京都というより日本を代表する観光地である「金閣寺」では、江戸時代初期に碁会たたびたび行われていた事が記録に残されている。

 

案内板

 

【金閣寺の概要】
 「金閣寺」は正式名称を鹿苑寺と言うが、舎利殿「金閣」が特に有名なため、寺院全体が金閣寺と呼ばれるようになった。
 元は鎌倉時代の公卿、西園寺家の別荘であったが、応永4年(1397)に室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け山荘北山殿を造ったのが始まり、金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、平成6年(1994)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。
 義満は応永元年(1394)に子の義持に将軍職を譲っているが、実権は握ったままで、北山殿にて政務を執っていた。
 義満の死後は遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から鹿苑寺と名づけられる。あまり一般に知られていないが、金閣寺と銀閣寺は共に京都五山の第二位に列せられている相国寺の塔頭寺院である。
 相国寺は足利義満により金閣寺とほぼ同時期に創建された。銀閣寺はその後年、室町幕府八代将軍・足利義政により創建されるが、足利歴代将軍が創建した禅宗寺院として、本山である相国寺の塔頭寺院となり今に至る。現在では、相国寺から僧侶が任期制により金閣寺、銀閣寺の運営とあたっている。

【金閣寺と囲碁】
 室町時代には武家社会でも囲碁が浸透いていた事から、義満の別邸であった金閣寺でも囲碁が打たれた可能性はあるが、現在の所具体的な証拠は見つかっていない。
 しかし、江戸時代初期の鹿苑寺住持・鳳林承章は囲碁の愛好家として知られ、その日記「隔蓂記」には鹿苑寺での囲碁のはなしがたびたび出てくる。

 明暦3年(1657)6月26日に次のような記述がある。
 「安井算知を招いて碁見物をする。則ち、(算知は)算哲と算知の息の小三郎と久須見九左衛門の両人も同伴してくる。算哲、小三郎、九左衛門とは予は初めて会った。玄碩も招いていたのでやってきた。算哲と玄碩が二番打ち、はじめは算哲が七目勝った。後の一番は玄碩が四目勝った。算哲が先番だった。算知と関目民部の三番は全て知老が勝った。五目六目を民部が居石(置石のことか)であった。算知と上大路能在の一番は、(能在が)石を六つ居て算知が勝った。小三郎と友世の二番は、友世が三目居たが小三郎が勝った。南歌と九左衛門の二番は南歌が石を五目居たが持碁であった。 
 見物のために午後、彦公が来たが明哲は来なかった。給仕として西平吉、渡瀬右近が来、野路井山三郎も来た。見物の衆は、常に来院されている北野衆が来られ、杉本院存昌、伊藤、慶允の両人と南歌、関民部も来られた。梅林能円は連歌のために暇がなく来られなかった」

 盛大な碁会が鹿苑寺にて催された記述であるが、この年の正月に江戸は「明暦の大火」に見舞われ、安井算知とその一門は活動の拠点を江戸から京都へ移していた。

 このような碁会は二年後の万治2年4月26日にも行われている。
 「晴天。安井算知を招く。内々の約束であった。算哲、知哲も同道する。弟子の一人が初めて来る。因州の者で長九郎というが、まだ若輩である。玄碩法橋も来られる。見物の衆は南歌、片山将監、岡本下野氏寅で賀茂衆も来られた。関目民部は急病人に針を頼まれたので来られなかった。友世、渡瀬右近、梅林能円、鳥居能賀、神光坊能碩、上大路能在、北大路能覚、能貨、能珍、西久松能通などが来て、ちょうど吉村の処に居られた堀佐介も来られた。伊藤、由庵、谷口半左衛門も見物された。慶彦首座と明哲は今日菊池東因が左伝の講釈をするというので登山をして来られなかった。京衆は半鐘の時分に帰られた。西陣の権四郎も来て囲碁があり、算哲と権四郎は二番とも持碁であった」

 さらに鹿苑寺の碁会は一ヶ月後の5月23日にもあった。
 「内々に安井算知が来訪すると言っていたが、今日、予(承章)に隙ができたのでその旨を伝えると、来られるとのことであった。算哲、知哲、権斎、権四郎を同伴された。算知と権四郎が碁を打ち、権四郎は二目置いて打ったが算知が四目勝った。算哲と権斎も二番打った。そのほかの下手衆もまた碁を打った。今日は玄碩法橋が呼ばなかった」
 この頃、囲碁界では安井算知を筆頭に安井家が隆盛期であり、算知には長九郎という弟子のほか、多くの弟子をとったという記述が見られる。
 鹿苑寺でも安井算知が参加する碁会が増えていき、多くの碁打ちが参加、それらの棋譜が久須見九左衛門の著した『碁傳記』に収録されている。


【境内の史跡】

舎利殿 金閣


 鏡湖池の畔に建つ舎利殿は、木造3階建ての楼閣建築で、二層と三層は漆の上から金箔が施され、屋根は椹(サワラ)の板による柿葺(コケラブキ)で、上には鳳凰が輝いている。
 初層は「法水院」と称される寝殿造、二層は「潮音洞」とよばれている武家造りの建築様式。三層は「究竟頂」とよばれる中国風の禅宗仏殿造で、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物で国宝に指定されていたが昭和25年(1950)に放火により焼失、昭和30年(1955)に再建されたが現在は世界遺産であっても国宝ではない。昭和62年(1987)には漆の塗替えや金箔の張替え、さらに天井画と義満像の復元が行われている。

 

銀河泉


 金閣の後方にある銀河泉は、義満がお茶の水に使ったと伝えられ、今も清冽な清水が湧き出している。
 銀河泉の近くには満公が手洗いに用いたといわれる巌下水もある。

 

龍門滝


 龍門滝は2.3メートルもの高さを一段落としにしたもので、龍門の滝を鯉が登りきると龍に化するといわれる中国の登竜門の故事にちなんだ鯉魚石が置かれている。
 

安民沢と白蛇の塚


 安民沢は西園寺の別荘時代からある池で、池の小島に立つ多層石塔は白蛇塚といい西園寺家の鎮守と言われている。
 

夕佳亭


 安民沢をすぎて山路を登ると夕佳亭(セッカテイ)がある。江戸時代前期に、囲碁界との関りが深い住職の鳳林承章が、傾きかけた金閣を復興し池泉庭を修復した際、修学院を造営した後水尾(ゴミズノオ)上皇の為に、宗和流茶道の創始者・金森宗和に造らせたのが夕佳亭です。宗和が好んだ数奇屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が特に良いということからこの名が付けられた。
 

不動堂


 不動堂は金閣寺境内に現存する最も古い建物で、 天正年間に宇喜多秀家により再建されたもの。本尊は空海が作られたと伝えられる石不動明王で、江戸時代から広く一般に信仰されてきた。

 

 

【囲碁史人名録】 『隔蓂記』 鳳林承章

【住所】