「焼き場に立つ少年」
1945年8月6日、広島
9日は長崎に、悪魔の原爆が落とされた日
8月15日は、終戦の日です。
ご先祖さまに手を合わせたいと思います🙏
『アメリカはきのこ雲を見て
戦争は終ったと思っていた。
でもそれは、この70年に渡る
生き残った日本人にとっての
苦しみの始まりだったのだ』
核弾頭により死んだ弟を背負って
焼き場に立つ少年。
無念な兄、これから一人で
生きていかなければならない少年は
何を思うのだろう。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
佐世保から長崎に入った私は
小高い丘の上から下を眺めていました。
すると
白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで
作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に
次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が
歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて
幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま
広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は
はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという
強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で
目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか
首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに
5分か10分立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき
ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時
私は、背中の幼子が既に死んでいる事に
初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと
ゆっくりと葬るように
焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶ける
ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が
さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は
直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為
唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に
赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると
少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま
焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)
[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
一枚の原爆の写真が
注目を集めています。
皇后陛下が、去年亡くなったひとりのカメラマンと
その写真について述べられたのです。
宮内庁ホームページより
『焼き場に立つ少年』と題し
死んだ弟を背負い
しっかりと直立姿勢をとって立つ幼い少年。
その姿が、今も目に残っています。
撮影したのは
アメリカ海兵隊第5師団に属していた
ジョー・オダネル軍曹。
去年の夏、85才でこの世を去りました。
1945年、8月9日、一発の原子爆弾が
長崎を焼き尽くし、7万4千人が死亡しました。
占領軍として長崎に入ったオダネルの任務は
原爆の破壊力を記録することでした。
この時オダネルは、軍の命令に背き
密かに、30枚の写真を撮影していました。
しかし、写真はその後、長い間公表されることなく
封印されてきました。
写真が隠されていたトランク。
オダネルは晩年、ここから突然写真を取り出し
公表を始めます。
なぜ封印していた写真を公表したのか?
その思いを告白したテープが
今年、遺品の中から見つかりました。
オダネルの30枚の写真が、今、わたしたちに
戦争の意味を問いかけています。
オダネルのテープより
『アメリカはきのこ雲を見て
戦争は終ったと思っていた。
でもそれは、この50年に渡る生き残った日本人に
とっての苦しみの始まりだったのだ』
アメリカ・ネバダ州での収録
長崎の写真を残したジョー・オダネル。
その息子の、タイグ・オダネル(38)さんです。
ホテルで働き
写真とは無縁の生活を送っていたタイグさん。
去年父が亡くなり、遺品として
写真を引き継ぐことになりました。
1990年、オダネルは
長崎の写真を引き延ばして
アメリカの各地で写真展を試みました。
しかし、原爆の写真を受け入れる施設は
ほとんどありませんでした。
本に掲載してもらおうと全米の出版社を回りましたが、回った35社
すべてに断られました。
終戦から50年目の1995年
スミソニアン航空宇宙博物館で
ようやく決まった写真の展示も
地元の退役軍人の激しい反対で
中止に追い込まれました。
家には嫌がらせの手紙が来るようになり
地元の新聞には、オダネルを批判する投書も
目立つようになりました。
幸せだった家族は、トランクを開けてから
一気に崩壊、妻エレンさんは、夫の行動を理解できず
離婚しました。
原爆投下が戦争を終らせ
犠牲者を減らした。
母国アメリカの正義を前に
オダネルは孤立を深めていきました。
1945年、あの原爆はやはり間違っていた。
それは100年経っても間違いであり続ける。
絶対に間違っている。絶対に。
歴史はくり返すと言うが
くり返してはいけない歴史もあるはずだ」
封印していた写真と再び向き合ったオダネル。
70才を過ぎてから日本でも写真を公開し
体験を語る活動を始めました。
オダネルは、谷口稜嘩さんと
十年に渡って交流し、共に日本で
原爆の過ちを訴えて回りました。
オダネルが最も気にかけていたのは
焼き場に立つ少年でした。
谷口さんのように再会できないか。
日本でその行方を探していたと言います。
ラマーズ氏:
オダネルは、この写真の少年に
とても思い入れがあった。
あの時、少年の肩を抱き
なにか励ましの言葉をかけたかったと
いつも話していた。
しかし、できなかったと…
日本で写真展を開きながら
オダネルは、少年の行方を探し続けました。
誰か知っている人はいないか、家族は生きていないか
と、全国各地を訪ねて回りました。
日本とアメリカを行き来する生活する中で
オダネルの病状は悪化していきます。
背骨の痛みは深刻になり
皮膚ガンは全身に転移していました。
そして去年の夏、ジョー・オダネルは
85才で息を引き取りました。
その日は奇しくも
長崎に原爆が落ちたのと同じ8月9日でした。
テープより
「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず
8月6日と9日は毎年やってくる。
嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。
『お前は裏切り者だ』
『アメリカが嫌なら日本に行け』と。
『オダネルを批判する人たちに言いたい。
まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか
図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。
図書館に行け。
あなた方は教えを受けるだろう』
写真に、批判の声が集まり始めます。
『広島と長崎への原爆投下は必要だった』
『謝る必要なんてない』
しかし、父の時代には見られなかった声も
寄せられています。
『長崎の少年を見ました。
悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。
原爆の写真で
こんなに心を動かされたことはありませんでした』
テープより
「たとえ小さな石であっても
池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。
それは少しずつ広がり
いつか陸に届くはずだ。
アメリカという陸にも、届く日が来る。
誰かが続いてくれれば
波紋はさらに広がっていく。
そしていつか
誰もが平和を実感できる日が来ると
信じている」
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/c45f9793732aa7e8116d123f503b3dd9
報道写真家 ジョー・オダネル撮影
「焼き場に立つ少年」
(1945年長崎の爆心地にて)
歴史は繰り返すというが
繰り返してはならない歴史もあるのだ。
(カメラマンの言葉)
僕の亡き母も、広島出身。
長崎で被爆された親戚もいる。
繰り返してはいけない。
それが戦争です。
ギックリ腰もだいぶ良くなってきました。
電気風呂もかなり効果的です。
早く回復できますように🙏
熱意を込めて…札幌じゅん先生