初代天文方 渋川春海(二世安井算哲) | 囲碁史人名録

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渋川春海

 

天元の局(二世算哲VS本因坊道策)30手まで

 

渋川春海の墓(中央と左の2基)東海寺大山墓地

 

 天体観測や暦の研究を行った江戸幕府「天文方」、初代天文方・渋川春海は、寛永16年(1639)に囲碁家元の安井家・一世安井算哲の長子として京都で生まれている。
 慶安5年(1652)父の死により二世安井算哲となるが、当時はまだ13歳であったため、安井家は一世算哲の弟子で養子の安井算知が跡を継いでいる。
 一説には安井家の家督は二世算哲が継ぎ、算知は別家を興したものの、囲碁の家元制度確立に伴い算知の家系を算哲から続く直系に整理したとも言われている。
 明暦の大火以降、安井家は京都を拠点に活動しているが、二世算哲は算知と共に公家や寺社に招かれ碁会に参加している。また万治2年(1659)21歳で御城碁に初出仕している。寛文10年(1670)の御城碁では本因坊道策との対局において算哲が初手天元を打ち、「天元の局」と称される囲碁史に残る一局として語られている。
 二世算哲は、囲碁だけでなく算術、暦法、天文暦学、神道などにも精通していた。当時、日本で使われていた「宣明暦」は800年前に唐から伝わったもので、この頃はかなりの誤差が生じていたため、算哲は中国の新しい暦「授時暦」を基に幾度か失敗を繰り返しながら独自の観測データによる修正を加えて、日本初の国産暦「貞享暦」を完成させる。
 朝廷は大和暦を採用し、当時の元号から「貞享暦」と命名する。算哲はこの功績により貞享元年(1685)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ碁方を辞任。名前を渋川春海と改めている。碁打ち衆の禄は本因坊算砂でさえ50石5人扶であったことを考えると大出世と言える。
 なお渋川姓については、安井氏は清和天皇の流れを汲む河内守護の畠山氏の一族で、河内国渋川郡を領有し渋川氏を名乗っていたが、後に播磨国の安井郷に移封され安井氏へ姓を変えている。したがって先祖の姓に戻したという事である。

 渋川春海は、ずば抜けた天才という訳ではなかった。当時、囲碁界には碁聖と呼ばれた本因坊道策がいたためNO1にはなれず、算術では関孝和という天才がいた。そんな中で春海が名を残す事が出来たのは政治力によるものが大きい。
 安井一門が京都を拠点に活躍し皇室や公家社会とも強いつながりがあったほか、御城碁を通じ幕府にも幅広い人脈を持っていた春海は、徳川家光の弟・保科正之や水戸藩の水戸光圀など、多くの有力者の支援を受けていた。
 天文方に任じられた春海は、天文台を設置した拝領屋敷で観測を続け、後に天文方を嫡男の昔尹に譲っている。しかし、正徳5年(1715)に昔尹が急死し、春海自身も失意のうちに数ヶ月後に亡くなっている。
 東京都品川区の東海寺の大山墓地には天文方・渋川家歴代の墓所があり、渋川春海もそこに眠っている。
 墓所には春海は亡くなった当時に建立された墓と、明治40年(1907)に改暦の功績により従四位が贈位された際に建立された墓がある。
 どちらも戒名「本虚院透雲紹徹居士」と刻まれているが、新しい墓石には側面に「贈従四位 渋川助左衛門源春海」と刻まれていた。「助左衛門」は春海の通称で、源姓を名乗っているのは、安井氏(渋川氏)が源氏の畠山氏の末裔であるためである。
 渋川春海の存在は、春海を主人公にした冲方 丁の小説「天地明察」が第7回本屋大賞(2010)を受賞し、後に映画化されたことから一般にも広く知られるようになった。
 そして平成24年(2012)には日本棋院の第9回囲碁殿堂入りしている。