第29代内閣総理大臣 犬養毅 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

犬養毅

 

 第29代内閣総理大臣・犬養毅は、囲碁の愛好家で、明治・大正期の囲碁界の有力な支援者としても知られている。犬養毅は号をとって犬養木堂と称されることもある。

 

【犬養毅の生涯】
 犬養毅は安政2年(1855)、 備中国庭瀬村字川入(現:岡山市北区川入)で大庄屋を務める犬飼源左衛門の次男として生まれる(のちに犬養と改姓)。
 犬養家は桃太郎のモデルといわれる吉備津彦命に従った犬飼健命の子孫と伝えられ、桃太郎伝説における犬の子孫といわれている。
 明治9年(1876)に上京して慶應義塾に入学。在学中の明治13年(1880)に郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争へ従軍し、現地からの記事が話題となる。
 明治16年(1882)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、明治23年(1890)の第1回衆議院議員総選挙で当選、以後42年間で18回連続当選を果たしている。
 明治31年(1898)の第1次大隈内閣では辞任した尾崎の後任として文部大臣に初入閣。野党となった後は、大正2年(1913)の第一次護憲運動において第3次桂内閣を総辞職に追い込むなど活躍し「憲政の神様」と称されるが、この政争で当時所属していた立憲国民党が桂首相の切り崩し工作に遭い、以後犬養は小政党として辛酸を舐めることとなった。
 一方で、犬養は右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義者としても知られ、日本へ亡命中の孫文を保護するなどしている。
 その後、第2次山本内閣(1923)、加藤高明内閣(1924)で逓信大臣を務めているが、少数政党を率いる事に限界を感じ、自ら率いる革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ政界を引退。しかし、辞職に伴う補選に支持者たちが勝手に立候補させ再選してしまう。
 昭和4年(1929)には立憲政友会総裁の田中義一が亡くなり、後継者争いを治めるため犬養が総裁に選ばれる。
 当時の若槻内閣は、世界恐慌による経済危機や昭和6年(1931)に発生した満州事変への対応で行き詰まり解散したことから、慣例により野党大一党である立憲政友会が政権を引き継ぎ、犬養毅が29代内閣総理大臣へ就任する。
 犬養は経済対策のため、元首相の高橋是清を蔵相に起用して不況脱出に成功する。一方で満州事変については独自の中国とのパイプを通じ交渉しているが、満州国承認を求める軍部との対立が深まり、昭和7年(1932)5月15日に陸軍青年将校が中心に起こした反乱「五・一五事件」により暗殺される。暗殺犯に語った「話せば分かる」という言葉が有名である。
 「五・一五事件」の犯人達が軍法会議により比較的軽い罪となった事が、後の「二・二六事件」の遠因になったと言われている。また、事件以降、報復を恐れて政治家やマスコミが軍部を批判することを控えたため、日本は軍閥政治への道へ歩んでいく。

 

犬養毅の墓(青山霊園 1-ロ8-1~14)

 

【犬養毅と囲碁】

 犬養毅は囲碁の愛好家として広く知られていた。
 犬養は多趣味で、書道が得意故に筆や墨、硯を収集し、刀剣を愛蔵し鑑定眼も優れていたという。
 囲碁は明治34年に刊行された「明治六十大臣逸事奇談」では、初段に三目位であったという。
 愛蔵の碁盤は二百円したといわれる。当時の物価で考えると1円が1490円くらいになるが、教員や警察官の初任給で考えると1円は2万円くらいの価値になったそうで、そうすると犬養の碁盤は400万円相当の価値があったことになる。
 そのため、よく客が来て自慢の碁盤での対局を望まれたが、「うん、あれは君らのような笊碁と打つのじゃない。初段以上の相手なら」といって断っていたという。
 犬養は本因坊秀栄の後援者として知られているが、方円社設立時の賛成者の一人にも名を連ねている。
 勢いを増す方円社と、それに押される本因坊門が対立する状態は良くないと仲裁に乗り出したのは後藤象二郎と言われているが、後藤の意向を受けて実際に両者の調停に動いたのは犬養毅や渋沢栄一らであった。
 秀甫の死後、19世を再襲した本因坊秀栄は棋力を増していき、財閥・高田商会を経営する高田眞蔵の夫人、高田たみ子の支援で立ち上げた「四象会」には、対立していた方円社からも多くの棋士が参加するようになる。
 その「四象会」の名付け親は犬養毅である。四象会の由来について秀栄門下の高部道平は、秀栄、安井算英、石井千治、広瀬平治郎の四師匠にも通じると犬養が話していたと語っている。
 秀栄が高田たみ子と断絶し「四象会」が解散となると、生活に困窮者する秀栄を支援するために動いたのも犬養であった。犬養は時事新報社に働きかけて秀栄を支援する「日本囲碁会」を設立している。
 中国で囲碁の天才少年として評判となっていた呉清源が昭和3年(1928)に来日した際も犬養毅は助力している。相談を受けた犬養が、冗談半分に「そんな大天才が来て、日本の碁打ちがみんな負かされたらどうする」と尋ねたと言われているが、犬養の心配は見事に的中し、呉清源は後に「昭和の棋聖」と称されている。
 日本囲碁に多大な功績のあった犬養毅に対し、後に日本棋院は三段を追贈している。