囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

稲山嘉寛

 

 日本棋院第6代総裁・稲山嘉寛は、新日本製鉄初代社長として戦後日本の高度経済成長を支えた「鉄鋼王」であり、「財界総理」とも称される第5代経団連会長を務めた財界の大物である。
 東京大学卒業後、商工省を経て官営八幡製鐵所に入社。八幡製鐵所は、昭和9年(1934)に他の製鉄会社と合併して「日本製鐵」となり、終戦後には財閥解体に伴い分割され、「八幡製鐵株式會社」へと変わっていくが、その中で、稲山は販売畑を歩み、昭和37年(1962)に社長へ就任している。
 昭和45年(1970)、戦後の過当競争を避けるため、八幡製鐵と富士製鐵の巨大合併を成し遂げ、誕生した新日本製鐵(現・日本製鉄)の初代社長に就任、後に二代目会長となった。
 稲山の代名詞といえば、「我慢」の哲学と「ミスター・カルテル」という異名である。新日鉄誕生の経緯からも分かるように、「自分も我慢するから、貴方も我慢してほしい」という共生の精神を掲げ、過度な自由競争よりも業界全体の協調と価格の安定を重視していた。この思想は、オイルショック後の低成長期や日米貿易摩擦の調整において、産業界をまとめる大きな力となっていく。
 昭和55年(1980)に財界トップである経済団体連合会(経団連)の第5代目会長に就任。当時問題となっていた欧米との貿易摩擦解消に尽力し、国際協調を重視し自動車・VTR等の輸出自主規制を指導していく。
 一方、私生活は極めて質素で、財界のトップにありながら亡くなるまで約40年間、世田谷の新日鉄社宅に住み続けるなど、清廉な人柄でも知られている。「鉄は国家なり」という信念を持ち、私利私欲を捨てて日本経済の土台を築いた彼の姿勢は、今も多くの経営者に語り継がれている。

 稲山が日本棋院総裁に就任したのは、昭和57年の事である。前任の田實総裁が8月に亡くなり、日本棋院では後継総裁の検討を重ね、経団連会長の稲山氏に絞り込み承諾を得たのだ。

 日本棋院総裁は、設立当初は棋院の最高責任者であった。しかし、第二次世界大戦が激化し、経営陣が本業を再建するため棋院の経営から手を引いてからは、棋院は棋士が主体的に運営する、理事長をトップとする組織に生まれ変わった。現在、総裁は名誉職と位置付けられ、該当人物がいない時期は空席の場合もある。とはいっても、総裁には政財界にも影響力がある人物が選ばれるので、組織のためにも空席でない方がい望ましい。

 稲山は囲碁の愛好家であり、貿易協定締結のため幾度となく中国を訪れた際も、特に観光に行くでもなく、仲間を探しては囲碁や麻雀を楽しんでいたという。人選にあたっては、「囲碁を愛好して下さる方で世界的視野を持たれる方。それに人柄」ということで、評議委員会満場一致で可決されたという。

 「棋道 1983.1」には、次のように稲山氏の就任あいさつが掲載されている。

 

日本棋院総裁就任にあたって
  稲山嘉寛

 皆様から推戴され、不適任とは思いますが、お引受けした次第でございます。
 囲碁は日本古来の国技のひとつであり、広く各国の方々からも”世界最高の知的ゲーム” とされております。
 今春三月には、二十九ヵ国の加盟を得て「国際囲碁連盟」が結成され、来年二月には、大阪で「第5回世界アマチュア囲碁選手権大会」が開催されます。
 日本棋院は、囲碁普及の大目的として、
 「人種も言語も思想も、すべてを超えて、囲碁を人と人とが手を結ぶためのよすがにしたい」
と宣言しています。
 私も国際親善を推し進め、世界平和こそ日本の活きる道と信ずるひとりです。
 いささか囲碁をたしなむ私個人としては、趣味として最高のものであり、人間形成、教育の面にもまことに好適と信じております。

 身に余る光栄、重責ではありますが、微力ながら日本棋院の使命に奉仕したいと思います。

 

 

稲山嘉寛の墓(谷中霊園 乙11号14側付近。JR線路側)

 

 

 稲山氏は、昭和62年(1987)に亡くなっている。享年83。日本棋院総裁は亡くなるまで務めていた。

 墓所は谷中霊園にある。

 日本棋院に、次の第7代目総裁(朝田静夫)が誕生するのは、 平成5年になってからである。

 

 かつて、日本棋院は内閣総理大臣へ名誉段位を贈っていた。

 囲碁愛好家であった第70代内閣総理大臣・鈴木善幸には名誉七段が贈られている。

 

 

前半生と議員活動
 鈴木善幸は、明治44年(1911)に岩手県の水産業を営む網元の家に生まれる。昭和8年(1933)に発生した昭和三陸地震で被災したのをきっかけに政治家を志し、大日本水産会会長秘書、中央水産業会企画部次長等を経て、昭和22年(1947)の衆議院議員総選挙で日本社会党から出馬して初当選する。後に社会革新党へ移るが、少数政党での活動に限界を感じ、周囲の奨めで吉田茂率いる民主自由党に移籍した。自由党と民主党の合併により自由民主党が結党されると、池田勇人の宏池会に所属し、側近として頭角を現していった。
 昭和35年(1960)の第1次池田内閣で郵政大臣として初入閣。以降、内閣官房長官、厚生大臣、農林大臣を歴任したほか、党総務会長を10期務め、裏方としても力を発揮。昭和53年(1978)の総裁選では、大平派を指揮し、田中派の全面支援をとりつけるなど勝利に貢献している。大平内閣では党総務会長として中国の最高指導者であった鄧小平と会談し、尖閣諸島の領有権問題棚上げや、日本からの政府借款受け入れなど、政府の懸案事項解決を支援した。
 

鈴木政権

 昭和55年(1980)5月、社会党が提出した大平内閣不信任案が、自民党反主流派の欠席により可決され、史上初の衆参同日選挙(ハプニング解散)が行われた。その選挙中に大平首相が亡くなったことで、同情票を集めた自民党は圧勝している。しかし、選挙後の後継総裁選びは、最大派閥の田中派がロッキード事件を抱え、不信任に協力した福田派・三木派からも擁立が困難な状態であり、有力候補の中曽根康弘も、田中角栄の支持を得られず、人選は難航していた。そこで、大平が率いていた宏池会からの選出が検討されたが、会長候補の宮澤喜一は田中との関係があまり良くなかったことから、田中角栄と近く、大平政権を支えてきた鈴木が総理総裁に選ばれた。鈴木は最後の明治生まれの総理で、社会党出身者としては二人目の総理でもあった。なお、鈴木の総理総裁誕生は、選挙ではなく、副総裁の西村英一の指名で決定したことから、「西村裁定」と呼ばれている。また、裏方経験が長かったことから、総理就任時に海外での知名度はほとんどなく、アメリカのメディアから「ゼンコ― フー?」と言われたとも伝えられている。

 激しい党内抗争を経て誕生した鈴木内閣は、「和の政治」を掲げ、党内融和と結束を重要視した。内閣のポストでは、目玉政策である行革を担当する行政管理庁長官に、次の総理を目指す中曽根を充てる一方、河本敏夫・中川一郎ら反主流派も、それに見合うポストで処遇し、絶妙のバランス感覚で党を運営していった。
 政策は、大平政治を継承し、「政治倫理の確立と行政綱紀の粛正」「財政の再建」「行政改革の断行」などを重点政策に掲げている。
 鈴木内閣は様々な制度改革に取り組み、金権選挙が指摘された参議院の全国区選挙では、比例代表制を導入している。財政問題では、赤字国債脱却を、増税ではなく無駄な支出の削減で達成する「増税なき再建」を掲げたが、なかなか成果を挙げることが出来なかった。
 一方、外交や安全保障面では、鈴木自身が今まであまり関わってこなかったことから、諸問題に直面することとなった。当時は、ソ連のアフガニスタン侵攻などで東西の緊張関係が高まっていた新冷戦時代であり、日本もシーレーン(海上交通路)の防衛力強化などを求められていた。社会党出身の鈴木は、本来ハト派で、軍事より対話を重視していたが、昭和56年(1981)に、アメリカのレーガン大統領と会談した際に、共同声明に『同盟関係』という文言を掲載されたことから、軍事的関係強化の密約を疑う野党やマスコミから追及されることとなった。さらに、アメリカが防衛力強化への圧力を強める中で、園田外相が、先の共同声明は条約などと違い拘束力は無いと発言したことで、両国の関係が悪化していった。
 また、昭和57年(1982)には、大手マスコミ各社が、文部省が教科書検定において、高等学校の日本史教科書の記述を、中国に“侵略”から“進出”へと改めさせたと報じた、「第一次教科書問題」が発生し、中国や韓国が反発していた。政府は、これを否定したが、検定は近隣諸国に配慮するという「近隣諸国条項」を定めるなど対応に追われ、首相の外交経験不足が露呈する結果となった。

名誉七段
 昭和56年2月24日、鈴木首相は首相官邸において、日本棋院の田実渉総裁と坂田栄男理事長から名誉七段位の免許状を贈られている。前任の大平首相は名誉五段であったが、鈴木首相は池田内閣時代に、実力五段位の国会議員を二人破り、無段から、いきなり五段をもらっているため七段となったのだろう。ちなみに、福田赳夫元首相も名誉七段を贈られているが、こちらはかなり上げ底であったといわれている。

 田実総裁から免状を受け取った鈴木首相は「剣道五段とか、いろいろな免状をもらったが、碁の免状ほどすばらしいものはない」と、大変喜んでいたといわれる。田実総裁は、「今後はめったにお打ちにならないようにしてください。他人に段位を聞かれたら国家の秘密と答えてください」とくぎを刺し、首相は、「いやあ、これは天元の一着だね。まいった、まいった」と言って、取材の記者団を笑わせている。

総理退陣と晩年
 鈴木内閣は、対米関係の悪化や赤字国債脱却が思うように進まない問題はあったが、巧みな党内運営で、昭和57年(1982)の総裁選で再選さえすれば長期政権も視野に入っていた。しかし、鈴木首相は、昭和57年(1982)10月に突然総裁選不出馬を表明している。直前まで、まったくそのような動きはなく周囲を驚かせたという。退陣会見では、理由を、党内融和優先のため、人身を一新して挙党体制を作りたいと語っているが、その背景について明確に語ることはなかった。

 退陣表明前には中曽根に後継を打診していて、政権交代はスムーズに行われていき、鈴木が手掛けた行革は、国鉄の民営化など、中曽根内閣で実を結んでいくこととなった。
 その後、中曽根首相は、田中派との関係を強め、しばしば鈴木内閣時代の外交を批判するようになっていく。中曽根と距離を取るようになった鈴木は、昭和61年(1986)に宏池会会長職を宮澤喜一に譲り、平成2年(1990)に政界を引退。平成16年(2004)に93歳で亡くなっている。

 

 

大平正房

 

 現在は行われていないが、以前、日本棋院では新しい内閣総理大臣が誕生すると、名誉段位を贈っていたという。
 第68・69代内閣総理大臣・大平正芳も、首相就任時に名誉五段を贈られている。
 大平首相は、明治43年(1910)、香川県に生まれる。経済的理由から大学進学を諦め、会社勤務となるが、再び大学進学を決意し奨学金で東京商科大学(現一橋大学)へ入学する。

 大学卒業後の昭和11年(1936)に大蔵省へ入省している。当初、本人は特に官僚になるつもりはなかったそうだが、同郷の大蔵次官・津島壽一に挨拶に行った際に、「ここで採用してやる」と言われ、異例であるが即決で採用が決まったという。ちなみに、津島壽一は昭和24年(1949)から二年間、日本棋院の理事長を務め、昭和30年(1955)から亡くなる昭和42年(1967)まで総裁を務めるなど、戦後復興期の囲碁界を牽引してきた人物でもある。
 大平は、大蔵省では主に税務畑を中心に活躍している。上司には後に首相となる池田勇人がいた。なお、昭和20年(1945)には、大蔵大臣へ就任した津島の秘書官を務め、昭和24年(1949)にも大蔵大臣となった池田勇人の秘書官を務めている。
 昭和27年(1952)、池田の誘いで大蔵省を退官し、自由党公認で衆議院議員総選挙に立候補して当選した。以降、池田の側近として宏池会(池田派)発足にも参加し、池田内閣では内閣官房長官、外務大臣に就任、続く佐藤内閣以降も、通商産業大臣、外務大臣、大蔵大臣など主要ポストを歴任した。特に田中内閣では、外務大臣として、日中国交正常化へ尽力している。
 昭和46年(1971)、宏池会会長へ就任した大平は、有力な首相候補の一人として存在感を増し、以降、日本の政治は自民党各派閥の領袖「三角大福中」(三木、田中角栄、大平、福田、中曽根)を中心に動いていくことになる。
 昭和49年(1974)に田中首相が金脈問題で辞任すると、蔵相で田中角栄と盟友関係にあった大平は、田中派の支援をとりつけ次期首相の最有力候補となったが、副総裁の椎名が公選を行うことなく三木武夫を総理総裁に指名した「椎名裁定」により、総理総裁の座を逃している。

 しかし、三木首相は、昭和51年(1976)に「ロッキード事件」徹底追及に反発する議員による「三木おろし」の影響で総選挙で大敗し、責任をとって退陣する。この時、福田赳夫は、2年後に政権を禅譲する約束(大福密約)で大平の支持をとりつけ総理総裁となった。大平は福田内閣で幹事長に就任し、野党に「部分連合(パーシャル連合)」を呼びかけ難局を乗り切りきっていく。

 しかし、福田首相は昭和53年(1978)の自民党総裁選挙で、約束を反故にして再出馬を表明し、大平と対決している。総裁選は当初、現職の福田首相が有利と思われていたが、大平は田中派の全面支援をとりつけ勝利し、念願の自民党総裁となり、12月7日に第68代内閣総理大臣へ就任した。
 総理に就任してから19日後の12月26日、日本棋院は慣例に従い、大平総理に名誉五段を贈呈している。当初、大平は「碁は打たないから」と辞退していたが、記者等の説得により「記者団のご賛同が得られるなら」といって受け取ったという。本人が囲碁は打たないと言っているとおり、これ以外に大平総理の囲碁に関する逸話は確認できなかった。
 大平は演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きすることが多く「アーウー宰相」とも呼ばれていた。「あーうー」はテレビなどでモノマネされることも多く、流行語にもなっていた。しかし、大平はその話し方とは裏腹に、頭の回転が早く、ユーモアのセンスも抜群な知性派の政治家であった。

 首相在任中には、ソ連のアフガニスタン侵攻による「モスクワオリンピック出場ボイコット」、中国への政府借款の供与や「日中文化交流協定」の調印など、外交問題で成果をあげている。一方で、財政問題では赤字国債発行や財政再建への対処のために「一般消費税」導入を検討したが、与野党や世論の猛反対を受けて、断念に追い込まれることとなった。
 当時、自民党は「三木おろし」以降、議席が回復しておらず、派閥間の対立も治まっていなかったため、昭和54年(1979)の衆議院総選挙では過半数割れに追い込まれていた。その結果、党内反主流派による、後に「四十日抗争」と呼ばれる退陣要求が始まり、事実上分裂状態となっていた。総選挙後の首班指名選挙で勝利し、第二次大平内閣が発足したが、指名選挙は、反主流派が福田前首相に投票し、大平首相と福田前首相の自民党同士で決選投票が行われるという異例の展開であったため、党内の亀裂はますます深まっていった。
 第二次内閣発足後、党内抗争は一旦収束したかに見えたが、翌年の昭和55年(1980)5月16日に、社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派は採決を欠席して不信任が可決された。決議案を提出した野党自身も可決されるとは思っておらず、「ハプニング解散」と称される解散総選挙が行われることとなった。
 大平は、この難局を史上初の衆参同日選挙で乗り切ろうとした。投票日は6月22日と決まる。しかし、大平は公示日の5月30日に体調不良を訴え緊急入院。この時、反主流派は、投票日当日から始まる「ヴェネツィアサミット」を大平が欠席する事を理由に退陣を要求し、大平を激怒させた。大平は一時、病状回復の兆しを見せていたものの、6月12日に急変し、心筋梗塞による心不全で70歳の生涯を閉じている。


大平正房の墓(多磨霊園 9-1-1-15)

 

墓碑

 

 現職首相の急死という非常事態により、選挙情勢は一変している。当初、野党転落の恐れもあった自民党は、「弔い選挙」のために主流派と反主流派が挙党態勢をとり、有権者も多く同情票を投じたため、衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得る結果となった。選挙結果は世界でも注目され、「ヴェネツィアサミット」は、冒頭、大平を偲ぶ黙とうでスタートし、途中、自民党の大勝が伝えられると、会議に出席していた竹下登大蔵大臣等の再選が祝福されるなど、異例の内容であった。大平首相は、結果として命を賭して自民党を救う事となったのだ。
 大平は現在、多磨霊園に眠っている。