ※以下リンクを元に加工 0609_51
https://www.cc.okayama-u.ac.jp/~baba/ranking/24_kyokaiseki.html
【領境石】
こちらはどの時代のものなのか不明ながら、東海道に沿っているものとか。浜松市内の東海道のルートは奈良時代と江戸時代(やや南)で異なっていると聞いた事がある。ただ、この場所がどちらかにあるものか未確認。
======
浜松領が東海道上に建てた領境石ですが、いつ・誰が治世の時代に建てられたのか、私はその史料・資料を見つけられていません。……(中略)……以前より本領内の領境石に関する資料を当たっているのですが、
======
※出典
https://sakaiisi.michikusa.jp/page154.html
【藩界石柱】
10月頃、NHK大河ドラマ「べらぼう」放送後の1分くらいのコーナーに出てきたのが藩界石柱。このドラマでは松平定信は悪者として描かれているが、彼が治める白川藩にこうした石柱があるのだと紹介していた。以下サイトでは「従是北白川領」、「追分の明神」、「従是南白川領」を紹介している。
======
白河藩と他領地の境を示す石柱として現在いくつか確認されている「藩界石柱」は、松平定信が藩主の時代に建てられたと考えられます。……(中略)……藩境の杭を石製のものにしたことを記録に残しています。
======
※出典
======
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/data/doc/1734415393_doc_191_0.pdf
(5)登山者がヤマで見かける杭や境
ヤマにも境を分ける目印がある。
【分杭峠】
長野県茅野市・諏訪市の外れにある分杭峠はパワースポットとして有名だとか。私はいつも茅野駅に着くとそのまま八ヶ岳や車山に直行しているし、分杭峠はバスでのアクセスが悪いのでまだ登った事がない。ただ、この分杭峠も境界を表すポイントのようだ。
======
「傍示」というのは杭や石で示された「境界表示」だと思えばだいたいOKで、設置された標識が石だと「傍示石」となる。古代・中世由来とみられるものから江戸時代の藩境まで多様なものがあり、中央構造線で有名な「分杭峠」もその一例だ。
======
※出典
http://kosuge20140101.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
【甲武信ヶ岳】
未踏の百名山で、文字通り甲斐・武蔵・信濃国の境に聳えるヤマだ。尚、秩父の武甲山(ブログ未投稿)は甲州との国境ではなく武蔵国内のヤマである。
【三国境】
小蓮華山と白馬岳の間にある長野・新潟・富山3県の境。ここはコロナ禍の2020年に登っている。
※参考ブログ
【三国山】
琵琶湖のマキノから赤坂山まで登ったことがあるけどその少し先が三国山だ。ここは近江・越前・若狭国の境。
※参考ブログ
【三国峠】
これも同様だが私はまだ登った記憶がない。
(6)境を示す駅名、地名
領域の区切りを示すモノはJRの駅名にもある。都内であれば吉祥寺の少し先にある武蔵境駅、小淵沢と茅野の間には信濃境駅がある。他にも秋田県に羽後境駅がある。
2025年7月に伯耆大山に登った後、海沿いの米子城址に上がってみた。眼下に日本海と中海が見え、その向こうが境港だった。鳥取県の境港市は島根県との県境に位置するためなのだろう。
大阪府堺市も調べてみるとこんなことが載っていた。ここは三国境だった。
======
「堺」の地名は旧摂津国と旧和泉国、そして旧河内国の三国の「境(さかい)」に発展したまちであることから付いたといわれています。
======
※出典
https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/gaiyo/profile/yurai.html
(7)傍示の意味
調べ始めた段階では、単なる道標・目印であり今で言うところの不動産登記する際の目印くらいに思っていた程度だった。ところが、1つ上のサイトには以下のような記述もあり、往時においてはもっと精神的な意味合いも帯びていたのではないかと考えを改めるようになった。
======
この岩の名は、長禄2年(1458)の紀年を有する「戸隠山顕光寺流記」で、戸隠山(顕光寺)の「四至(しいし)」を記した部分に東の境界として記されている。戸隠山の東の傍示が500年以上前から「鳴岩」と呼ばれていたことは確かだし、……(中略)……は、単なる境界標識ではなく、それ自体が信仰の対象の場合も多いので、単体もしくは総体としてどのような意味があるのかは、丁寧に検討する価値がある。
======
※出典
http://kosuge20140101.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
(8)朝鮮半島の長生標
こんなことをつらつら探している頃、2025年9月に奈良国立博物館の特別展「世界探検の旅 ―美と驚異の遺産―」に出掛けた。この展示では見なかったが、天理参考館のパンフレットに「長生標」(チャンスン)を見つけた。木肌そのままの写真だったが、赤く塗られたもの2本の柱なら西武線・高麗駅前で見たことがある。飯能の低山巡りをしていると巾着田や日和田山から高麗駅に辿り着くことがあるのだ。実は、長生標をネット検索して初めて高麗駅のものが「将軍標」と呼ばれるものだと知った。
<高麗駅前の将軍標>

※出典ブログ
日本は長らく大陸文化の影響を受けてきたので、こちらが本家なのだろう。専門的な説明は以下参照。
======
朝鮮の村里や寺院の入口に立っている木偶(あるいは石)の神像。漢字では長栍,長生,長承,将丞などと表記される。長生標ともいう。……(中略)……
男女一対のものと単独のものがあり,一般に恐ろしい将軍の面相が彫刻してあり,男チャンスンには冠があるが女にはなく,胴体に天下大将軍,地下大(女)将軍と彫刻または墨書されている。チャンスンは里程標,境界標としての世俗的機能と,寺院や洞里の入口・両端・四方にあって外部からの災厄を防ぐ守護神としての宗教的機能とを併せ持っている。
======
※出典:コトバンクのチャンスン項
(9)線で明示する境界
この章はつらつらと長くなってしまったが、いずれも境界を示すものは点だった。点と点を目視で繋げれば線としての境界を意識できるからそれで充分だ。ただ揉めた場合にはそうはいかない。
そうした場合には線で境界をハッキリと規定する必要がある。そんな例を紹介する。伯耆国の「東郷荘絵図」(以下リンク参照)に古地図には似つかわしくない赤い直線が4本ほど引かれている。
https://www.yurihama.jp/manor/
どうやらここは下地中分で領家(松尾神社)と地頭(東郷氏)が領地堺で争っていたので、キッチリと白黒を付けたかったのだろう。堀で明示的に境界線を作っているのだ。
======
絵図の裏書きによれば、下地中分は、道路のあるところは道路を堺とし、堺となるもののないところは、絵図上に朱線を引き、その現地に両方が寄り合って堀を掘り通したとあります。南方の堺は、置福寺と木谷寺の中間を境界として堀を掘り進めたが、深い山谷に当たるため、その先はまっすぐに見通した直線を境界とすると記されています。
======
※出典
https://www.yurihama.jp/manor/001.html
下地中分については以下ブログの山香荘に関する記述を参照。
※参考ブログ







