元文四年(1739)に七世本因坊秀伯の七段昇段に林門入と井上春哲因碩が異を唱え、秀伯と因碩の間で勝負碁が行われた。
当時の寺社奉行は、牧野越中守貞通(延岡潘)、大岡越前守忠相(旗本)、山名因幡守豊就(交代寄合旗本)、本多紀伊守正珍(駿河田中藩)の四人。この問題は月番の牧野越中守が担当しているが、山名因幡守豊就(とよなり)も、色々な面で勝負碁に関わっていたという。
山名因幡守の概要
山名氏は、「応仁の乱」の西軍総大将・山名宗全の後裔である山名豊国を祖とする交代寄合旗本であり、村岡陣屋(兵庫県美方郡香美町)を藩庁とし、但馬国七美郡(6700石)を領していた。交代寄合旗本とは、知行一万石未満ながら、参勤交代を行い、大名と同等の待遇を受けていた旗本のことである。
初代の豊国は豊臣秀吉に御伽衆として仕えていたが、秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでの活躍により但馬国七美郡に領地を与えられた。新田源氏の庶流である山名氏は、室町時代前期に一族で日本全国の六分の一の国を領し、「六分の一衆」と称されていた有力守護大名であった。戦乱の世で没落したとはいえ、豊国は名門の出らしく、教養に富んだ文化人としての顔も持っていたといい、幕府成立前に家康が京都で主宰していた碁会にも頻繁に参加している。そうした文化人としての顔は家風として子孫に引き継がれていったのか、山名氏の名は、たびたび囲碁史において見ることができる。
五代目当主の山名豊就は、貞享三年(1686)に分家の山名義豊(初代豊国の孫)の三男として生まれる。
山名宗家は、四代目として福島正則の曾孫にあたる山名隆豊を養子として迎えたが、子が生まれなかったので、元禄十四年(1701)に豊就が養子に入った。
宝永元年(1704)、養父の隠居にともない家督を相続した豊就は、大番頭を経て、元文四年(1739)に寺社奉行に就任している。
寺社奉行は本来、譜代大名が任命される役職であったが、山名因幡守は大名と同待遇の交代寄合旗本であるため抜擢されたのであろう。ちなみに、同僚の大岡忠相は旗本から異例の抜擢であったため、ポストを奪われた大名達から大名しか立ち入ることの出来ない区域にあった寺社奉行の控えの間への立ち入りを数年間にわたり拒否されるなど嫌がらせを受けている。
次に秀伯と因碩の勝負碁における、山名因幡守の関わりを紹介する。
勝負碁の開始
元文四年五月に、本因坊秀伯の上手(七段)への昇段をめぐり、反対する林門入・井上因碩と秀伯の間で対立が生じ、秀伯は月番奉行の牧野越中守へ勝負碁の願い書を提出した。
九月に入り、牧野越中守は役人に命じ、林門入と井上因碩から聞き取りを行ったが、もともと牧野家は本因坊家と懇意にしていたため、二人がいくら自分たちの考えを主張しても、なかなか理解を得ることができなかったという。
特に秀伯の「本来段位は碁所が決めるものであり、碁所不在時に話し合いで決められた林門入の準名人(八段)と因碩の上手(七段)には正当性がなく、勝負碁の手合いは自分が六段であっても互先で行うべきだ」という主張は、両者にとって屈辱的で到底納得できるものでは無かった。
このままでは秀伯の言い分が通ってしまうのではないかと不安を募らせた門入らは、その対策として、普段からつながりのあった他の寺社奉行に事情を説明して廻ることとした。問題の担当は牧野越中守であるが、寺社奉行は月3回(六・十八・二十七日)、全員が集まり寄合(相談)を行っていたため、そこで助言してもらおうと考えたのだ。
門入が頼ったのは、大岡越前守と山名因幡守である。大岡は元文二年(1737)に、将棋の伊藤宗看名人が囲碁が将棋より上と定められた慣例を改めるよう訴えた「碁将棋名順訴訟事件」を裁き、従来の囲碁優位の慣例を堅持する裁定を下している事から、門入は、この時につながりができたのであろう。そして、山名因幡守は、この年の3月に寺社奉行に就任したばかりであったが、もともと囲碁がかなり打てたといわれ、以前から家元らと親交があったと考えられる。手合いや、囲碁界の事情にも詳しく、因幡守は早速、牧野越中守を訪ね、色々とアドバイスを行ったといわれている。
十月十八日、家元達(門入は病気のため欠席)は、四人の寺社奉行列座の中で、越中守より勝負碁(二十番碁)の実施を言い渡されたが、門入の働きかけが功を奏したのか、手合は秀伯が主張した「互先」ではなく、本因坊の「先々先」で行う事となった。
なお、門入はこの後、病気を理由に対局を辞退したため、勝負碁は因碩のみが行うこととなった。
対局会場の提供
勝負碁は月番寺社奉行宅にて行われている。なお、第一局は一般的に元文四年十一月十七日に御城碁で打たれたとされているが、実際には十月二十七日に本多紀伊守宅で始まっている。この日は打掛となったが、思いのほか時間がかかり、これを御城碁の下打ちとすることとして、十一月八日に山名因幡守宅で打ち継がれた。御城碁では、その内容が披露されている。
山名邸では、この後も、第二局、第六局が打たれている。
御暇拝領期間の対局
この勝負碁では、第三局を前にしてひと悶着起こっている。
囲碁家元は、例年十二月から三月までの間、「御暇拝領」と呼ばれる長期休暇に入る。従来、御暇拝領の間は勝負碁も行われていなかったことから、門入は、今回も勝負碁を来年4月まで休止するよう、因碩と連名で口上書を越中守に提出した。この時、門入は因幡守ら他の奉行にも説明を行い賛同を得ていた。しかし、寺社奉行の会議では、因幡守らが勝負碁を休止するよう主張したものの、担当である牧野越中守が、御暇中とはいえ皆在府中なので、このまま勝負碁を打たせたいと強く主張したため、結局、他の奉行も了承せざるを得なかったという。越中守には遅れ気味の日程を何とかしたいという思いがあったのか、対局を急ぐ秀伯の根回しがあったのか分からないが、三月に第三局が行われることが決定した。
勝負碁中止をめぐる動き
十二月に行われた第四局は「本因坊俄に不快(病)にて引籠り候故相済み申さず」との記録があり、途中で秀伯が病を発し打掛となったことが分っている。対局は翌元文五年正月に打ち継がれたが、秀伯の病は結核と考えられ、これ以降、勝負碁は秀伯の体調を見ながら行われることとなった。三月に行われた第六局は秀伯の黒番で持碁で終わり、これまでの成績は秀伯の三勝二敗一持碁となったが、秀伯が優位な黒番でジゴという結果は、因碩の実力を別にしても、体力の衰えがかなり影響していたと思われた。
そうした中、四月に入ると将棋家元の伊藤宗看名人が両者の仲介に乗り出している。囲碁及び将棋方は、揉め事が起きたときに相互が仲介するという慣例に基づくもので、秀伯の病状のこともあり、ある程度対局が行われたこの時期を頃合と見たのかもしれない。宗看は牧野越中守のもとを訪ね、和談の申し出について相談し、秀伯、因碩との面談により秀伯の昇段について双方が合意に達した旨の口上書を作成して提出した。
これで問題が解決するかに思われたが、牧野越中守がこの口上書を寺社奉行の会議に提出したところ、因幡守ら他の奉行達から厳しい批判を浴びることとなった。
口上書は、「秀伯の昇段申入れに対し相応の対局を行い棋力を確かめようと始まった勝負碁が六番まで終了し、昇段について双方合意に達したので認めてほしい」という内容であったが、奉行達は、幕府の命で勝負碁を行いながら、終了の理由が「相応の勝負碁を打った」では筋が通らず、「本因坊の碁の出来が良いから昇段させる」という内容でなければならないという指摘であった。また、独断で内意を与えた牧野越中守の対応の甘さも糾弾されたという。
しかし、それでは因碩が勝負碁に敗れて昇段を認めたことになるため、因碩の反発により、なかなか話はまとまらなかったという。
勝負碁の終了と秀伯の死
勝負碁終了についての結論が出ないまま、四月十八日に第七局が開始されたが、秀伯が体調を崩して打掛となった。越中守にしてみれば、もう一、二局打っている内になんとかしようと考えていたのかもしれないが、病身の秀伯のことを考えず、中止の英断ができなかったことを林門入は批難している。
五月六日に打ち継がれた対局は、白番秀伯の二目勝ちとなり、大いに満足した秀伯は、翌日に門入宅を訪れ、気持ちの有り様を述べてわだかまりを解いたと伝えられている。なお、門入はこのときの因碩の碁は全体的に不出来であったことから、因碩の気遣いであったのだろうと推察している。
五月十八日から二日間で行われた第八局は、白番因碩の三目勝ちとなるが、五月二十七日に秀伯は吐血し、もはや対局が困難な状態となっている。
秀伯の添願人であった安井仙角は、秀伯が倒れて、なお床の中で勝負碁のことを考えている様子を見て、昇段の件は別にしても、せめて勝負碁は終了させようと、和解に向けて門入、因碩と協議を開始した。門入と因碩も大いに同情し、和解の願書が牧野越中守に提出され認められている。この時、恐らく因幡守ら他の寺社奉行との協議が行われたと思われるが、特に異論が出たという記録もない。
秀伯は、元文六年二月四日(同月二十七日に寛保へ改元)に、各家元を枕辺に招き、門下の小崎伯元を後継者にすることを託し、十一日に逝去している。享年二十六歳。
山名因幡守の晩年
秀伯と因碩の勝負碁を見守って来た山名因幡守は、領内では発生した一揆で百姓の要求を多く聞き入れ解決するなど手腕を発揮する一方、寺社奉行についても亡くなるまでその任にあたっている。山名因幡守豊就は、秀伯が亡くなってから六年後の、延享四年(1747)に六十二歳で亡くなっている。墓所は兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の壺渓御廟にある。
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