ちょうど書店に平積みしてあるNHKテキストを見つけて読んでみた。大河ドラマの放送と並行して解説を読めたのでありがたい本だった。

 

尚、今回は======で司馬遼太郎の文章を、「」で安部龍太郎の文章を引用した。

 

<テキスト表紙>

 

(1)律儀な三河者

司馬遼太郎は家康のことを三河人として規定している。派手好きで商売人にも向く尾張人に対して、三河人は頑固だけど律儀で義理堅い中世人的気質があるとする。信長と結んだ清州同盟を本能寺の変まで20数年も守り続けたのは確かに律儀なのだろう。よほど信長が怖かっただけではないと信じたい。今川氏真や戦で亡くなった家臣の家族の面倒をみた事を以ってしても義理堅いと断言できる。武田の家臣を抱え込む事になったのは三河者と甲斐者が同じ農耕民族としてシンパシーを感じていたためなのだろう。

 

もちろん三河者だから平和な世の中を作ることができた。それは農本主義で「誰もが食べていくことができて格差が生まれにくい」もの。持続可能な社会ってそういう事か。以前、長沼伸一郎の数学本でもアラブ世界や江戸時代をそうした社会を持続的で「直線的」と書いていたな。

 

ただ、江戸時代の半ばには信長が目指したであろう「重商主義的になって」いかざるを得なかったとか。司馬遼太郎は三河者の陰の側面も辛辣に指摘している。

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日本国そのものを三河的世界として観じ、外国との接触をおそれ、唐物を警戒し、切支丹を魔物と見、世界史的な大航海時代のなかにあって、外来文化のすべてを拒否する。

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(2)家庭内の不協和音

これまでの解釈とNHK「どうする家康」で解釈が大きく異なったのが築山殿事件。瀬名が望む国どうしの同盟で平和を築く方がハッピーでいい。ただ、50年前に執筆した司馬遼太郎はこの事件のベースを国柄の違いに置いていたとか。

 

三河気質=田舎者で質実 ……家康

駿河気質=正当な京文化 ……瀬名

尾張気質=金持ちで華美 ……五徳

 

確かにこの三国はあまりに対照的だ。これでは間に挟まれた信康も身が持たない。ちなみに三河と駿河に挟まれた遠江は三河人の気質に近い。だからこそ家康は浜松に長い間、居城を構えていられたのかも知れない。

 

(3)忠次と

この本を読んで知ったのは、家康と忠次の関係性。信長のノリ(家臣は使用人)で家臣団との関係を定義してはいけないようで、家康は「族党群の族長たちを率いていると自覚」しており、酒井忠次も家康からみたら「奉公人」ではなくて「三河の中の大名」だったのだとか。そうなるとかなり緩い君臣関係になり、あまり無理も言えない。こうした微妙な関係は大河ドラマにおいて窺い知ることはできなかった。

 

こうした主従関係であれば、築山殿の件で忠次が信康の命を信長の命令に委ねたとして、その気持ちが分からないでもない。逆に、家康としたら家臣を疑うことなく、信じてゆくしかないと家臣団に対して諦観があったように記述されていた。これは信長が勝家や秀吉に対する態度とは真逆だ。

 

とはいえ、家臣団の想いが主君に対して淡泊だったわけではない。大河ドラマでも三方原の夏目正吉や伏見城の鳥居元忠のように死を覚悟して戦った者も多かった。このテキストでも小牧長久手の戦いの場面でこう引用している。

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三河者はどういわけか、名乗りをあげない者が多い。すくなくとも安藤直次においては、

――名乗りをあげるなどは、おのれ一人を誇らんとするもので、手柄はすべて殿に帰すべきものとおもえば、無言でいい。

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(4)三方原で

同様に負けが分かっていても遠江の豪族の信頼を今後も得ていくには、是が非でも三方原で信玄に立ち向かうしか術がなかったのだと分かる。テキストにはこう書かれていた。

「出陣しなければ、遠江の国衆はほぼ全員、武田方に塗り替えられる恐れがあり、まるでオセロのように、パタパタと裏返って……」

 

この不安な心境は大河ドラマでは窺い知れなかった。この思考回路が前提として存在する限りは、信玄に立ち向かうしかなかったのだ。

 

(5)数正は

このテキストでは石川数正についても触れている。大河ドラマでは小牧長久手に勝ったと浮かれている家康家臣団の中で苦い表情を崩すことがなかった。数正は「西の進んだ政治や文化を志向する」タチなので、「三代前は美濃」で「先進的で外向的」な性格で三河者を良しとしていなかったとか。確かに数正の出奔は謎なので大河ドラマのような解釈もあれば、司馬さんのような属性による理由付けも成立するのだろう。

 

(6)信長を

家康は信長のことを好きだったのか?

 

今年の大河ドラマを見ると明らかに怖がっていた。甲信併呑のあとで家康が信長を盛んに接待している場面でも、笑顔が虚ろで明らかに復讐の機会を狙っていた。あの回は小休止ようでいてでも異質な回だった。

 

それに対して、司馬遼太郎は肯定的にみている。どちらが正しいか分からないけど、個人的には愛憎半ばしてあの局面では虚ろだったんじゃないかと思うのだ。

 

(7)勝頼は

高天神城は8年ほど攻防のあと1581年に家康の下に戻った。苦戦を知ったのに援軍を送らなかった勝頼が明らかに人心掌握に失敗していた事が分かる。家康の胸中の想いを書いた部分があった。

 

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【参考】

司馬遼太郎についてはかつて「アメリカ素描」を読んでいる。この本を紀行文のサンプルとして紹介されたが、とてもリアルなそれとは思えず人種と米国社会の論評だった。以下リンクはその感想。

 

長沼伸一郎が説く「直線的」な社会については以下に感想を書いた。