時期: 2022.12.下旬
鳥羽山城址から遅れること約5年、1kmも離れていない場所にある二俣城址を訪れた。ここもNHK大河ドラマ「どうする家康」とゆかりのある場所。
今週の放送でいよいよ三方ケ原の戦いが描かれる。なので、ホントは武田軍の侵攻ルートに沿って今春に訪れた高根城址、犬居城址、二俣城址の順番でブログを書きたかった。ただ、北遠地区は写真も多いし、どうみても間に合わない。なので、二俣城址から書いていく。
1572年の三方ケ原の戦いの直前、信玄が率いる武田軍が集結したのが二俣。そこから天竜川を渡って三方ケ原に進軍していった。詳細は以下引用文の前半を参照。また、1579年には信康と築山殿を襲う悲劇があった。信康はこの城で亡くなっている。以下引用文の後半を参照。
======
二俣城は、天竜川と二俣川という2つの天然の堀に挟まれた、遠江攻略の要地に建つ堅牢な山城でした。戦国時代の初頭に今川氏が築いた城館がはじまりで、今川氏が衰えたあと、徳川家康と武田信玄が、難攻不落のこの城を手中にしようと激しく攻防しました。
元亀2年(1572年)大軍を率いて遠江に侵攻した信玄は、10月に二俣城を包囲します。城兵の数は千2百ほど。一方武田軍は3万近く。それまで徳川方の城を難なく落してきた信玄でしたが、しかし二俣城は攻めあぐねました。
この城には井戸はなく、天竜川の水を汲み上げており、その井楼を破壊して水を絶つと、ようやく城代は降参し、開城しました。
……(中略)……
家康は築山殿を殺害し、身を切るような思いで信康に切腹を命じました。
9月15日、21歳の若武者は、二俣城で自害。介錯をした服部半蔵は、涙のあまり刀を降り下ろせず、他の者が行ったという逸話が残っています。
======
※出典
http://www.ieyasu-net.com/shiseki/shizuoka/08hamamatsushi/0003.html
天竜浜名湖鉄道・天竜二俣駅から歩いて15分くらいだろうか。右側の脇道に入って行くと正面に土手が見える。そこを登ると左手に鳥羽山城址、右手にやや戻って行くと二俣城址に繋がる。土手の向こうは天竜川。
<土手を発見、左手が天竜川>
この日はちょうど厳しい寒風に吹かれて、煽られるように城に向かう。竹藪をくぐると12月下旬なので紅葉がほぼほぼ散っており、僅かに残っている程度。
<竹林、黄葉>
この1年前に光明勝栗で知られる光明寺を訪れたが、あちらは時期に恵まれていたのもあって綺麗だった。
<2022年の紅葉も見納め(2)>
ほどなく城址だと分かる石垣にぶつかる。そこが本丸跡だ。決して広い城とは言えないが、裏手は天竜川の崖なので天然の要害になっている。上記の引用文によると二俣川も天然の堀としていたと書かれているので、当時はかなり広範囲に亘る城だったのかも知れない。
<石垣の遠景、近景>
以下サイトで鳥羽山城址の説明を読むと、天竜川の位置が400年前と今で異なっている事がわかる。今は土手(冒頭の写真2枚)で繋がっていた2つの城の間を二俣川が流れていたようだ。
======
家康公が武田軍から二俣城を奪回するために構築した府城群(ふじょうぐん)(鳥羽山城、毘沙門堂砦、蜷原砦、和田ケ島砦)の一つで、特に二俣城と二俣川をはさんで対峙(たいじ)した鳥羽山には本陣を備えたと言われている。
======
※出典
http://www.ieyasu-net.com/shiseki/shizuoka/08hamamatsushi/0020.html
このことは、以下2つの地図で当時の川と城郭群の位置関係を見るとハッキリする。
<戦国時代の二俣川は西向きに注いでいた>
<現在の二俣川はストレートに南に落ちていく>
※出典
http://tenryu-daisuki.com/Futamata-jou_Tobayama-jou_Data11.1600.jpg
<下山してきた>
毘沙門堂砦と書かれた辺りには、今でもその名残りなのかお堂があったと記憶している。栄林寺の川下にあるお堂だけど、それは改めて書こうと思う。
※参考ブログ:紅葉は光明寺
※参考ブログ:毘沙門堂は栄林寺のちょっと川下
【2023.5.9訂正】
以下サイトを確認すると、毘沙門堂砦は栄林寺の東側にある山塊を意味するらしい。なので、毘沙門堂そのものが小さな砦だった訳ではない。
======
栄林寺の東にある山の南西端が城址であるが、現在はnttの無線施設が建っている。南東に続く尾根に堀切があり、土塁が残っている。
======
※出典
https://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/bishamon-toride/