名人碁所を目指した 五世林因長門入 | 囲碁史人名録

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享保6年(1722年) 御城碁 黒 林因長 白 井上策雲因碩 黒3目勝

 

 江戸時代の囲碁界を牽引した家元四家の内、トップの座である名人碁所を輩出していないのは林家だけである。
 その中で、唯一名人碁所になろうとしたのが五世林因長門入である。
 林因長門入は、元本因坊道知門下の碁打ちで本名は井家道蔵。享保5年(1720)に四世林朴入門入の跡目となり林因長を名乗る。
 享保11年(1726)、朴入の隠居に伴い因長は七段で家督を相続し五世林門入となる。
 元文2年(1737)将棋方の若き名人伊藤宗看が、江戸城において囲碁方が将棋方より上座に座るなど、碁打ちが優先される従来の慣行の廃止を求める「碁将棋名順訴訟事件」を起こしているが、八段準名人で囲碁家元最年長の門入は、他の当主、本因坊秀伯、井上春碩因碩、安井春哲仙角と結束して反対し、従来の取り決めを死守している。
 将棋界の攻勢による囲碁界の危機に対して一致結束して戦った各家元であるが、その後は関係が崩れ対立を繰り返していく。
 元文4年に本因坊秀伯が七段昇段を求めるが、門入と因碩がこれに反対したため秀伯と因碩との間で争い碁が行われている。秀伯は病のため結論が出る前に亡くなっている。
 寛保3年(1743)、門入は道知が亡くなって以降空位となっていた名人碁所就位の願いを幕府へ申し出る。
 これに対し井上因碩は賛同しているが、秀伯の後を継いだ本因坊伯元、安井仙知が反対。寺社奉行の大岡忠相は争碁による決着を促しているが門入は辞退し同年に隠居、延享2年11月2日(1745年11月24日)に亡くなっている。
 因長門入以降、林家で名人碁所になろうとした人物は現れず、ついに林家から名人碁所が輩出される事はなかった。