頭山満 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

頭山満

 

 明治から昭和初期にかけて活躍した右翼の巨頭頭山満は、「頭山といえば囲碁」といわれるほどの囲碁愛好家で、囲碁界の有力な支援者でもあった。

【経歴】
 頭山は安政2年(1855)に福岡藩士の筒井家に生まれ、明治6年(1873)に母方の頭山家へ婿養子に入る。
 16歳の時に福岡藩の女性の儒学者の高場乱の門人となり、明治9年には「秋月の乱」「萩の乱」で福岡藩士に蜂起を促したため投獄されている。そのため尊敬する西郷隆盛が起こした西南戦争へは参加する事ができなかったという。
 板垣退助らが中心となり自由民権運動が全国的に盛り上がる中、頭山は箱田六輔、平岡浩太郎らとともに向陽社を結成。後に玄洋社と名を改め各地で政治活動を展開していく。
 ただ、頭山は玄洋社の中心的人物でありながら社長になることはなく、唯一代表となったのは明治20年(1887)に創刊された『福陵新報』(九州日報の前身)の社長であった。
 当時、幕末に結ばれた外国との不平等条約を改正することが重要な政治課題の一つであったが、政府が作成した改正案ではそれが完全に解消されず反対の声も多かった。
 その反対運動のリーダー的存在が頭山であったが、民権主義を唱えるだけでは活動に限界があると感じ始め、その行動は自由民権運動とは一線を画すようになっていく。
 明治22年(1889)首相の黒田清隆が閣議で改正断行を表明したことで、改正交渉を主導していた外務大臣・大隈重信が爆弾を投げ付けられ右脚切断の重傷を負うという事件が発生。犯人は元玄洋社社員来島恒喜であり、本人はその場で自決し、玄洋社でも多数の検挙者が出ている。頭山は爆弾の手配など事件に深く関与していたと言われるが証拠が残されておらず、黒田内閣は総辞職に追い込まれ条約改正も白紙となっている。
 なお、大隈を殺害しようとした来島の最初の墓の題字は福沢諭吉が書いている。頭山は右翼の巨頭と呼ばれているが、幕府要人が天誅と称して多く殺害された幕末期の記憶が残る明治時代では右翼のイメージは現代と異なり、その過激な行動も世間で一定の理解を得ていたといえる。
 明治25年(1892)、日清戦争に向けて軍備拡大を進める松方正義首相は予算案が議会で否決される情勢となったため衆議院を解散している。この時、政府は自由民権運動を推進する各党支持者に対して買収や脅迫行為を公然と繰り広げ、時には警官までもが動員された選挙干渉が行われていた。政策を支持する玄洋社も協力を求められ、その実行役を務めている。しかし、選挙は政府側の敗北に終わり、この後頭山は自由民権運動から離れ、大物フィクサーとして「アジア主義」への道を歩み始めていった。
 頭山は海外の要人とも親交があり、李氏朝鮮で清からの独立を目指すクーデター(甲申事件)を起こした金玉均や、清を滅亡させ中華民国を建国した革命家・孫文および蒋介石はいずれも日本亡命時に、頭山の支援を受けている。孫文は亡命中に霊南坂の頭山邸に住んでいた。
 頭山が提唱したアジア主義とは、欧米列強による清をはじめとするアジア諸国の植民地化に各国が協力して立ち向かおうというものであった。盟友の犬養毅と並び世界的なアジア主義指導者として知られ、決して日本がアジアを支配しようとする意図はなかったという。
 玄洋社は明治43年(1910)の日韓併合でも暗躍したと言われるが、目指したのはそれぞれの国が自治権を持つ連邦化と言われ、併合を決定した政府に激怒し距離を置くようになったと言われている。
 頭山は昭和7年(1932)に関東軍主導で満州国が建国された際も不満を抱き、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会へも出席を断わっている。
 しかし、アジア主義は軍部の台頭により頭山の当初の構想とはかけ離れて、第二次世界大戦での日本を盟主とする大東亜共栄圏構想へとつながっていく。
 昭和12年(1937)に日中戦争が勃発すると、事態を打開するため当時の近衛文麿首相は中華民国の蔣介石と太いつながりを持つ頭山を内閣参議に起用する方針を立てるが、頭山の実力を低く評価する一部閣僚の反対により実現しなかった。
 戦争が長期化する中、頭山は昭和16年(1941)に東久邇宮稔彦王から蔣介石との和平会談を試みるよう依頼されている。蔣介石も頭山ならばと会談を了承したが、首相の東條英機が反対したため、これも実現しなかった。
 頭山は第二次世界大戦末期の昭和19年(1944)に89歳の生涯を閉じている。頭山満の墓は故郷福岡の頭山家菩提寺・圓應寺および崇福寺の玄洋社墓地、さらに東京青山霊園にある。

 

頭山満の墓(青山霊園 1ロ8 1~14)

 

【囲碁との関わり】
 頭山は囲碁が趣味で、自身の棋力も相当なものであったが見るのが好きだったといい、幾度も碁会を主催している。犬養毅とは囲碁仲間で碁を囲む様子を写した写真も残されている。
 江戸幕府崩壊によりスポンサーを失った囲碁界において、本因坊秀栄を初めとする有力な棋士たちを支援した有力な後援者であった。秀栄に無二の親友となる金玉均を紹介したのも頭山と言われている。
 女流棋士の草分けで日本棋院設立にも尽力した喜多文子(林文子)は結婚を期に囲碁界を離れていたが十数年ぶりに復帰しようと決意する。その話を聞いた頭山は、文子のかつての先輩で当時の最高実力者であった本因坊秀哉を動かし霊南坂の邸宅で毎週対局の場を設けている。やがて人の知るところとなり観戦者が増えてきたため会場は別の場へ移されるが、これにより文子は段々と棋力を取り戻し囲碁界への完全復帰を果たしている。              
 このように、囲碁界にも多大な貢献をした頭山は、晩年は囲碁三昧の日々をすごしていたといい、亡くなった際も倒れたのは居室で碁盤にむかっていた時だと伝えられている。