こんにちは、なるみです。
わたしには憧れのひとがいる。
その方は、とある建築家さん。
幸運なことに
何度かお会いすることができていて
会うごとに、やっぱりステキだなあと
好き度が増している。
そう、
いわゆる「推し」で、わたしはファン。
おそらく
数年前までのわたしなら
なりふり構わず
推しに近づく方法を
試していたと思う。
しかし今のわたしは
それをすると
今は細く隙間が開いている扉を
ピシャリと閉められてしまうこと、
そして一度閉められると
もう二度と開くことはないことが
何となくわかっている。
なぜそう思うのか?
それは
推しのいる場が
そのような空気を醸しているから、
としか言いようがない。
そこは、
わたしが
今のわたしのままで振る舞うと
追い出される場。
だからわたしは
その場に迎えてもらえたときは
黒子のように
ただ「居る」ようにしている。
*自己認識の範囲なので
本当にそのように振る舞えているかは不明。
そしてもう一つ、
その場をひたすらに観察しながら
「たのしむ」こと。
緊張しすぎて硬い表情でいるのも
場を乱すことになる、
だから
場の雰囲気にはなじみながら
音は多く発さない。
そして場の温度感をみながら
そこに集う人たちに聞かれたら
素直に答えるようにしている、
ファンなんです、と。
そしたらなぜか
「推し活」を面白がったり
協力してくれる人が現れるのだ、
毎回必ず。
おそらくだが
きっとわたしは
推しの話をしているとき
キラキラした表情になっていて
みている側は
なにかしてやりたくなるのかも。
これは、
自分がみている側に立った時
そう感じるからで
ひとは自分の「好き」について語るとき
みなそのような顔になると思っている。
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わたしが心掛けていること、
それは
推しに恥をかかせないファンでいること。
それは見た目的にも
振る舞い的にもだ。
世の中さまざまな「ファン」が存在するが
推されている人物によって
ファンのかたちも違う。
場や思想など
どこかに共鳴したひとが集まる。
つまり、ちいさくても
同じピースを持ち合わせることが
ファンでいることの
最低限のマナーだと思っている。
ちなみに
現時点でわたしが共鳴しているところは
見た目的には、スマートさや清潔感
それ以外の部分は、静寂と余白。
これらは
日々を丁寧に過ごしていないと
得られないものだが
実際に行動に落としてみると
生活の質が格段にあがり
新しい自分の好みを発見したり
なにかを探さなくとも
もう十分に「ある」ことに気づけたり。
日々を丁寧に過ごす、
そんなすてきな世界があることを
教えてくれた推しに、
本当に感謝している。
そしてこのことは
得ようとして得たものではなく
思わぬ副産物で
そこがまた面白いな、と思っている。
何かをするときに
そのものから何かを得ようとする、
これは実に直線的でつまらない。
想定外のものが返ってくる
(もしくはこない)
それが、
何かをするときの
醍醐味だと思っている。
いっけんすると無駄だ、
と思われるところに
当たりが入っていることが
往々にしてあるから。
それに気づける視力を得られたことも
推し活のおかげだ。
正しい推し活に
引き続き励みたいと思っている。