大岡越前守忠相 | 囲碁史人名録

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大岡越前守忠相

 

 八代将軍・徳川吉宗による享保の改革を支え、名町奉行として知られた大岡越前守忠相は、町奉行退任後に囲碁界を統括する寺社奉行に就任し囲碁界とも関わっている。
 延宝5年(1677)旗本・大岡忠高(1700石)の四男として江戸に生まれた忠相は、貞享3年(1686)に同族の旗本・大岡忠真(1920石)の養子となり元禄13年(1700)に家督を相続。正徳2年(1712)には遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任している。
 俗説では山田奉行時代に幕領と接する紀州藩との境界を巡る係争を公正に裁いたことが当時紀州藩主であった徳川吉宗の目に留まったと言われているが、実際には山田奉行に領地問題を裁く権限が無いため、後世に創作された話しではないかと考えられている。
 いずれにしても大岡は普請奉行を経て、吉宗が第八代将軍となった翌年の享保二年(1717)に江戸町奉行に就任している。
 江戸町奉行と言えば江戸府内の武家・寺社を除く庶民の司法(裁判所)および警察を司っていたというイメージがあるが、それ以外にも行政を担い、現在の都知事に近い役職であった。
 忠相は防火体制強化のため「いろは四十七組」の町火消の創設や瓦葺屋根や土蔵の普及に努めているほか、医療制度の充実のため小石川養生所の設立にも尽力している。
 なお、「大岡政談」として歌舞伎・浄瑠璃などの題材となっている忠相の裁判における見事な裁定については、そのほとんどが他の奉行や外国の話しがもとになっていて、実際に忠相が裁いたのは「白子屋お熊事件」ぐらいと言われている。
 元文元年(1736)忠相は約20年間務めた町奉行から寺社奉行へと転任しているが、本来大名が務める寺社奉行に旗本の忠相が就任するのは異例の事であった。
 寺社奉行就任は形の上では栄転と言えるが、実質的には幕政への影響力が少ない「名誉職」とも言えるポストであり、その背景として、忠相が江戸の物価安定のため金貨と銀貨の相場に介入し両替商と対立し、事態収拾のために配置転換されたというのが真相のようだ。
 寺社奉行には四名前後が任命され、月ごとの輪番制で自らの屋敷で公務は行っていた。また、大名が任命される武家の礼式を管理する奏者番を兼任するのが一般的であったため、江戸城には寺社奉行専用の詰め所が無く、奏者番の詰め所を使用することが慣例となっていた。
 ところが異例の出世を遂げた忠相への妬みなのか、大名たちは旗本である忠相の奏者番詰め所への立ち入りを拒否し、数年経ってようやく忠相の置かれた境遇に気が付いた吉宗により寺社奉行の詰め所が設置され、忠相は三河国西大平(岡崎市)1万石の大名へ引き立てられている。

 碁所・将棋所を管轄した寺社奉行は、御城碁将棋の段取りも取り仕切っていたが、忠相が行った記録が残されていて、御城碁将棋がどのように行われていたか現代に伝えている。

 忠相が奉行となった頃の囲碁界は家元筆頭格の本因坊家で当主が相次いで二十代で亡くなり囲碁界全体が低迷し「暗雲の時代」と呼ばれていた。一方で将棋界は伊藤宗看が二十代で名人になるなど隆盛を極めていたという。
 今でこそ囲碁と将棋は同列に扱われているが、江戸時代は囲碁の序列が将棋より上位と位置付けられていたため、伊藤宗看は元文2年(1737)に序列の変更を幕府へ申し立てた「碁将棋名順訴訟事件」を起こしている。
 囲碁界は反発したものの、寺社奉行の井上河内守と松平紀伊守は宗看の門人であり、申し立てはすんなり受け入れられる情勢だったという。
 しかし裁定を下すはずだった井上河内守が急死し、対応を引き継いだ忠相は、序列は今までどおりという裁定を下している。
 別に忠相が囲碁好きという事ではなく、将軍吉宗のブレインとして享保の改革を推進してきた忠相にしてみれば、改革が徳川家康の政治を理想としていたため、家康公が取り決めた碁将棋の席次を変える必要は無いという判断だったと言える。
 いずれにしても、忠相の裁定により囲碁界は面目を保たれ、やがて名人察元の登場により再び活性化していくことになる。
 寺社奉行の屋敷は、御城碁の前の下打ちなどで会場として使われる事もよくあったという。元文4年(1739)に本因坊秀伯が七段上手への昇進を求め、反対する井上春碩因碩との間で争碁が行われた際も、元文5年(1740)1月18日に行われた第四局は大岡邸で行われている。

 また寛保3年(1743)に林因長門入が名人碁所就位願いを出した際、秀伯の跡を継いだ本因坊伯元と安井仙知が反対したため、忠相は争碁にて決着を付けるよう裁定している。ただ、この時は門入が願いを取り下げ争碁は行われていない。
 寛延4年(1751)大御所となっていた吉宗が死去すると、忠相は葬儀の担当者を務めているが、その後病のため寺社奉行を辞任し翌年に亡くなっている。享年75。