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囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

山田顕義

 

 明治12年(1879)4月に囲碁研究会として発足した「方円社」は、実力主義を謳い家元の権威を蔑ろにしたとして当初参加していた各家元と対立していくが、棋界の第一人者である村瀬秀甫を社長とする会社組織に再編、明治33年(1900)頃には初段以上が全国で500人に達するなど、大正末期に日本棋院が設立されるまで日本囲碁界の一翼を担っている。
 方円社設立時には各界の名士109名が賛成者に名を連ねているが、初代司法大臣などを歴任した政治家の山田顕義もその一人である。

 

山田顕義の墓(護国寺)

 

山田顕義略伝

 

顕彰碑

 

 山田顕義は、弘化元年(1844)に長州藩士山田七兵衛の長男として生まれ、安政4年(1857)14歳の時に吉田松陰の松下村塾へ入門。その後、久坂玄瑞らと行動を共にするが京都の「禁門の変」で敗走している。
 第二次長州征伐で軍功をあげ、「鳥羽・伏見の戦い」では長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名ほどの藩兵を統率し勝利に貢献している。
 維新後は岩倉使節団に加わり欧米諸国を視察した後、西南戦争での功により陸軍中将に昇進、第一次伊藤博文内閣では初代司法大臣に就任し法典編纂に尽力、「法典伯」と称されている。
 また、教育を重視し、明治22年(1889)に日本大学の前身である「日本法律学校」を創設。次いで「國學院」を設立している。
 明治25年(1892)旧藩主毛利敬親の銅像起工式へ列席のため帰郷しするが、その帰途生野銀山で急逝。享年49歳。
 

 

日本へいつ囲碁が伝来したのかは囲碁史において大きなテーマのひとつであり、これまでも吉備真備伝説など様々な説を紹介してきた。
 近年の研究では、中国南北朝時代の南朝宋の正史『宋書』に登場する「倭の五王」の時代(五世紀)に伝来したという説も有力な説の一つとしてあげられている。

【倭の五王の概要】
 『宋書』倭国伝によると、宋代(420-479)に、倭国の5代の王、讃・珍・済・興・武が約一世紀にわたり南朝へ使節を派遣し朝貢を行ったとある。邪馬台国以来、いわゆる空白の150年を経て登場した中国での日本の記録である。
 当時の日本はヤマト王権の時代であり、朝貢の目的は中国の先進的な文明を取り入れることはもちろん、皇帝の威光を借りることによって国内の権力基盤を安定させることにあったと考えられている。また、当時日本は朝鮮半島への勢力拡大をはかっていて、北朝へ朝貢する高句麗に対抗するため、南朝へ朝貢したともいわれている。
 なお、倭の五王が使節を派遣した時期は421年に宋へ讃が派遣したのが始まりとされるが、413年に東晋へ倭国から使節団が派遣されていて、これも讃によるものという説もある。その後、斉、続いて梁の時代503年まで朝貢は続いている。
 倭の五王が誰であるかについては諸説あるが、讃は応神天皇あるいは仁徳天皇か履中天皇、珍は反正天皇あるいは仁徳天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇と考えられている。

【囲碁伝来説について】
 「碁」の文字について日本では「ゴ」と発音しているが、現在の中国では「キ」と発音するらしい。これは中国では地域によって発音が異なるためで、「ゴ」は江南地域で使われた呉音、「キ」は華北一帯で使用されていた漢音の発音である。しかし、南北朝時代を経て中国を統一した隋は言語について漢音を標準的な発音として統一、その後の王朝にも引き継がれていく。もし、吉備真備ら遣唐使により囲碁が伝来したとするなら、唐の都は華北地域にあり、唐はすでに漢音へ統一されていたことから「碁」は「キ」として伝えられたはずである。それは遣隋使の時代でも同様である。また、隋の歴史書「隋書」には日本では囲碁や双六が好まれているという記述があることから、この時代にはすでに伝わっていたと考えられる。したがって、日本へ囲碁が伝えられたのは発音が統一される前の南北朝時代で、南朝からという説が有力となっているのだ。
 そして、それが倭の五王の時代であり、南朝へ使節団を派遣していることから、その際に持ち帰られたという説が唱えられるようになった。
 特に南朝宋の第3代皇帝・文帝は囲碁好きで知られ、当時囲碁は大いに普及していたことから使節団が囲碁を目にする機会は十分あったであろう。
 しかし、日中双方の史書など正規の記録には囲碁伝来に関する記述はなく、この説も推測にすぎない。
 また、日本と友好関係にあり仏教などを日本へ伝えたとされる朝鮮半島の百済もまた南朝へ朝貢を行い、南朝の文化が流入していたと考えられることから、囲碁は南朝から百済経由で日本へ伝来したというのも有力な説となっている。

 なお、「碁」の字についての詳しい解説は、note『「碁」の字について』(有料)でも紹介しているので参考にしていただきたい。

 

【note】(有料) 「碁」の字について』

 

 「棋待詔」は唐朝第9代皇帝玄宗によって制定された囲碁をもって皇帝に仕える官人である。

 唐末期の棋待詔、滑能は稀世の名人と言われた人物だが、次のような伝承が残されている。
 滑能がすでに待詔の職にあったある日、張と名乗る十四歳の少年が訪ねてきて対局を求めてきた。
 少年は先番を乞うて対局となったが、滑能は大いに苦心して思考を重ね着手すると、少年がすぐに打ち返してくるという状況が続く。局面も技量も自分が劣っていると感じた滑能は、終局前に職務にかこつけてその場を去ってしまった。名人といわれた滑能が少年にかなわなかったことになるが、この少年は「天帝」の化身で滑能の力量を見るために現れたといわれている。
 これは滑能の非凡な才能を示す逸話であるが、「天帝」は中国における天上の最高神であり多くの伝説に登場している。囲碁では最強の名人と対局したり、対局により開眼して名人となったという話が残されている。日本では江戸時代の名人十二世本因坊丈和がその例である。
 この逸話は唐が滅亡する契機となった「黄巣の大乱」により洛陽が一時的に陥落し、僖宗皇帝が都落ちし成都へ滞在していた期間(880~885)の出来事ではないかと言われている。