延壽寺山門

 

 東京都台東区谷中にある延壽寺には、健脚の神様として知られる日荷上人の像を祀った『日荷堂』がある。
 延壽寺の創建は第四代将軍徳川家綱の時代である明暦2年(1656)、当初は大乗山延壽院と呼ばれ、同じ谷中にある瑞輪寺の末寺であったが、宝永年間(1704~1710)に身延山久遠寺の直末となっている。

 

本堂

 

 宝暦5年(1755)に延壽寺と名を改め、その際に身延山山本坊より日荷上人尊像を勧請。尊像は現在も、日荷堂に安置され、毎月一日と十日にご開帳されている。

 

日荷堂の絵馬

 

 日荷上人は、現在の横浜市金沢区六浦にある「上行寺」の僧侶で、ある日、夢枕に称名寺の仁王尊が立ち、日蓮宗総本山である身延山へ運ぶよう告げたため、称名寺の住職に囲碁の勝負を挑み勝利し、二体の仁王尊を背負って三日三晩かけて身延山久遠寺まで運んだという伝説があり、健脚の神様として信仰されてきた。
 江戸時代の移動手段は基本的に自分の足であり、延壽寺は健脚を祈る人々からの信仰を受け「日荷さまの寺」と呼ばれていた。現在でもマラソン選手など、スポーツ関係者が大会前に参拝しているという。

 

奉納額

 

世話人の中にある「八百長」の名

 

 日荷堂の軒下に掲げられた奉納額のひとつに「相撲桟敷方」と書かれた額がある。相撲興行の際に茶屋の軒を借りて商売をしていた「桟敷屋」が奉納したものだが、その中に相撲の八百長の語源となった「八百長」の名を見る事が出来る。
 「八百長」こと八百屋の長兵衛は、元は八百屋で、桟敷屋の権利を買って営業していたそうで、囲碁が大変強かったが興行を取り仕切る年寄七代伊勢ノ海に取り入るため囲碁の相手をしてわざと負けていたという。
 ところが、新しく出来た碁会所の開所式に招かれた本因坊秀元と本気の勝負をして、本当に実力がばれてしまい、それ以降、勝負にわざと負ける事を「八百長」と呼ぶようになったと言われている。

 仁王尊を賭けた囲碁勝負で知られる日荷上人を祀り、囲碁でわざと負け「八百長」の語源となった八百屋の長兵衛の名が入った奉納額がある「延壽寺日荷堂」は、間違いなく囲碁史スポットと言えるのである。

 

【囲碁史人名録】 仁王像を賭けた囲碁の勝負 日荷上人

【住所】