ネット社会=新たなる産業社会? | 人生プロジェクトのマネジメント日誌

人生プロジェクトのマネジメント日誌

人生を一大プロジェクトと見立て、自己完成に向けて邁進する日誌

 

最近、

ネットの世界からは離れがちで、

 

というのも、

本を読むことに傾注していて、

 

その方が現在のアタシの

人生目的には生産性が高く

なっていて、

 

本を読む、まとめる、

別の本を引っ張り出す、

 

元に戻る、また別の本へ

という具合で、

 

筋としては、

基本的には「原論」的な世界で、

 

結局、

上ずみ情報がいくら多岐に渡っても

 

「空虚なるもの」が充満して、

そのうちに、辟易してくるわけで、

 

”この道は正しいのか?”

”切り口を間違えているのではないか?”

”囚われているのではないか?”

”理論から実証の世界へつながるか?”

”本当に自分で考えているか?”

・・・

 

振り返れば、

やっぱり「正攻法」というのが一番で、

 

しかし、

この正攻法というのが、

 

「どういうものであるのか?」

ということが中々わからないと、

 

加速度がつかないわけで、

迷路で四苦八苦してきたな~

 

という実感とも反省とも、

自分の愚鈍さへの怒りとも

言える混沌があって、

 

”しょうがねえや、出直しか~”

なんてことになって、

 

ふと、思うに

”あれ~、本業の原点があったじゃあ

ね~か~、これ使えばいいんだよ”

 

ということが、湧いてきて、

 

つまり、ソフトウェアの設計手法では、

①現状把握・展開(調査、分析)

②概要把握・展開(概略モデル展開)

③基本モデル作成(試行テスト、評価反復)

④詳細設計作成

⑤仮想テスト

⑥実地テスト

⑦実用(運用)評価

⑧実地運用(本番)

 

という大まかなプロセスなんだけれども、

 

①を間違うと②以下は全て頓珍漢

な世界となるわけで、

 

つまり、

①というのは、統計学で言えば

データサンプルの質と量に関わって

いて、

 

ここで、

設計者としての力量が正面から

試されるわけで、

 

こうして⓪段階がグサリと突き刺さって

きて、

 

それが、

何をもってシステムの目的とされて

いるのか?

 

ということで、

その目的の「彼方」には、その源泉で

ある、

 

理念というものがあって、

 

これが、ビジネスベース

(限定された予算、時間、環境)

であれ、

 

逸脱すれば結果は自ずと成功から

遠ざかっていくわけです。

(早い話fが失敗・壊滅⇒妥協=誤魔化し)

 

基本に戻る=⓪段階へ

 

 

こうして、

読書の世界に傾注することに

したわけですが、

 

気が付くことは、

ネットの世界へは対処の仕方

を誤ると、

 

それこそ、

気が付かないうちに取り込まれ、

 

広大な情報の海・砂漠の中に

自分の能力がさまよい歩いて、

 

迷子になってしまう!

 

そんな風にアタシは認識したのです。

 

つまり、

いつしか「依存」に偏り、

「自立」を失う。

 

そういうことになる危険性はないか?

 

アタシはそうだからこそ、

デジタルの世界からアナログの世界へ

時間をシフトしたわけで、

 

そこで、

考え、手を動かし(文字を書く)、

ノートに展開する(まとめる)ということ

 

が、

 

原点なのだという認識で

実行しているわけです。

 

例えてみると、

自分に知的生産手段を取り戻す

 

こういうことだと。

 

ネットの世界に浸ることは、

確かに便利、重要なこととも

言えるのだけれど、

 

しかし、そこに

自分の主体性がなければ、

 

心の隙間に「サット」魔物が入り込む

空洞が無防備に空いている

 

つまり、

囚われてしまう危険性が濃密なる

事態として存在する

 

その量は膨大で、

加速度的に増大していて、

 

自己喪失 ⇒ 隷属への危険

 

と、アタシは思っているのです。

 

あたかも、

近代産業が分業化、工業化して

 

農業と言う自衛手段を破壊し、

人から生産手段を奪い、

 

人が貨幣経済を媒介として、

工業生産の手段として隷属した

ように、

 

このネット社会(情報化社会)は、

 

さらに、

人の思考という自衛手段を破壊し、

仮想貨幣社会を媒介として、

 

工業化社会を破壊して、

仮想産業社会への隷属としての

人を誘導・動員していく危険性はないか?

 

多くの人々が、

スマホ教にとりつかれるような

現状をそのように捉えかけている

のです。

 

何のことはない、

近代産業社会は深化・進化している

わけで、

 

しかし、それが

アタシたちが存在している現象空間=自然空間

で、

 

果たして、

人類が自然と共生可能なる進化なのか?

 

ということを命題としたならば、

 

「それは是」ということを言い切れるだろうか?

 

アタシには大いなる疑問なのです。

 

そんなこと考えてもしょうがない?!

と一般的には言えばそうだけれど、

 

それが、

巷の現象空間の一般化ならば、

 

つまり、成り行きなんであって

 

人類というのは「成り行きの一般化」

 

それが、

「人間は考える葦である」

という、

 

最大公約数の事実であるということ

では、

 

アタシは考えたくない!

 

と強く思っているのです。