豊臣秀次 | 囲碁史人名録

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棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

豊臣秀次

 

 豊臣秀吉の後継者として関白となった豊臣秀次には碁会を開催するなど囲碁に関する記録も残されているが、後に非業の死を遂げている。


【豊臣秀次の生涯】
 秀次は、秀吉の姉の子で、永禄11年(1568)に生まれ、初め吉継と名乗り、次いで信吉と改め、その後に秀次と改名している。通称は次兵衛尉、孫七郎である。
 元亀元年(1570)織田信長は浅井・朝倉連合軍に姉川の戦いで勝利し、浅井親子が籠城する小谷城攻めに取り掛かるが、このとき当時4歳の治兵衛は秀吉により浅井側の宮部城主・宮部継潤を調略するため人質(名目上は養子)に出され宮部吉継を名乗っている。
 その後、木下家に戻っているが、阿波国を支配下に置く三好康長が四国統一に動く長宗我部元親に対抗するため秀吉に接近すると、今度は康長の養子に出され三好信吉となるなど、秀吉の出世の陰で苦難の人生を歩んでいく。
 信長亡き後、秀吉の天下人への道が見えてくると、その甥として頭角を現していき、天正12年(1584)織田信雄・徳川家康連合軍との間で行われた小牧・長久手の戦でも活躍が期待されたが、自らの指揮の誤りにより多数の戦死者を出してしまい秀吉から叱責を受けている。
 天正13年(1585)には羽柴姓を許され、秀吉の諱の一字をもらい秀次と名乗るようになる。そして、近江や大和などに43万石を与えられ、近江八幡山の城主となり、従三位中納言に叙任され近江中納言として知られていく。
 天正19年(1591)、秀吉が最も信頼した弟の豊臣秀長や実子の鶴松が相次いで亡くなったために、秀次は正二位左大臣に叙任され、秀吉から関白職を譲られ豊臣家を相続している。
 しかし、実権は依然として秀吉が握ったままであり、文禄2年(1593)には秀吉の側室淀殿が秀頼を生み秀次の立場は微妙となる。
 通説によれば、将来に失望した秀次は自暴自棄になり、乱行の果てに秀吉に対して謀反を企てたとされ、文禄4年(1595)に切腹に追い込まれ、妻子および側室30人以上が京都三条河原で処刑されている。
 江戸時代の書物では、秀次が弓や鉄砲の稽古と称して往来を通る者を的にしたり、殺生禁断の比叡山での鹿狩り、妊婦の腹を裂いて胎児を取り出すなどの乱行を繰り返したとされているが、このような話は信憑性を欠いていて、一説には、秀頼を溺愛する秀吉や淀殿に気を使った石田三成らが陰謀を巡らし秀次を陥れたと言われている。秀次は多才な人物で、剣術だけでなく茶道や連歌を嗜む教養人でもあった。


【囲碁との関わり】
 秀吉より関白職を継いだ豊臣秀次は囲碁・将棋を好んだと言われている。
 秀吉と同じで秀次も聚楽第に碁打ちを何度か招き碁会を開いたという記述も残されていて、秀吉の軍師として活躍した黒田如水が語るところによると、将棋の話であるが「関白は我より少し強く、それ故度々召し出される」とある。