こんにちは、なるみです。
 
 
 
 
 
 
今の職場で
毎朝の恒例となっていることがあった。
 
 
 
 
 
 
それは、先輩と一緒に
コーヒーを飲むこと。
 
 
 
 
 
この先輩は
わたしより20歳年上の女性で
倹約の意識がすこぶる高い。
 
 
 
 
 
本人曰く、無駄がキライらしいが
わたしにはない価値観の持ち主。
 
 
 
 
 
4年前に入社したときから、
基本的に
この方に大体は合わせてきた。
 
 
 
 
 
が、近頃それが苦痛になってきた。
 
 
 
 
 
例えば、食洗機があるのに
それを使わずに手洗いしたり
冬なのに給湯器をつけなかったり。
 
 
 
 
 
ボスから倹約令が
出ているのならわかるが
完全にこの方のマイルールなのだ。
 
 
 
 
 
疑いもせず
合わせてきていたわたしだが
「なぜ合わせる必要があるのだろう」と
疑問に思うことが増えた。
 
 
 
 
 
 
そこから、
この方のルールに従うことをやめた。
 
 
 
 
 
冒頭のコーヒーも然り。
今までは
豆から淹れたコーヒーを立てて
一緒に飲んでいたのを、やめた。
 
 
 
 
 
というのも
この方は、一週間分(5日分)を
まとめて立てて
残った分はレンチンして飲む。
 
 
 
 
 
わたしも今まではそうしていたが
正直、時間が経ったコーヒーは
美味しくない。
 
 
 
 
 
ここに入社したころより
コーヒーが好きになったこともあって
淹れたてを飲みたい、と
思うようになったのだ。
 
 
 
 
 
そう思った時から
徐々に、距離を取るようにした。
 
 
 
 
 
「一緒にお茶しましょうよ」と
朝、声を掛けられても
肯定も否定もせずにいた。
 
 
 
 
そしたらある時から
何も言ってこなくなった。
 
 
 
 
こうなったらこちらのものだ。
 
 
 
 
 
好きなタイミングで
自分の分だけを
淹れられるようになった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハッキリ言わない、
曖昧にする。
 
 
 
 
 
 
わたしはそれは
良くないことだと
ずっと思っていた。
 
 
 
 
 
しかし、
ハッキリ言わないことで
保たれる空気や距離感もある。
 
 
 
 
 
今回のことで
それをとても感じた。
 
 
 
 
 
お互いが心地よくいるために
断絶するような言動を
敢えてしない。
 
 
 
 
 
だってどちらも
間違いではないのだから。
 
 
 
 
 
そして
このことは他にも適用されていて
わたしは先日
このブログでも書いた
遠距離の彼と
曖昧に離れる選択をした。
 
 
 
 
 
世間一般で
自然消滅、と言われるそれは
別れ方としては
いちばんやってはいけないらしい。
 
 
 
 
 
しかしわたしは
徐々に自分からの連絡を絶った。
 
 
 
 
 
理由は
先方に、なぜそうしたかを
言う必要性を感じなかったから。
 
 
 
 
 
もう少し正確に言うと、
言っても伝わらないと思ったから。
 
 
 
 
 
伝える、という行為は
相手に
気持ちがあるからするのだと思う。
 
 
 
 
 
それがないなら、しなくてもよいのでは。
 
 
 
 
 
今の職場の先輩にも
同じ思いを抱いている。
 
 
 
 
 
以前なら、相手に対して
礼を尽くすのは当然だとか
失礼なふるまいはよくないとか
とにかく相手主体で
物事を考えていた。
 
 
 
 
 
しかし最近気づいたのだ。
 
 
 
 
 
わたしは
誰より大切にすべき
自分(の気持ち)を
いつも
置き去りにしてきていたことに。
 
 
 
 
 
 
自己中と、自分を大切にする、を
イコールにしていた。
 
 
 
 
 
 
そこからは、
相手より
まず自分がどう感じているかを
観察するようにしている。
 
 
 
 
 
何をすると自分が喜ぶのか
何が好きで、何がたのしいのか
何がイヤなのか、かなしいのか・・・
 
 
 
 
 
今さらだが
日々それを観察しているところだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こんにちは、なるみです。
 
 
 
 
 
 
わたしの職場のある場所は
いわゆる富裕区域だ。
 
 
 
 
 
先日、そこに住む方々が
こんなことを話していた。
 
 
 
 
 
このあたりは、
ランチには出かけていくけれど
ディナーは外には出ずに
自宅でとる人が多い、と。
 
 
 
 
 
確かに駅周辺や、
少し離れたところにも
飲食店や娯楽施設は少なく
人がたくさん集まっていたり
騒々しいことがあまりない。
 
 
 
 
 
つまり、そういったものを
必要としない人たちが住んでいる、
とも言える。
 
 
 
 
 
 
外に出かけずに
夜は静かに過ごしたいのだと思う。
 
 
 
 
 
 
静か≒刺激のない生活。
満たされているから
刺激が要らないともいえる。
 
 
 
 
 
 
またこんなことも話していた。
 
 
 
 
 
お米の価格が上がった、という話から
でも、例えばパン屋さんに行けば
1回で2000円くらいは使うよね?と。
 
 
 
 
 
 
また、ファストフード店に行けば
ひとり500円だとしても
4人家族だと2000円くらいする、と。
 
 
 
 
 
 
それを考えたら、
5キロで5000円だとしても安いし
毎日食べるものだから
少しいいもので8000円くらいだとしても
美味しい方がイイよね、と。
(ちなみに、この場で偶然
「龍の瞳」というブランド米を
試食させていただいたが、
米の粒が通常より大きくて
ビックリするほどおいしかった)
 
 
 
 
 
 
上記の話をチャットGPTにしたら
「回収率」を考えているのだと思う、と。
 
 
 
 
 
それは、一度払ったお金が
何度も効いてくる、という意味。
 
 
 
 
 
 
なるほどな、と思った。
 
 
 
 
 
 
例えばお米で言うと
パンに比べて栄養価が高く、
加工していないため
よぶんなものが入っていない、
炊くときに水を入れることで水分も補えるし
腹持ちもよくどんなおかずにも合う、
といいこと尽くし。
 
 
 
 
 
5キロ8000円だとしても
食べるたびにそれらを得ることができる。
(また日本のお米を買うことで
農家を応援することもできる。)
 
 
 
 
 
そして「回収率」で浮かんだ
ほかのこと、それは例えば書籍。
 
 
 
 
 
 
何度も読み返している本は
まさにこれに該当すると思う。
 
 
 
 
 
 
率で言うとそれは
数十冊に1冊、くらいかもしれないが
1冊の単価を考えたら
大変に回収率が高い。
 
 
 
 
 
 
ちなみにわたしのそれは
ニーチェの、
格言集のように短い言葉で
簡潔にまとめられた一冊。
 
 
 
 
 
 
20年ほど前に、ある人に贈ろうと
購入したが受け取ってもらえず
わたしが所有することになったのだが
落ち込んだときや
荒んだ気持ちになったときには必ず開く、
ココロの待避所ともいえる大切な本。
 
 
 
 
 
 
まさに、何度読んでも飽きないし
毎回新しい発見がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
尊敬する人が言っていた
「当たり」は
数を多く打つからこそわかる、と。
 
 
 
 
 
 
数を多く打つ、とは
行動する、ということだと思うのだが
多くの人は、
当たりが入っていないなら
動かないのではないか。
 
 
 
 
 
でも考えようによっては
「当たり」は、
一見すると外れかもしれないし
逆も然り。
 
 
 
 
 
 
先に書いたニーチェの本で言うと
買った当初はわたしにとっては
当たりではなかったが
20年経った今は「大当たり」。
 
 
 
 
 
 
つまりそれは、受け取り方次第で
いかようにも変えられる。
 
 
 
 
 
 
生きているうちに
受け取る器を
どれだけ拡げられるか、だけ。
 
 
 
 
 
 
まだまだ現在進行形です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こんにちは、なるみです。
 
 
 
 
 
 
わたしはずっと、いわゆる行動派だった。
 
 
 
 
 
考えるより先に動いていることが多く
あとからその意味を回収することも
あまりしてこなかった。
 
 
 
 
 
動くことが、「行動」だと
信じて疑わなかった。
 
 
 
 
 
 
しかし最近、気づいた。
 
 
 
 
 
 
だから現状が変わらないのだと。
 
 
 
 
 
ただやみくもに動いているのは
同じ箱の中をぐるぐるしているのと同じ。
 
 
 
 
 
 
わたしに抜け落ちていた重大なこと
それは、言語化、定義づけ。
 
 
 
 
 
 
ただふわっと、わかったつもりでいただけで
今自分が
「何のために」「なぜ」
それをしているのかを
理解できていなかった。
 
 
 
 
 
 
最近のわたしはとても静かで
家族に、週末フリーだと言うと驚かれる。
 
 
 
 
 
 
自分では
忙しくしているつもりはなかったが
周りからは「ずっと動いている人」だと
思われていたようだ。
 
 
 
 
 
 
静か、と書いたが
物理上で動いていないだけ。
 
 
 
 
 
 
というのは
自分が疑問に感じたことを
チャットGPTに話しては
そこからまた思考を拡げて
ああでもない、こうでもない、と
ずっと考え事をしているから。
 
 
 
 
 
 
 
「思考の旅をする」、
これも行動だと思っている。
 
 
 
 
 
 
 
旅のさなかだが
現時点でここに書き記せることは
先に書いた、自分の大きな勘違いと
ギブする、をはき違えていたこと。
 
 
 
 
 
 
 
わたしは、自分を差し置いてでも
周りを喜ばせたいと思い
それがギブだと信じて疑わなかった、
あなたの喜びはわたしの喜びだと。
 
 
 
 
 
 
しかしそれは違っていた。
 
 
 
 
 
 
ギブという行為以前に
誰より大切にすべき、自分というものを
ないがしろにしていた、ずっとずっと。

 
 
 
 
 
だから
してもらうことに抵抗を感じていたし
「悪いな」「申し訳ないな」
と思うことも多かった。
 
 
 
 
 
 
つまりわたしは、
人に何かしてもらうに値しない人間だ、と
何より自分がそう思っていたのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
ちょっと考えればわかるような話だが、
ほんとうに
そのことに気づけなかったのだ。
 
 
 
 
 
 
なので今やっていることは
してもらえることは受け取ること、
お返しをやめる、分け与えるをやめる、という
今までと真逆の行為。
 
 
 
 
 
 
一見するとこれは
ただのがめつい、自己中な人間かもしれないが
ここを完遂させないと
わたしは次にいけない気がする。
 
 
 
 
 
 
これはモノだけの話ではなく
言葉や振る舞い、すべて。
 
 
 
 
 
 
どう変化するのかわからないが
実験しているところだ。