将棋初代名人 大橋宗桂 | 囲碁史人名録

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 将棋の初代名人・大橋宗桂は囲碁も強かったと言われ、本因坊算砂と将棋や囲碁で対局した記録が残されている。
 公家の日記などによると、碁会と将棋会は同時に開催されることが多く、碁打ちが将棋を指したり、その逆もよくあることであった。
 宗桂は京都下京の町人宗也の息子で、僧侶だったという説もあるが、近年の研究によれば御用達町人という比較的裕福な家の出身であったとされている。弘治元年(1555)の生まれで算砂より四歳上である。
 初めは宗金、次に宗慶を名乗り、真偽のほどは確かではないが織田信長から「桂馬の使い方が巧い」という言葉を貰い以後「宗桂」と名乗るようになったとも言われている。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えたと言われているが、算砂と同じように信長、秀吉については史実ではないという研究者もいる。
 囲碁のみでなく将棋も強かったと言われる算砂は、慶長13年3月に宗桂と二代将軍徳川秀忠の下、江戸城において十番勝負を行い引き分けになっている。
 遺されている二人の将棋の平手戦の対戦は宗桂の七勝一敗であるため、「宗桂は算砂より角一枚分強かった」と言われていたが、近年、コンピュータで棋譜を解析したところ、局面評価結果が互角に近く、算砂の将棋の棋力は相当に高かったと考えられるようになった。
 慶長17年に徳川幕府より、算砂と共に五十石五人扶持を給されるが、将棋方では宗桂のみであり、これにより将棋方の代表者となっていったのであろう。
 このときに宗桂は将棋所に任じられたと言われているが、碁所将棋所が設立されるのは後の時代であり、それと同等の立場であったという表現が正しいと言えるかもしれない。
 また、一説には当初将棋所は碁所の本因坊算砂が兼務し、後に宗桂へ譲ったという説もあるが、双方の年齢差などからこれには否定的な意見も多い。ただ、家康に重用された算砂が宗桂を家康に紹介した可能性を指摘する研究者もいる。
 宗桂は寛永11年(1634)に没している。囲碁では算砂や道碩が弟子たちに相続させたのに対し、宗桂は実子の大橋宗古がすぐに世襲している。
 しかし、幕府からは五十石五人扶持を分割し将棋家の安定を図るように指導があったと言われ、当時59歳の大橋宗古は翌年に弟の大橋宗与を祖とする大橋分家、娘婿の伊藤宗看を祖とする伊藤家を興し、将棋家元三家体制が確立していく。
 いずれも三十石となり将棋家元の安定と継承に大きな寄与をもたらすことになったのだが、将棋方が五十石から計九十石に増加したために割合が減らされた碁方からは反対もあったという。