東郷平八郎 | 囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

東郷平八郎(カラー処理)

 

 日露戦争の英雄で日本陸軍の乃木大将と共に軍神と讃えられている日本海軍の東郷平八郎元帥は、囲碁の愛好家としても知られている。


【東郷元帥の生涯】
 弘化4年(1848)薩摩国鹿児島城下で生まれた東郷は、戊辰戦争に従軍し、維新後の明治4年(1871)にイギリス海軍へ留学する。
 留学中に敬愛する西郷隆盛が西南戦争で亡くなっているが、後に東郷は、もし国内にいたら自分も西郷軍に加わっていただろうと語っている。
 帰国後、海軍中尉となり日清戦争では浪速艦長として活躍、その後、海軍大学校長、常備艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官等を歴任していく。
 日露戦争では、連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」に乗艦し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞。敵前で大回頭を行う、後に「トウゴウ・ターン」と称される大胆な作戦でロシアのバルチック艦隊を撃破する。
 当時世界最強と呼ばれたバルチック艦隊の敗北は世界中に伝えられ、特にロシアの圧力に苦しんでいた地域では東郷は英雄として讃えられたという。
 東郷は大正2年(1913)に元帥となり、晩年も海軍の長老として昭和9年(1934)に86歳で亡くなるまで絶大な影響力を保持している。
 各国の軍人からも尊敬されていた東郷の国葬には各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍重巡洋艦「サフォーク」、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」、フランス海軍は軽巡洋艦「プリモゲ」が日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射。また、イタリア海軍巡洋艦「クアルト」、中華民国巡洋艦「寧海」も葬儀後に横浜へ駆けつけている。
 東郷が埋葬された東京都府中市から小金井市にまたがる都立霊園「多磨霊園」は青山墓地・谷中墓地などの公営墓地が手狭となったために整備されていたが、東京の中心部より遠く離れた場所にあるため当初は不人気で申し込む人はあまりいなかった。
 ところが、東郷平八郎が名誉霊域に埋葬されたことにより一気に知名度が上がり、現在は、改葬などで空いた場所のみの新規の募集が行われている。
 東郷は、生前に自分が神として祀られるのを拒否し、母親の眠る青山墓地への埋葬を希望していたが、願いは聞き入れられず、軍神として崇められ神社が建立されている。
 第二次世界大戦後、GHQは日本の軍国主義につながるものを次々と排除していくが、東郷を尊敬するアメリカ人も多く、東郷に関連するものには一切手を出さなかったという。

 

東郷平八郎の墓 (多磨霊園 7-特-1-1)

 

【囲碁の逸話】
 東郷は晩年、趣味の盆栽と囲碁を嗜みながら過ごしていたと伝えられている。伊東温泉の別荘は現在「伊東東郷記念館」となっているが、そこには犬養毅から贈られた愛用の碁盤も展示されている。
 棋力は「ザル碁」程度であったが、同じく軍神として崇められた乃木希典も同等の棋力を持つ囲碁好きだったため、明治44年に天皇の名代として二人がイギリス国王の戴冠式に出席した際には、その船旅の中で毎日対局していたとの逸話が残されている。
 二人は終日戦っていても碁盤を挟んで無言のままで、何も言わずに石を下ろすだけだったという。また、乃木の方が少し上だったとも言われている。