囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

朝倉文夫

 

 市ヶ谷の日本棋院のロビーに二十一世本因坊秀哉と初代総裁・大倉喜七郎の胸像が設置されている。
 作者は「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家、朝倉文夫である。
 朝倉は早稲田大学の「大隈重信像」や、旧東京都庁第一庁舎前に設置され現在は東京国際フォーラムに移設されている「太田道灌像」の作者としても知られている。

 経緯はよく分からないが秀哉像は昭和九年(1934)に制作されたものと思われ、大倉喜七郎像は喜七郎氏が亡くなった昭和三八年(1963)に棋院の依頼で制作されている。

 

本因坊秀哉と大倉喜七郎の胸像(日本棋院)

 

大倉喜七郎像の説明板

 

 朝倉文夫は明治16年(1883)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市朝地町)の村長、渡辺要蔵の三男として生まれ、9歳のときに朝倉家の養子となる。明治35年(1902)中学を中退し、実兄の彫刻家・渡辺長男を頼って上京。翌年、東京美術学校彫刻選科に入学している。
 モデルを雇う費用がなく上野動物園へ通って動物のスケッチをするなどして彫塑制作に没頭していたといわれ、在学中に海軍省が募集した三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等となって世間の注目を集める。
 彫刻選科を卒業後は研究科に在籍し、谷中天王寺町のアトリエで後進の指導にあたる。第2回文展に『闇』を出展し二等賞(一等該当なし)となり、その後も受賞を重ねて注目され、大正5年(1916)以降文展や帝展の審査員も務めている。また、大正10年(1921)には東京美術学校の教授に就任し日本美術界の重鎮として活躍していった。
 文夫の動物のデッサンで鍛えられた自然主義的作風は、文展や帝展彫刻に多大な影響を与えたと言われ、文夫自身も昭和10年(1935)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」(後の朝倉彫塑館)を造り後進の指導にあたっている。
 戦後も精力的に制作活動を行い昭和23年(1948)に第6回文化勲章を受章。昭和39年(1964)に81歳で亡くなっている。

朝倉文夫の墓(谷中霊園内 天王寺墓地)

 

 朝倉文夫の墓は谷中霊園の天王寺墓地にあるが、彫刻家らしい墓石というのか、文字が刻まれるのではなく浮き出る形のデザインとなっている。

 

 

芳川寛治

 

【芳川寛治の概要】
 大正9年(1920)に文部大臣や枢密院副議長を歴任した伯爵・芳川顕正が亡くなり襲爵したのが娘婿の芳川寛治である。
 顕正は将棋の十二世名人・小野五平の有力後援者として知られていたが、寛治は囲碁愛好家であり、特に裨聖会の有力支援者として活躍している。
 寛治は明治15年(1882)に大蔵大臣、外務大臣等を歴任した曾禰荒助子爵の次男として生まれ、三井物産に務めていた明治42年(1909)に芳川顕正の四女鎌子と結婚し娘婿となっている。
 しかし、寛治は身持ちが悪く妾邸に頻在したため夫婦関係が破綻。思い悩んだ鎌子はお抱え運転手と駆け落ちし、千葉駅近くで列車に飛び込む心中未遂事件を起こしている。
 幸い二人は一命をとりとめたが、後に運転手は一人で自殺し、この事件は「千葉心中」と称され小説や歌の題材にもなっている。
 この大スキャンダルの責任をとって顕正は枢密院副議長を辞任。鎌子は退院後、勘当となっている。
 一方、騒動の原因を作った寛治は、世間体を気にする芳川家の思わくもあり、家を追い出されることなく、顕正の没後、伯爵を襲爵している。
 しかし、本来であれば義父の功績により貴族院議員にでもなれたのであろうが、スキャンダルによりその道は断たれ、実業家としての活動に専念することとなる。
 台湾鉱業、磐城鉱業、足利紡績の社長などを歴任、さらに池上電気鉄道社長(大正10年)、満州繊維工業社長(昭和16年)、藤田組社長(昭和18年)に就任するなど活躍し、昭和31年(1956)に亡くなっている。
 家督は娘婿の芳川三光(三室戸敬光三男)が相続している。
 なお、青山霊園の芳川家の墓所には芳川顕正と夫人の墓、そして伯爵芳川家の墓の三基があるが墓誌が無いため誰が葬られているか確認できなかった。しかし、寛治は当主なので伯爵芳川家の墓に葬られていると思われる。
 

伯爵芳川家の墓(青山霊園 1種イ21号9側)

 

【囲碁界との関り】
 明治以降の囲碁界は、家元本因坊家と囲碁結社方円社の二大勢力が並立する時代が続いてきたが、第一次世界大戦後の不況もあって大正期には碁界合同の気運が高まっていた。
 しかし、動きが具体化していくなかで、考え方の違う両者の合流に不満を募らせていた雁金準一、高部道平、鈴木為次郎、瀬越憲作の4名の棋士が、大正11年(1922)に裨聖会を設立。
 参加したのは僅か4名であったが、いずれも棋界トップクラスの実力者であり、段位制を廃し対局は総互先(コミなし)、成績は点数制、持ち時間制の採用など革新的な制度を打ち出していく。
 裨聖会に危機感を抱いた方円社、本因坊両派は合同の動きを加速していき、翌年1月に中央棋院が設立される。しかし中央棋院は資金運営などを巡り対立し、再び方円社と中央棋院の名を引き継いだ本因坊派に分裂、裨聖会を加えた三派鼎立の時代を迎えている。
 この裨聖会設立に向けて尽力していたのが芳川寛治である。
 裨聖会の役員は会長が細川護立公爵、評議員は芳川寛治を含めて八名で構成されていたが、細川会長は名前を貸すだけで一切責任を負わないことを条件に就任したそうで、積極的に動いていたのが芳川であった。
 しかし、囲碁界に影響力を持つ時事新報の矢野由次郎へ設立賛同の署名を依頼したものの棋界合同の動きに反すると断られ、本因坊門を破門されていた野沢竹朝と親交があり、裨聖会へ勧誘したものの、定先に打込んでいた高部や鈴木と互先で打つことを拒んで拒絶されるなど、その活動は思うように進まなかったという。
 寛治の尽力もあり裨聖会は設立されたが、大正12年(1923)9月に関東大震災が発生し各派とも打撃を受けたことにより、再び碁界合同の話し合いが行われ、大正13年(1924)7月、三派に関西、中京の棋士も加えて日本棋院が設立、裨聖会は解散している。
 

芳川顕正

 

 明治期から日本棋院が設立される大正末期にかけて日本囲碁界の一翼を担った「方円社」は、明治12年(1879)4月に発足しているが、設立時に賛成者として名を連ねた人物の一人に文部大臣や枢密院副議長を歴任した伯爵・芳川顕正がいる。
 芳川顕正は、天保12年(1842)に阿波国麻植郡山川町(徳島県吉野川市)の医師の原田家で生まれる。
 幼名は原田賢吉。医学を学び、21歳の時に徳島市の医師・高橋家の養子となり高橋賢吉と名乗る。
 文久2年(1862)より長崎へ遊学し、医学・英学を学ぶ中で伊藤博文と知り合う。留学経験のある伊藤は英語を話せたが書くことが苦手であったといい賢吉が教えていたという。
 明治元年(1868)に芳川と改姓、明治3年(1870)に大蔵省へ出仕し。翌年にかけて伊藤博文と渡米し貨幣・金融制度の調査を行った後、紙幣頭・工部大書記官・外務少輔などを歴任、明治15年(1882)には東京府知事へ就任している。
 明治23年(1890)、第1次山縣内閣において文部大臣に就任すると教育勅語の制定および発布に尽力。その後も司法相、内相、逓信相を歴任していく。
 明治29年(1896)に子爵へ叙爵されると明治33年(1900)より貴族院議員を務め、明治31年(1898)には伯爵へ叙爵。大正元年(1912)には枢密院副議長に就任する。
 

芳川家の墓所(青山霊園 1種イ21号9側)

 

芳川顕正の墓

 

 芳川は囲碁界と関わり深い人物であったが、それよりも将棋の愛好家として知られていて、家元以外で初となる十二世名人・小野五平の有力な後援者でもあった。

 

 芳川顕正は、四女の鎌子の夫で曾禰荒助子爵の次男である寛治を後継者としているが、放蕩癖のあった寛治は妾宅に入り浸り、思い悩んだ妻の鎌子がお抱え運転手と駆け落ちして千葉駅近くで列車に飛び込み自殺を図るという事件が発生、幸い二人は一命をとりとめたが、後に運転手は一人で自殺している。この事件は「千葉心中」として世間を騒がす大スキャンダルとなり、芳川顕正は大正6年(1917)に騒動の責任をとって枢密院副議長を辞任。大正9年(1920)に腎臓炎のため79歳でなくなっている。
 なお、事件を起こした鎌子は勘当となるが、その原因となった寛治は芳川家が世間体を気にしたためそのまま伯爵を継いでいる。しかし、騒動の影響で政治家としての道は断たれ実業家として活躍していく。芳川寛治は顕正以上に囲碁界と関わっていくが、それについては次回紹介していく。