『隔蓂記』 鳳林承章 | 囲碁史人名録

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 隔蓂記(かくめいき)は鹿苑寺住持・鳳林承章(ほうりん じょうしょう)が寛永12年(1635)から寛文8年(1668)にかけて記録した膨大な日記である。
 鳳林承章は藤原北家の支流である権大納言勧修寺晴豊の第六子で、文禄2年(1593)に生まれ、若くして相国寺の塔頭・鹿苑寺(通称:金閣寺)に入る。
 『隔蓂記』には、鹿苑寺、相国寺など寺院での出来事や、幕府成立後の公卿や上級僧侶などの動静、学者、茶人、絵師などについて記しているほか、稲庭うどんの話題等、当時の京文化についても紹介している。囲碁の記述が多く見られ、碁好きの承章は自身の碁の記録をはじめ、当時の碁打ちも紹介、特に安井算知の名が多く見られ、京都を拠点としていた安井家の動静が分かる貴重な資料である。


 【寛永19年(1642)10月3日】
 『隔蓂記』の寛永19年10月3日の記録に、「南歌が来られ、碁打の少年小吉を同道する」という囲碁の記述がある。
 その半月後には「等閣が碁打の少年権四郎という者」を連れてきて、権四郎はさらに半月後に医師の立益に伴われて鹿苑寺を訪れたとある。小吉も権四郎もこのとき少年であったが、碁打ちとして認められていて、この頃には碁を生業とする仕組みができてきていたと思われる。

 

【明暦3年(1657)6月26日】
 「安井算知を招いて碁見物をする。則ち、(算知は)算哲と算知の息の小三郎と久須見九左衛門の両人も同伴してくる。算哲、小三郎、九左衛門とは予は初めて会った。玄碩も招いていたのでやってきた。算哲と玄碩が二番打ち、はじめは算哲が七目勝った。後の一番は玄碩が四目勝った。算哲が先番だった。算知と関目民部の三番は全て知老が勝った。五目六目を民部が居石(置石のことか)であった。算知と上大路能在の一番は、(能在が)石を六つ居て算知が勝った。小三郎と友世の二番は、友世が三目居たが小三郎が勝った。南歌と九左衛門の二番は南歌が石を五目居たが持碁であった。 
 見物のために午後、彦公が来たが明哲は来なかった。給仕として西平吉、渡瀬右近が来、野路井山三郎も来た。見物の衆は、常に来院されている北野衆が来られ、杉本院存昌、伊藤、慶允の両人と南歌、関民部も来られた。梅林能円は連歌のために暇がなく来られなかった」

 鹿苑寺にて盛大な碁会が催された記述であり、当時、鹿苑寺を会場とした文化的な集まりが行われていた事が分かる。
 招かれたのは当時41歳の安井算知で少し後に碁所に就任する。算哲は二世算哲(渋川春海)のことでこのとき19歳、小三郎は後の安井知哲で当時14歳、久須見九左衛門は現存する日本初の打碁集『碁傳記』の作者である。この碁会では数人が指導対局を受け、五目や六目置いて打っていたという。
 なお、碁会が催された明暦3年といえば、正月に「明暦の大火」が発生し、江戸の町が焦土と化し、江戸城も本丸・天守閣など大半が焼失している。碁打ちたちは、御城碁のほか、大名・旗本・有力町人らの支援で生計を立てていたため大打撃を受けたと考えられ、安井一門は江戸が復興するまで拠点を京都へ移したと考えられる。
 安井算知も参加した鹿苑寺での碁会はこの後も増えていき多くの碁打ちが参加。それらの棋譜が久須見九左衛門の『碁傳記』に収録されている。

 寛文元年(万治4年4月25日改元)正月に公家町より出火した大火で禁裏をはじめ各御所が炎上し京の街は大混乱に見舞われる。鎮火後、後西天皇は焼け残った近衛家に、後水尾法皇と東福門院は一条邸を仮御所とし再建まで約二年間を待つことになる。
 『隔蓂記』によれば、法皇に仕えていた承章は、万治4年4月8日に、法皇が安井算知の碁と山口意泉の中象戲を勅覧ありたいとの意向を示され、算知と意泉に相談した結果、一条仮御所において4月13日に対局が行われた。

【寛文4年(1664)4月13日】
 「仙洞(仮)御所に安井算知を召して囲碁を御覧なされた。玄碩と算知一番、玄碩先で算知九目勝ち。算哲・知哲一番、知哲先で算哲が勝った。算知は作碁二番をお目にかけた。算知におもてなしがある。照高院宮道晃法親王、大覚寺御門主性真親王が御伺候、花山院浄屋忠長卿も碁を見物した。あとの碁の時、勧修寺亜相経広公も見物に加わった。照御門主、浄屋、予が法皇の御膳にご相伴申し上げた」

 本因坊家はこの時期二世算悦が病没し、若い道悦に代が変わった頃で、囲碁界の中心は安井算知がいる安井家であった。
 『隔蓂記』でも、各地から京都の安井家を訪れ稽古をつけてもらい、算知に弟子入りをする人物が増えていった様子がうかがえる。
 承章が紹介した人物もいて、「鈴木太郎吉を囲碁の稽古のため、安井算知囲碁参会之所、清蔵へ遣わす。饅頭三十個入り一折を算知に贈った」という記述もある。(清蔵は地名)
 碁打衆の一人、玄碩法橋の息である玄悦が、後水尾法皇の御意により算知の弟子になったという記録もある。
 

【寛文5年(1665)3月14日】
「午時、予(承章)は(鹿苑寺)より相国寺に赴く。久しく伺候しなかったので、後水尾法皇の御機嫌を窺うためにまず院参した。御書院で御対面あり、葛素麺を御相判仕り、天盃(甘露酒)を頂戴奉った。
 竹中少弼季有と玄悦に囲碁を仕るよう仰せつけられ、御障子越しに叡覧遊ばされた。囲碁二番あり、少弼が三目と四目を置き、打ち分けとなった。入御のあと、予も二人と打っていると、奥より御声がかかり、明日は来客はないか、珍しい椿花を下さる旨仰せ出あって、椿花一輪を拝領奉った。
 (法皇が)玄碩の子、玄悦を安井算知の弟子に仰せつけられる御意向で、芝山黄門宣豊を通じ、予から弟子にすることを(算知に)申し伝えるよう仰せ出された。畏み奉り、算知に申し聞かせる旨申し上げ、予は退去して萬年(相国寺)に趣いた。
(中略)安井算知を招くと、暮れに及んで算知、知哲、知斎、三入の四人が相国寺に来られた。右の趣きを算知に申し渡したところ、辱なくお受けするということだった。
 吉田左衛門を金閣寺に遣わしたが、無人なので、相国寺の慶彦西堂を招いた。鈴木太郎吉と三入と囲碁一番あり、また知斎と太郎吉が一番打った。菜飯と田楽が出、濃茶を点じた。各々半鐘時分に帰った」

 法皇の御意とあって算知は玄悦の入門を受け入れ、二日後の16日に承章は玄悦を算知の所へ吉田権兵衛を添えて遣わしている。次いで19日の記述にこうある。

 

【寛文5年(1665)3月19日】
「碁打玄悦が、安井算知の弟子となった礼のため、今日玄悦を算知の所へ赴かせ、銀子壱枚を持参した。内々芝山黄門と相談して、銀子を持たせ、予より使者と書状を相添え、玄悦を遣わした。算知は嵯峨の祭に出かけて留守だった由。右の銀子は法皇より遣わされたものである」

 玄悦はこのとき23歳。算哲より1歳下で、知哲より4歳上である。玄悦の正確な棋力については伝えられていない。
 算知の弟子で林家を継いだ二世林門入は謎の多い人物で、寛文9年から御城碁を勤め貞享2年まで9局を打ち、翌年に46歳で没している。
 元の名も出自も明らかではないが、研究者の中には、この玄悦こそ門入ではないかという説を唱えている人もいる。年代が同じであり、二世門入の実子である三世門入が玄悦を名乗っていることから、父の名を息子が継いだのではないかというのである。

 江戸時代初期の京都における囲碁界の動向を伝えた鳳林承章は、鹿苑寺住持を経て、相国寺に入り、後に第九十五世となり、 寛文8年(1668)に76歳で亡くなっている。