江戸時代の城下町の街並みが今に残る兵庫県豊岡市出石町は、但馬の小京都とも称され、多くの観光客が訪れている。
また、囲碁史にとっては出石町は、直接囲碁と関わった訳ではないが、江戸時代最大の碁会と称された「松平家の碁会」が開かれるきっかけとなった「仙石騒動」の舞台としても知られている。

辰鼓楼(明治初期に建てられた時計台)

出石町内
出石町の誕生
出石は「古事記」「日本書紀」にも名が見える歴史ある地名で、但馬開発の祖神ともいわれる新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)が、垂仁天皇3年に渡来してこの地を拓いたと伝えられている。地名は天日槍の宝物である『出石小刀』に由来し、古くは但馬の国衙(こくが)が置かれていたという。
室町時代
室町時代には、伯耆国(鳥取県)から周辺へと勢力拡大を続けていた守護大名・山名時氏が但馬地方を制圧し、その子時義(ときよし)が、本拠地を宮内の此隅山(このすみやま)に移している。「太平記」にも登場する山名氏は、一族で日本全国66カ国中11カ国を治さめ「六分の一殿」と呼ばれていたが、この後、勢力拡大を恐れる足利義満の謀略で「明徳の乱」といわれる一族の内紛が発生し、幕府軍の介入で、領地は僅か3カ国にまで衰退してしまう。後に時義の孫である宗全(そうぜん)が応仁の乱で西軍の総大将を務めるまでに勢力を盛り返したが、戦国時代に入ると、山名氏は再びその勢力を失っていった。
山名祐豊(すけとよ)の代には、織田軍の羽柴秀吉が但馬へ侵攻し此隅山城は落城。祐豊は城を有子山に移し守りを固めるが、有子山城も天正8年(1580)に秀吉の弟秀長の手により落城し、但馬の山名氏は滅亡した。なお、山名宗家は因幡守護で鳥取城主の山名豊国が引き継いでいるが、豊国は後に徳川家康が京都で開く碁会に参加する等、囲碁会と関わり深い人物でもあった。
江戸時代の出石
有子山城は、何人か城主が代わった後、文禄4年(1595)に播州竜野から小出吉政が五万三千石で封ぜられると、その子吉英の代には、山城が廃され、山麓に平山城が築かれた。それとともに城下町も整備されていった。

出石城(後ろの山が有子山)
小出氏は約100年間、九代に渡り出石を領したが、後縦ぎがなく断絶となったため、元禄10年(1697)に武蔵国岩槻の松平忠徳が移封されてきた。そして、宝永3年(1706)には、松平氏との国替えという形で、信州上田から仙石政明が移封されてくる。出石といえば、「出石そば」が有名であるが、そのルーツは仙石氏が信州からそば職人を連れてきたのがはじまりとされている。
以降、仙石氏は幕末まで七代にわたり出石を治めていくが、その間、天保6年(1835)に起きた「仙石騒動」により領地は三万石に減封されている。
仙石騒動と松平家の碁会

登城橋
囲碁界とも関わりのある「仙石騒動」とは、江戸時代後期に出石藩仙石家で起きた御家騒動である。
第6代藩主仙石政美の時代、出石藩内では、逼迫する藩財政を改善する施策を巡り、産業振興策を掲げる重商主義派と、質素倹約を主張する保守派との間で対立が生じていた。この時、藩主政美が保守派を支持したため、一旦は保守派が藩の実権を握っている。
しかし、文政7年(1824)に政美が急死。弟で当時五歳の久利が家督を継ぎ、父で先々代藩主の久道が後見に就くと、保守派は内部対立もあり力を失い、代わって重商主義派を率いる筆頭家老の仙石左京が実権を握ることとなった。
本丸跡
これに対し保守派は、「藩主と同族である左京が息子を藩主に据え藩を乗っ取ろうとしている」と久道へ直訴したが相手にされず、逆に蟄居を命じられている。
そこで、今度は江戸の藩邸や分家の旗本に「左京は不正な蓄財を行っている」などと訴え出るが、藩邸の予算を削られ事に不満を持っていた久道夫人(常真院)は、その話をそのまま信じて、国許へ抗議を行ってきた。
左京は久道夫人へ弁明すると共に、逃亡した首謀者の行方を追い、天領生野銀山にて捕縛しているが、天領を管轄する勘定奉行の許可をとっておらず、浜田藩主で老中の松平周防守康任に、もみ消しを依頼した。左京の嫡男の妻は周防守の姪であり、左京は多額の贈賄を贈り関係を強化していたという。
次いで、虚無僧となり江戸に潜伏していた協力者を、周防守の命で南町奉行所が捕縛しているが、寺社奉行管轄の僧侶を町奉行所が捕縛するのは違法であると協力者が所属する寺が寺社奉行脇坂安董へ訴え出てきた。
久道夫人は実家の姫路藩藩邸に赴き、藩主の妻で将軍徳川家斉の娘である喜代姫に騒動の件を話していたため、事件を将軍家斉も気に掛ける結果となった。
脇坂は老中水野忠邦と対応を協議するが、幕府の実権を握るという野望を持つ水野は、事件を利用して老中首座である松平周防守を失脚させようと、「左京が仙石家の乗っ取りを策謀している」と将軍家斉に言上し、水野派主導で周防守が事件に深く関与していたという調査結果をまとめていった。
評定の結果、仙石左京は獄門。出石藩は五万八千石から三万石へと減封という裁定が下される。また、松平周防守は、審議中に浜田藩による密貿易「竹島事件」が発覚したこともあり、老中辞任のうえ隠居を命じられている。こうして、幕府の実権を握った水野忠邦は、「天保の改革」を推進していくこととなる。

二の丸跡
天保六年(一八三五)七月に、本因坊丈和や各家元当主クラスが一堂に会した「松平家の碁会」は、まさに事件の調査や評定が行われている最中に開催されており、浜田藩国家老の岡田頼母が事件対応のため江戸へ出る口実として企画されたとも言われている。
岡田は安井門下二段であり、策略により名人碁所となった丈和を他の家元が引きずり降ろそうと機会を窺っていることも知っていた。老中の出席依頼のため断ることができない丈和を対局の場に引っ張り出し、もし敗れれば名人碁所の退任を迫ろうという家元の思惑と、碁会を利用しようという藩の考えが一致して碁会の開催が実現したのである。
こうして、御城碁に匹敵する豪華な参加者による「松平家の碁会」が開催され、そこで打たれた丈和と赤星因徹の対局は、投了後に因徹が血を吐いたことから「吐血の一局」と称される名局として語り継がれている。江戸から遠く離れた出石に端を発した騒動が囲碁界にも大きな影響を及ぼしたのである。
仙石騒動は、後に講談や歌舞伎で取り上げられ、仙石左京は完全なる悪人として描かれているが、実際には幕閣内の権力闘争により、ことさらに罪が大きく誇張されたのではないかともいわれている。ただ、騒動が大きくならなければ「松平家の碁会」が開催される事もなかったともいえ、囲碁関係者としては複雑な思いである。