山名入道禅高(山名豊国) | 囲碁史人名録

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山名入道禅高(山名豊国)

 

 公卿・山科言経の日記「言経卿記」によると、徳川家康は天正18年(1590)に秀吉から関八州への移封を命じられ江戸城に入るが、その翌年あたりから家康の囲碁に関する記述が増えてくる。
 家康の碁会には様々な人物が出席しているが、主な出席者の一人が戦国大名の山名入道禅高である。なお、禅高は出家してから名乗った号で、一般的には山名豊国の名で知られている。

【山名氏について】
 室町幕府の有力守護大名・山名氏は源氏の新田氏の庶流であったが、南北朝時代の当主・山名時氏は一族の惣領である新田義貞ではなく、縁戚関係の足利尊氏につき、その功績により山陰の伯耆(鳥取県)の守護に任ぜられる。
 その後、足利尊氏の弟・直義と、足利家執事の高師直が対立した「観応の擾乱」では直義側に就いていたが、幕府の工作により寝返り、一族で5ヶ国の守護を務めるまで勢力を拡大、時氏は引付頭人として幕政にも参加している。
 時氏が亡くなった後も山名氏は勢力を拡大し、最盛期には日本(66ヶ国)の6分の1である11ヶ国の守護を務め「六分の一殿」と称されている。太平記には山名氏が大名同士の抗争に付け込み勢力拡大していったため「多く所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかりけれ」と人々が噂していたと記されている。
 しかし、山名氏の勢力拡大をに危機感を抱く三代将軍・足利義満の謀略により、跡目争いに絡む一族同士の抗争に幕府軍が介入した「明徳の乱」が起き、山名氏は因幡・伯耆・但馬の僅か3ヶ国の守護となってしまう。
 一度衰退した山名氏を再び盛り返したのが、時氏の曾孫・山名持豊であった。持豊の名より出家してから名乗った山名宗全の方が広く知られている。
 永亨7年(1435)に家督を相続し、但馬・伯耆・因幡・備後の守護となった持豊は、6代将軍足利義教を暗殺した赤松氏を討ち播磨・石見を与えらる。さらに美作、備前も一族が領し計8ヶ国と往年の勢力を回復。宝徳2年(1450)に家督を嫡男に譲り、出家して宗全と称している。
 将軍家の世継ぎ問題、管領畠山氏の家督争いにより、応仁元年(1467)に「応仁の乱」が勃発すると、宗全は西軍総大将として戦っている。11年にわたる大乱は、やがて全国へ拡大し戦国時代へ移行していったと言われるが、宗全は文明5年(1473)に陣中で没し、山名氏は長引く戦乱の中で再び衰退していった。

【山名入道禅高の生涯】
 山名豊国は天文17年(1548)に山名宗家の但馬国守護・山名祐豊の弟である山名豊定の次男として生まれる。
 かつて日本全国のうち1/6の国を領有した山名氏も、この時期には宗家の但馬国、分家の因幡国の二ヶ国のみの支配となり、しかも両家は度々対立を繰り返していた。
 因幡山名氏の山名誠通を打ち破り実質的な因幡守護となった豊定は東因幡を支配下におく。永禄3年(1560)に豊定が亡くなると、宗家の祐豊は実子を後継者にしょうとしたが、その息子が夭折したため、豊定の嫡子、豊数が家督を継承し、弟の豊国は支城の因幡岩井城の城主として兄を補佐した。
 一方、因幡山名氏では家督を継いだ山名豊成を家臣の武田高信が毒殺。高信は鳥取城を拠点に毛利と結び山名豊数や豊国らも退け、実質的に因幡国を支配する。
 豊数が亡くなり家督を継いだ豊国は、高信を支援する毛利に対抗するために但馬国山名氏や山中鹿之助ら尼子残党の支援を受けていたが、起死回生の策として敵対していた毛利氏と和議を結び、その傘下となる。そのため微妙な立場に立たされた高信は、やがて毛利に見放され、天正4年(1576)に豊国により謀殺。豊国は鳥取城に入り因幡を完全に掌握する。
 しかし、この時期、勢力拡大を続ける織田信長と中国地方の覇者・毛利氏との対立が深まり、宗家が支配していた但馬国は織田軍の羽柴秀吉により平定され、次いで天正8年(1580)に秀吉は因幡国へと侵攻してくる。
 豊国は3ヶ月にわたり鳥取城に籠城したが、ついに軍門に下り、織田方に就くことを承諾。しかし、徹底抗戦を主張する家臣団との対立により因幡国守護という立場のまま城を追放され、単身、秀吉に降伏している。
 鳥取城では家臣団が毛利氏の支援を確実とするため、毛利一門である吉川常家を城主として迎え、天正9年(1581)に後世に語り継がれる秀吉の「鳥取城渇え殺し」と呼ばれる兵糧攻めが始まる。
 豊国自身も織田軍として旧家臣が籠もる城攻めに従軍し、多くの餓死者を出した戦いは終結。その後、秀吉からの仕官の誘いを断った豊国は、浪人となり摂津国川辺郡の小領主・多田氏の食客となっている。なお、この時期には徳川家康からも知遇を得たと伝えられている。
 なお、豊国は名門出身で和歌・連歌・茶湯・囲碁・将棋などに精通していて、天正20年(1592)には豊臣秀吉より朝鮮出兵にともなう九州肥前名護屋城への同行を命じられている。また、家康の開いた碁会や茶会にも度々出席していたと記録に残っている。
 関ヶ原の戦いでは徳川方の亀井茲矩軍に加わり活躍し、その功績により慶長6年(1601)に但馬国七美郡6,700石(後の村岡)を拝領。この頃、但馬山名家が断絶したこともあり、豊国が山名氏宗家の当主となる。
 豊国は、尼子・毛利・織田の間を上手く立ち回り、その変わり身の早さを批判する人もいるが、一方で度が過ぎるほどの律義者であったとも言われている。
 関ヶ原の戦い後に自らが謀殺した武田高信の遺児を探しだして召し抱えたり、征夷大将軍になった家康に100年ほど前に室町幕府第10代将軍から山名家に贈られた古びた羽織を着用して謁見し家康を感心させたという。
 また、天正年間に、徳川家康とともに元尾張守護の斯波義銀(津川三松)を訪問した際、豊国があまりにも義銀へへりくだっていたため、あとで家康は「義銀は管領の家の生まれと言えども足利の分家に過ぎない。お前は新田家の嫡流にして、昔は数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利の分家にそのように卑屈になるのだ」と苦言を呈している。家康が松平姓から徳川姓へ変えたのは徳川が源氏の名門新田氏の庶流であったためで、豊国も同族ととらえていたのかもしれない。
 豊国は家康や秀忠から厚い信頼を受け、駿府城の茶会に参加するなどした。ただ、加増はなく大名にはなっていない。寛永3年(1626)に享年79歳で亡くなるが、子孫は大名格の旗本として明治まで存続していく。
 江戸時代後期の碁打ち達の棋譜を見ると、旗本山名家で打たれた棋譜が多く見られるが、旗本山名家とは豊国の子孫であり、名門として碁会を主催していたようだ。