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囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 元文四年(1739)に七世本因坊秀伯の七段昇段に林門入と井上春哲因碩が異を唱え、秀伯と因碩の間で勝負碁が行われた。
 当時の寺社奉行は、牧野越中守貞通(延岡潘)、大岡越前守忠相(旗本)、山名因幡守豊就(交代寄合旗本)、本多紀伊守正珍(駿河田中藩)の四人。この問題は月番の牧野越中守が担当しているが、山名因幡守豊就(とよなり)も、色々な面で勝負碁に関わっていたという。
 

山名因幡守の概要
 山名氏は、「応仁の乱」の西軍総大将・山名宗全の後裔である山名豊国を祖とする交代寄合旗本であり、村岡陣屋(兵庫県美方郡香美町)を藩庁とし、但馬国七美郡(6700石)を領していた。交代寄合旗本とは、知行一万石未満ながら、参勤交代を行い、大名と同等の待遇を受けていた旗本のことである。
 初代の豊国は豊臣秀吉に御伽衆として仕えていたが、秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでの活躍により但馬国七美郡に領地を与えられた。新田源氏の庶流である山名氏は、室町時代前期に一族で日本全国の六分の一の国を領し、「六分の一衆」と称されていた有力守護大名であった。戦乱の世で没落したとはいえ、豊国は名門の出らしく、教養に富んだ文化人としての顔も持っていたといい、幕府成立前に家康が京都で主宰していた碁会にも頻繁に参加している。そうした文化人としての顔は家風として子孫に引き継がれていったのか、山名氏の名は、たびたび囲碁史において見ることができる。
 五代目当主の山名豊就は、貞享三年(1686)に分家の山名義豊(初代豊国の孫)の三男として生まれる。
 山名宗家は、四代目として福島正則の曾孫にあたる山名隆豊を養子として迎えたが、子が生まれなかったので、元禄十四年(1701)に豊就が養子に入った。
 宝永元年(1704)、養父の隠居にともない家督を相続した豊就は、大番頭を経て、元文四年(1739)に寺社奉行に就任している。
 寺社奉行は本来、譜代大名が任命される役職であったが、山名因幡守は大名と同待遇の交代寄合旗本であるため抜擢されたのであろう。ちなみに、同僚の大岡忠相は旗本から異例の抜擢であったため、ポストを奪われた大名達から大名しか立ち入ることの出来ない区域にあった寺社奉行の控えの間への立ち入りを数年間にわたり拒否されるなど嫌がらせを受けている。

 次に秀伯と因碩の勝負碁における、山名因幡守の関わりを紹介する。

勝負碁の開始
 元文四年五月に、本因坊秀伯の上手(七段)への昇段をめぐり、反対する林門入・井上因碩と秀伯の間で対立が生じ、秀伯は月番奉行の牧野越中守へ勝負碁の願い書を提出した。
 九月に入り、牧野越中守は役人に命じ、林門入と井上因碩から聞き取りを行ったが、もともと牧野家は本因坊家と懇意にしていたため、二人がいくら自分たちの考えを主張しても、なかなか理解を得ることができなかったという。
 特に秀伯の「本来段位は碁所が決めるものであり、碁所不在時に話し合いで決められた林門入の準名人(八段)と因碩の上手(七段)には正当性がなく、勝負碁の手合いは自分が六段であっても互先で行うべきだ」という主張は、両者にとって屈辱的で到底納得できるものでは無かった。
 このままでは秀伯の言い分が通ってしまうのではないかと不安を募らせた門入らは、その対策として、普段からつながりのあった他の寺社奉行に事情を説明して廻ることとした。問題の担当は牧野越中守であるが、寺社奉行は月3回(六・十八・二十七日)、全員が集まり寄合(相談)を行っていたため、そこで助言してもらおうと考えたのだ。
 門入が頼ったのは、大岡越前守と山名因幡守である。大岡は元文二年(1737)に、将棋の伊藤宗看名人が囲碁が将棋より上と定められた慣例を改めるよう訴えた「碁将棋名順訴訟事件」を裁き、従来の囲碁優位の慣例を堅持する裁定を下している事から、門入は、この時につながりができたのであろう。そして、山名因幡守は、この年の3月に寺社奉行に就任したばかりであったが、もともと囲碁がかなり打てたといわれ、以前から家元らと親交があったと考えられる。手合いや、囲碁界の事情にも詳しく、因幡守は早速、牧野越中守を訪ね、色々とアドバイスを行ったといわれている。
 十月十八日、家元達(門入は病気のため欠席)は、四人の寺社奉行列座の中で、越中守より勝負碁(二十番碁)の実施を言い渡されたが、門入の働きかけが功を奏したのか、手合は秀伯が主張した「互先」ではなく、本因坊の「先々先」で行う事となった。
 なお、門入はこの後、病気を理由に対局を辞退したため、勝負碁は因碩のみが行うこととなった。

対局会場の提供
 勝負碁は月番寺社奉行宅にて行われている。なお、第一局は一般的に元文四年十一月十七日に御城碁で打たれたとされているが、実際には十月二十七日に本多紀伊守宅で始まっている。この日は打掛となったが、思いのほか時間がかかり、これを御城碁の下打ちとすることとして、十一月八日に山名因幡守宅で打ち継がれた。御城碁では、その内容が披露されている。
 山名邸では、この後も、第二局、第六局が打たれている。

御暇拝領期間の対局
 この勝負碁では、第三局を前にしてひと悶着起こっている。
 囲碁家元は、例年十二月から三月までの間、「御暇拝領」と呼ばれる長期休暇に入る。従来、御暇拝領の間は勝負碁も行われていなかったことから、門入は、今回も勝負碁を来年4月まで休止するよう、因碩と連名で口上書を越中守に提出した。この時、門入は因幡守ら他の奉行にも説明を行い賛同を得ていた。しかし、寺社奉行の会議では、因幡守らが勝負碁を休止するよう主張したものの、担当である牧野越中守が、御暇中とはいえ皆在府中なので、このまま勝負碁を打たせたいと強く主張したため、結局、他の奉行も了承せざるを得なかったという。越中守には遅れ気味の日程を何とかしたいという思いがあったのか、対局を急ぐ秀伯の根回しがあったのか分からないが、三月に第三局が行われることが決定した。

勝負碁中止をめぐる動き
 十二月に行われた第四局は「本因坊俄に不快(病)にて引籠り候故相済み申さず」との記録があり、途中で秀伯が病を発し打掛となったことが分っている。対局は翌元文五年正月に打ち継がれたが、秀伯の病は結核と考えられ、これ以降、勝負碁は秀伯の体調を見ながら行われることとなった。三月に行われた第六局は秀伯の黒番で持碁で終わり、これまでの成績は秀伯の三勝二敗一持碁となったが、秀伯が優位な黒番でジゴという結果は、因碩の実力を別にしても、体力の衰えがかなり影響していたと思われた。
 そうした中、四月に入ると将棋家元の伊藤宗看名人が両者の仲介に乗り出している。囲碁及び将棋方は、揉め事が起きたときに相互が仲介するという慣例に基づくもので、秀伯の病状のこともあり、ある程度対局が行われたこの時期を頃合と見たのかもしれない。宗看は牧野越中守のもとを訪ね、和談の申し出について相談し、秀伯、因碩との面談により秀伯の昇段について双方が合意に達した旨の口上書を作成して提出した。
 これで問題が解決するかに思われたが、牧野越中守がこの口上書を寺社奉行の会議に提出したところ、因幡守ら他の奉行達から厳しい批判を浴びることとなった。
 口上書は、「秀伯の昇段申入れに対し相応の対局を行い棋力を確かめようと始まった勝負碁が六番まで終了し、昇段について双方合意に達したので認めてほしい」という内容であったが、奉行達は、幕府の命で勝負碁を行いながら、終了の理由が「相応の勝負碁を打った」では筋が通らず、「本因坊の碁の出来が良いから昇段させる」という内容でなければならないという指摘であった。また、独断で内意を与えた牧野越中守の対応の甘さも糾弾されたという。
 しかし、それでは因碩が勝負碁に敗れて昇段を認めたことになるため、因碩の反発により、なかなか話はまとまらなかったという。

勝負碁の終了と秀伯の死
 勝負碁終了についての結論が出ないまま、四月十八日に第七局が開始されたが、秀伯が体調を崩して打掛となった。越中守にしてみれば、もう一、二局打っている内になんとかしようと考えていたのかもしれないが、病身の秀伯のことを考えず、中止の英断ができなかったことを林門入は批難している。
 五月六日に打ち継がれた対局は、白番秀伯の二目勝ちとなり、大いに満足した秀伯は、翌日に門入宅を訪れ、気持ちの有り様を述べてわだかまりを解いたと伝えられている。なお、門入はこのときの因碩の碁は全体的に不出来であったことから、因碩の気遣いであったのだろうと推察している。
 五月十八日から二日間で行われた第八局は、白番因碩の三目勝ちとなるが、五月二十七日に秀伯は吐血し、もはや対局が困難な状態となっている。
 秀伯の添願人であった安井仙角は、秀伯が倒れて、なお床の中で勝負碁のことを考えている様子を見て、昇段の件は別にしても、せめて勝負碁は終了させようと、和解に向けて門入、因碩と協議を開始した。門入と因碩も大いに同情し、和解の願書が牧野越中守に提出され認められている。この時、恐らく因幡守ら他の寺社奉行との協議が行われたと思われるが、特に異論が出たという記録もない。
 秀伯は、元文六年二月四日(同月二十七日に寛保へ改元)に、各家元を枕辺に招き、門下の小崎伯元を後継者にすることを託し、十一日に逝去している。享年二十六歳。

山名因幡守の晩年
 秀伯と因碩の勝負碁を見守って来た山名因幡守は、領内では発生した一揆で百姓の要求を多く聞き入れ解決するなど手腕を発揮する一方、寺社奉行についても亡くなるまでその任にあたっている。山名因幡守豊就は、秀伯が亡くなってから六年後の、延享四年(1747)に六十二歳で亡くなっている。墓所は兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の壺渓御廟にある。

 

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 元文4年(1739)に、七世本因坊秀伯の七段昇段に林因長門入と井上春哲因碩が反対したため、秀伯と因碩の間で勝負碁が行われた。
 当時、寺社奉行としてこの問題に対応したのが牧野越中守貞通(延岡潘)である。
 今回は、牧野越中守の生涯と、勝負碁の経緯について紹介する。

牧野貞通の経歴(勝負碁開始以前)
 牧野貞通は、宝永4年(1707)に、徳川綱吉の側用人を務めた牧野成貞の長男として生まれる。この時、成貞は74歳である。男子に恵まれなかった成貞は家臣の子である成春を養子にして、元禄8年(1695)に家督を譲り隠居。悠々自適の生活を送っていた。なお、成貞は下総関宿藩(73000石)の藩主であったが、成春は成貞の隠居料も含めて、三河吉田藩(80000石)に加増移封されている。
 貞通が生まれた年に成春は亡くなり、その子で9歳の成央が跡を継いだが、正徳2年(1712)に成貞が亡くなると、幼少を理由に減封こそされなかったものの日向延岡潘への国替えとなった。その成央が、享保4年(1719)に21歳で早世したため、貞通が家督を相続している。
 享保19年(1734)に奏者番となり、翌年には寺社奉行を兼任した。
 寺社奉行は「江戸町奉行」、「勘定奉行」と共に三代奉行の一つに数えられるが、他の二つが旗本の役職であったのに対し、寺社奉行は譜代大名が務めたことから、三奉行の筆頭格ともいわれていた。業務は寺社の領地、建物、僧侶や神官に関わることであるが、楽人(雅楽)、陰陽師、囲碁将棋師の管轄も担当していた。
 寺社奉行の定員は四人である。勝負碁騒動のあった元文4年5月当時の奉行は、牧野貞通(延岡潘)、大岡忠相(旗本)、山名豊就(交代寄合旗本)、本多正珍(駿河田中藩)であり、在任期間は牧野越中守が最長であった。
 なお、山名氏は大名ではないが、参勤交代を行い、大名と同じ待遇を受けていた交代寄合旗本なので問題なかったのだろう。一方で、大岡忠相は旗本からの異例の抜擢であったことから、ポストを一つ奪われた大名側から嫌がらせを受け、江戸城内で大名以外が立ち入る事が出来ない区域にあった寺社奉行の詰め所への立ち入りを拒否されていたという。この状態は数年続き、事態に気付いた吉宗により寺社奉行の詰め所が設置されると共に、後に大岡は大名に引き上げられている。
 寺社奉行は月番の交代勤務であり、自邸を役宅としていた。また、月3回(六・十八・二十七日)集まり、寄合(相談)が行われていた。

 牧野越中守がこの問題を担当することとなったのは、秀伯が勝負碁を願い出た時の月番寺社奉行であったからである。
 なお、元文4年は牧野家にとっても大きな動きがあった年である。貞通の伯祖父(成貞の父の兄)の家系である越後長岡藩では、藩主の牧野忠周が病弱のため、妹を養女として貞通の嗣子である忠敬を婿養子として迎えることとなった。合わせて、貞通の家を長岡藩牧野家の分家と位置付ける手続きもなされている。このような慌ただしい時期に貞通は勝負碁の対応をしていたことになる。

勝負碁の経緯
 享保18年(1733)に、師匠の六世本因坊知伯が急死し、急遽家督を継承した秀伯は、六段となって数年経ったことから、そろそろ上手(七段)への昇段を考えていた。師匠が若くして亡くなり、囲碁界全体が活気を失っていたので、自分が早く上がり、この状況を打破したいと考えていたのかもしれない。
 もともと、家元間には「仲ヶ間和順」と呼ばれる申し合わせにより、当主クラスの昇段については一定の期間が経てばお互いに認め合ってきたので、問題なく承認されると考えていた。
 ところが、安井仙角を介して林門入と井上因碩に了承を求めたところ、両者はこれを認めなかった。七段上手の因碩ともう少し対局し、実力を見極めてから考えた方が良いというのが理由であったが、実際のところは、前年に門入の名人碁所就任に賛同するよう秀伯に打診した際に、秀伯が断ったために、幕府への就任願い提出が見送られたことへの報復ともいわれている。
 これに対して秀伯は、元文4年5月に、勝負碁により決着をはかるよう月番寺社奉行の牧野越中守へ願い出た。

 牧野越中守は、それほど囲碁について詳しくなかったと思われるが、もともと本因坊家とは近い関係にあった。父の牧野成貞が三世本因坊道悦や四世本因坊道策と親しく、自らを本因坊門下と称するくらいの囲碁好きであったことから、貞通の代となっても家臣が本因坊家に出入していたという。秀伯とも面識があったのではないだろうか。また、元文2年(1737)には、将棋の伊藤宗看が、次席などで囲碁が将棋より上に定められていた慣例を改めるよう訴えた「碁将棋名順訴訟事件」が起き、大岡忠相が慣例を改める必要は無いと裁定しているが、牧野越中守も寺社奉行として話し合いに参加し、囲碁界の情報を得ていたと考えられる。
 9月に入って、林門入と井上因碩は牧野邸に呼び出され、役人の須藤文左衛門による聞き取りが行われた。しかし、いくら自分達の主張を説明しても、あまり理解されず、秀伯の根回しを感じ取っていたという。特に、秀伯が主張する、勝負碁では、六段の秀伯に対して八段半名人の林門入、七段の井上因碩とも「互先」で打つという申し出は承諾しがたいものであった。
 危機感を抱いた林門入は、懇意にしていた寺社奉行の大岡と山名を訪ね、経緯を説明した。このような問題は月番奉行が独断で決めるのではなく、協議が行われるので、事前に理解してもらおうというのだ。
 家元達(門入は病気のため欠席)は、10月18日に呼び出され、四人の寺社奉行列座の中で、越中守より次のように言い渡された。

 ・本因坊の門入と因碩との勝負碁は、手合を「互先」ではなく、本因坊の「先々先」で行う事。
 ・一年以内に二十番、ひと月に三番行う事。
 ・月番寺社奉行宅内にて、来る27日より打ち始め、仙角・門利は代わる代わる出席する事。

 「互先」の手合いが却下されたのは、門入の働きかけが功を奏したためであろうか。
 これに対し、門入は10月23日に病気を理由に対局を拒否する口上書を役人の須藤へ提出し承認されている。一方、因碩は「因碩の先番より打つように」と須藤より言い聞かされたが、再三拒否していた。そのため、越中守が直々に二十番碁は「其方先番より始める様に」と言い渡し、そのまま引っ込んでしまったといい、因碩が反論する間もなく段取りが決まってしまった。

 一般的に、この勝負碁の第一局は元文4年11月17日の御城碁で打たれたとされているが、実際には最初の通告通り10月27日に始まっている。しかし、夕方に打掛となった際に、打たれたのはまだ五十一手までと、かなり時間がかかったため、後日、牧野越中守は、打継は御城碁の下打ちとして打つようにと指示し、その結果が御城碁にて披露された。結果は因碩の二目勝ちである。対局に時間がかかるのは、持ち時間が無い時代であり、ましてや互いの名誉を賭けた勝負碁ならば仕方がないことである。
 続いて11月18日、19日の二日間で打たれた第二局は秀伯の十目勝ちで終わり、その勢いを恐れたのか、門入は22日に牧野越中守宅を訪ね、役人へ秀伯の昇段を認める旨の伺いを立てた。しかし、越中守は勝負碁を打たせたいと考えていたようで、その後、何の沙汰もなかったという。
 月番のタイミングの問題であろうが、牧野邸で勝負碁が打たれたのは、第三局と第四局の二回のみである。
 12月6日から3日間で行われた第三局では、実施にあたり一騒動が起こっている。
 囲碁の家元は、例年12月から3月までの間、「御暇拝領」と呼ばれる長期休暇に入り、慣例ではその間は勝負碁も行われていなかった。そのため、林門入は先例に従い、勝負碁を来年4月まで休止するよう、口上書を因碩と連名で越中守に提出した。門入は他の奉行にも説明し賛同を得ていたという。しかし、各奉行の協議で越中守は、御暇中とはいえ、皆在府中なので勝負碁を打たせたいと主張し、結局、他の奉行も了承せざるを得なかったという。口上書に秀伯の名が無いことから、対局を急ぎたい秀伯が根回ししたのではないかと考えられている。
 第四局は12月18日に牧野越中守宅で始まったが、記録には、7日目の24日に「本因坊俄に不快(病)にて引籠り候故相済み申さず」と、途中で秀伯が病を発したことが記されている。対局は療養後の元文5年正月18日に大岡越前守宅で打ち継がれ、黒番因碩の13目勝ちとなった。秀伯の病は結核と考えられ、これ以降、秀伯は病の身で勝負碁を争っていくことになる。

 その後の対局は秀伯の体調を気遣いながら続けられ、3月23日から5日間で行われた第六局は、秀伯の黒番で持碁に終わる。これまでの成績は秀伯の三勝二敗一持碁であったが、秀伯が優位な黒番でジゴという結果は、因碩の実力を別にしても、体力の衰えがかなり影響していたと思われた。
 そうした中、四月に入って将棋家元の伊藤宗看名人が、両者の仲介に乗り出す。囲碁及び将棋方には、揉め事が起きたとき、相互に仲介の労を取るという慣例があり、秀伯の病状のこともあり、ある程度の対局が行われたタイミングで動き出したのだろう。
 宗看は牧野越中守のもとを訪ね、和談の申し出について相談したところ、口上書にして持参するよう指示を受けた。宗看は秀伯、因碩と面談し、秀伯の昇段について双方が合意に達した旨の口上書を作成し、4月3日に牧野越中守へ提出した。
 これで問題が解決するかに思われたが、牧野越中守がこの口上書を寺社奉行の会議に提出したところ、他の奉行達から厳しい批判を浴びることとなった。
 口上書の内容は、「秀伯の昇段の申入れに対し、門入・因碩は棋力を確かめずに進めては差し障りがあるので、相応の勝負碁を打った上で検討しようと返答し、因碩、本因坊の勝負碁が六番まで終了した。ここで、伊藤宗看が仲介に立ち、本因坊の昇段について双方合意に達したので認めてほしい」というものである。しかし、他の奉行達は勝負碁になっているのだから、「相応の勝負碁を打った」が理由では筋が通らない。「本因坊の碁の出来が良いから昇段させる」という内容に改めるべきだと、独断で内意を与えた牧野越中守の対応の甘さが指摘されたのだ。
 しかし、これには因碩が異議を唱えている。これでは因碩が勝負碁に敗れて昇段を認めたことになり、面目が立たないというのである。こうして、話がまとまらないまま、4月18日に第七局が打たれることになった。越中守にしてみれば、もう一、二局打っている内になんとかしようと考えていたのかもしれないが、病身の秀伯のことを考えず、中止の英断ができなかったことを林門入は批難している。
 第七局については、「七ツ時分(午後四時頃)、本因坊俄に不快」とある。秀伯が体調を崩して打掛となり、再開は4月23日と決まったが、今度は因碩が病となって、四月中に再開されることはなかった。ただ、この頃に打った因碩の棋譜が遺されていることから、因碩は仮病により、秀伯の快復を待っていたのではないかと考えられている。
 5月に入り、6日に月番の大岡越前守邸で打ち継がれた対局は、白番秀伯の二目勝ちであった。秀伯は大いに満足し、翌日に門入宅を訪れ、気持ちの有り様を述べてわだかまりを解いたと伝えられている。なお、門入はこのときの因碩の碁は平常と違い全体的に不出来であったことから、因碩の気遣いであったのだろうと推察している。

 第八局は5月18日、19日の二日間で行われ、白番因碩の三目勝ちとなった。
 そして、5月27日の記録に「秀伯病重く引籠る」とあり、吐血があり対局が困難な状態となってしまった。
 秀伯の添願人である安井仙角は、それでもなお、秀伯が勝負碁のことを忘れず床の中でも考えている様子を見て、門入、因碩と協議を始めている。昇段の件は別にしても、せめて和解して勝負碁を終了させようというのだ。門入と因碩も大いに同情し、和解の願書が牧野越中守に提出され認められている。
 秀伯は和解後まもなく、元文6年2月4日に、各家元を枕辺に招いて門下の小崎伯元を相続人とすることを託し、11日四ツ時(午前10時頃)に永い眠りについた。享年二十六歳。

牧野越中守貞通の晩年
 秀伯と因碩の勝負碁を取り仕切った牧野越中守は、勝負碁が終了してから二年後の寛保2年(1742)に京都所司代へ就任するまで寺社奉行を務めている。また、延享4年(1747)には常陸笠間藩への国替えとなり、笠間牧野家は幕末まで続いていくことになる。なお、最後の笠間藩主・牧野貞寧は囲碁の愛好家であり、明治期に元家臣の子で、囲碁の才能があった石井千治を方円社へ入塾させている。石井は後に本因坊丈和の三男で、方円社二代目社長の中川亀三郎の養子となり、方円社4代目社長として囲碁界を牽引していく。
 牧野越中守貞通は、寛延2年(1749)に任地の京都において43歳で没している。

 笠間牧野家の菩提寺である要津寺(東京都墨田区千歳2丁目)に貞通は葬られていると思われるが、残念ながら墓所は関係者以外立ち入り禁止で確認することはできない。

 

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 天保2年(1831)、総州葛飾郡に生まれる。本名は松本錦四郎。
 幼時から碁を学び、十七、八歳の頃、近習を務めていた旗本太田運八郎が山田奉行として赴任していた際に、現地を表敬訪問した本因坊秀和と三子で対局、勝利して実力を認められる。太田運八郎邸での棋譜が幾つか残されるなど、秀和と太田は旧知の仲であり、そこで錦四郎が紹介されたのであろう。
 時期は分からないが、錦四郎は関宿藩主久世大和守広周にも仕えていたといわれ、江戸へ戻った後は大和守の紹介で林家の門人となっている。
 嘉永三年(一八五〇)、十二世井上節山因碩が門人を斬殺し突然退隠する。この時後継を予定していた服部正徹は遊歴中であり、久世大和守の強引ともいえる推挙により錦四郎が井上家を継承し、井上因碩を襲名することとなる。久世大和守は囲碁界を管轄する寺社奉行の経験があり、当時は老中として権力を振るっていたことから、事件を起こし取り潰しの危険もあった井上家としてはその意向には逆らえなかったのだろう。
 因碩は同年に四段で御城碁へ初出仕、本因坊秀和に先番二目負けであった。
 松本因碩は安政六年(一八五九)に本因坊秀和が名人碁所就位を出願した際に、久世大和守を通じて阻止に動いている。翌春、幕府より「碁所願を却下する」という裁定が下されると、憤った秀和は、異を唱えていた因碩あるいは仙得との争碁を申し出るが、幕府に秋まで待たされ「内外多忙、しばらく時節を待つべし」という沙汰が下った。井上家は先々代の幻庵因碩が本因坊家と名人碁所の座を巡り激しく争ったことから、他の門下から入った松本因碩としては井上家での存在感を示そうとしていたのかもしれない。
 文久元年(一八六一)、松本因碩はこれまで勝ったことのない秀和と御城碁で対局し、中盤以降の打ち回しで先番一目勝ちを収めた。この対局は「幻庵乗り移りの一局」と呼ばれ、秀和の跡目秀策は、師の技ならば片手打ちにても勝つべき相手なのにと悔しがっていたという。これにより秀和は名人碁所への道を完全に断たれることとなった。
 元治元年(一八六四)、秀和が門下の村瀬秀甫を七段へ進めようとした時も因碩が反対し、争碁が打たれた結果、秀甫の三連勝で昇段が決まっている。
 さらに、明治元年(一八六八)には、秀和の次男で林家を継承した林秀栄が四段へ昇段しているが、この時も当初因碩は異を唱えていた。争碁を申し出た秀栄に対して因碩が門下の小林鉄次郎を立てたところ、秀栄は因碩が打つべきだと難色を示し、結局争碁が行われないまま秀栄の昇段が決まった。この事から、因碩は秀栄の昇段の可否より、本因坊家に対して異を唱えること自体が目的であったとも言われている。
 当時の家元四家当主の関係は、林秀栄は秀和の次男であり、安井算英も修行時代に本因坊家へ通うなど、井上家以外は近い関係にあった。
 そうした状況で、井上家は次第に孤立していき、明治五年刊行の「壬申改定の囲棋人名録」では井上門下が掲載から除外されるなど井上家排除の動きが広がっていく。
 秀和亡き後、囲碁界の重鎮である伊藤松和の仲介で一旦和解が成立したが、松和が亡くなると再び関係は悪化し、明治十二年に家元も参加して囲碁研究会「方円社」が設立された際にも、松本因碩へは参加の声がかからず、小林鉄次郎が井上家を代表する形となった。
 方円社は設立後すぐに家元が脱退して分裂するが、その理由の一つに参加条件であった井上門下社員の退社が守られていないことがあげられている。
 そうした状況でも井上家は維新後の中でも他の家元とは異なり生活は安定していたという。多くの門人や囲碁の指導を依頼する顧客が居たためで、江戸時代から井上家との関係が深かった旧熊本藩細川家からは、扶持を与えるので熊本へ移らないかという誘いもあったが、因碩は家元として東京での活動にこだわりこれを断っている。
 その後も悠々自適の生活を送り、後進の育成にあたる余生を送っていた松本因碩は、明治二十四年(一八九一)、跡目を定めないまま神戸滞在時に客死している。
 松本因碩の死後、井上家は拠点を関西へ移している。元林門下であっ松本因碩に対し、幻庵因碩から直接指導を受けた門人が残る関西には、井上家の本流は自分達だという思いがあった。そうした中、たまたま松本因碩が神戸で亡くなり、葬儀の段取りなどを通じて跡目選定でも主導権を握った関西勢に推されて、幻庵因碩門下で大阪在住の大塚亀太郎が十四世井上因碩となったためである。