花房職秀 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 宇喜多氏、徳川氏に仕えた武将の花房職秀(後に職之)には囲碁にまつわる逸話が残されている。
 職秀は、天文18年(1549)に宇喜多氏の家臣.花房職勝(職治)の子として生まれ、若い頃に囲碁の対局でいかさまをした相手に激怒し、碁盤で相手を殴り殺し出奔したと言われている。
 宇喜多氏家臣・明石景行に仕えた職秀は、戦いの中で頭角を現し、宇喜多直家に気に入られ仕官。足軽大将として各地を転戦し、天正5年(1570)には美作国に荒神山城を築城。天正5年(1577)からは赤松氏、浦上氏と交戦し、天正7年(1579)に美作の後藤勝基を攻め三星城を滅ぼしている。
 この後、主君の宇喜多氏は織田信長、豊臣秀吉に従属。天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐にも従軍している。
 この小田原征伐で事件が起こる。囲碁のいかさまに激怒して相手を殺してしまったことからも分かるように曲がった事が嫌いだった職秀は、石垣山城で能や茶会などを催し一向に城攻めを仕掛けない秀吉に腹を立てていたという。そのため、城門で出会った秀吉に対して馬に乗ったまま相対し咎められるが、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と言い放ったという。激怒した秀吉は宇喜多秀家に職秀の処刑を命じるが、秀家のとりなしもあり考え直し、逆に物怖じしない職秀を気に入って加増を命じたという。
 また、文禄4年(1595)には秀家が重臣の長船綱直ばかりを重用することを諫言したため怒りを買って秀家に殺されそうになっている。この時は反対に秀吉や家康の仲介で助けられ、常陸国の佐竹義宣に預けられた。なお、この出来事は後に宇喜多氏のお家騒動の遠因となったともいわれ、宇喜多家は多くの有能な家臣が離れ弱体化していった。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいて職秀は徳川家康に与して活躍し、備中国高松8220石を与えられ旗本寄合に列している。秀吉の水攻めで有名な高松城は、その後、宇喜多氏が所領していたが、宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍に味方し改易となっている。なお、職秀は八丈島に流罪となったかつての主君・宇喜多秀家に、毎年二十俵の米を送っている。
 職秀は慶長19年(1614)から翌年にかけて行われた大阪の陣でも老骨に鞭打ち、輿に乗って差配している。長男が跡を継ぎ、次男は出家していたが家康の命で還俗し、徳川四天王の一人である榊原康政の養子となって、榊原職直と名乗り旗本に取り立てられた。
 職秀は元和3年(1617)に死去。享年69。高松城は職秀の死後、一国一城令で廃城となったと考えられている。