日本棋院初代総裁 牧野伸顕 | 囲碁史人名録

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牧野伸顕

 

 大正13年(1924)に設立された日本棋院の初代総裁は大久保利通の次男の牧野伸顕である。
 牧野伸顕は文久元年(1861)に鹿児島で生まれ、生後まもなく親類の牧野家の養子となる。
 明治維新を迎え、明治4年には父・大久保利通を含む政府首脳による海外視察「岩倉使節団」に同行し、11歳でアメリカへ留学。
 明治13年に外務省に入省し、イタリア公使等を経て文部大臣、外務大臣等を歴任している。
 大正8年、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」に次席全権大使として参加しているが、この時、日本一行で采配を振っていたのは、首席の西園寺公望ではなく牧野であったと言われている。また、随行員の中には当時外交官だった娘婿の吉田茂もいた。
 大正10年には宮内大臣に就任し子爵となる。背景には英米協調派で自由主義的な牧野を置くことで、皇室が政治的な騒乱に巻きこまれないようにという思惑があったと言われている。昭和天皇から絶大な信頼を置かれた牧野は、宮内大臣退任後も度々、宮中へ召し出され意見具申している。
 そのため軍部には牧野を快く思っていない者もいて、昭和7年の「五・一五事件」では襲撃対象となっている。当時内大臣であった牧野は官邸が襲撃されたものの無事であった。
 さらに、昭和11年の「二・二六事件」の際には、湯河原の旅館に宿泊中に襲撃されている。この時は、孫の麻生和子(吉田茂の娘で麻生太郎元総理の母)が身を挺して守り窮地を脱したという。

 

牧野伸顕の墓(青山霊園 1-ロ12-1~6)

 

吉田茂による碑

 

 囲碁界では明治以降、家元側と方円社による対立が繰り返されてきたが、関東大震災を機に合同の機運が高まり、ついに日本棋院が設立される。
 棋院では過去の対立の歴史を踏まえ、代表者は棋士以外から選ぶ事とし選ばれたのが牧野伸顕であった。自身が政界の実力者であったことが理由であろうが、父である大久保利通も囲碁界の有力な後援者で、囲碁界と繋がりが深い人物であった事は間違いない。
 牧野は趣味も多彩で囲碁のほかに、シャーロックホームズの熱烈なファンである「シャーロキアン」の草分け的存在としても知られている。
 第二次世界大戦後に行われた衆議院議員総選挙で自由党が第1党となり、鳩山一郎総裁の総理大臣就任が確実視されていたが、GHQにより公職追放となる。この時、牧野を後継総裁へ推す動きがあったが高齢を理由に辞退している。そして、最終的に総裁に就任し総理大臣となったのが娘婿の吉田茂であった。牧野は昭和24年1月25日死去享年87歳。
 青山霊園にある墓所には吉田茂による牧野の経歴を記した碑が建立されているが日本棋院に関しては触れられていない。波乱に満ちた生涯の中で囲碁の事など些細なことで触れられなかったのかもしれないが、吉田茂は囲碁をしなかったというので気にも留めなかったのかもしれない。