囲碁史人名録

囲碁史人名録

棋士や愛好家など、囲碁の歴史に関わる人物を紹介します。

 かつて、日本棋院は内閣総理大臣へ名誉段位を贈っていた。

 囲碁愛好家であった第70代内閣総理大臣・鈴木善幸には名誉七段が贈られている。

 

 

前半生と議員活動
 鈴木善幸は、明治44年(1911)に岩手県の水産業を営む網元の家に生まれる。昭和8年(1933)に発生した昭和三陸地震で被災したのをきっかけに政治家を志し、大日本水産会会長秘書、中央水産業会企画部次長等を経て、昭和22年(1947)の衆議院議員総選挙で日本社会党から出馬して初当選する。後に社会革新党へ移るが、少数政党での活動に限界を感じ、周囲の奨めで吉田茂率いる民主自由党に移籍した。自由党と民主党の合併により自由民主党が結党されると、池田勇人の宏池会に所属し、側近として頭角を現していった。
 昭和35年(1960)の第1次池田内閣で郵政大臣として初入閣。以降、内閣官房長官、厚生大臣、農林大臣を歴任したほか、党総務会長を10期務め、裏方としても力を発揮。昭和53年(1978)の総裁選では、大平派を指揮し、田中派の全面支援をとりつけるなど勝利に貢献している。大平内閣では党総務会長として中国の最高指導者であった鄧小平と会談し、尖閣諸島の領有権問題棚上げや、日本からの政府借款受け入れなど、政府の懸案事項解決を支援した。
 

鈴木政権

 昭和55年(1980)5月、社会党が提出した大平内閣不信任案が、自民党反主流派の欠席により可決され、史上初の衆参同日選挙(ハプニング解散)が行われた。その選挙中に大平首相が亡くなったことで、同情票を集めた自民党は圧勝している。しかし、選挙後の後継総裁選びは、最大派閥の田中派がロッキード事件を抱え、不信任に協力した福田派・三木派からも擁立が困難な状態であり、有力候補の中曽根康弘も、田中角栄の支持を得られず、人選は難航していた。そこで、大平が率いていた宏池会からの選出が検討されたが、会長候補の宮澤喜一は田中との関係があまり良くなかったことから、田中角栄と近く、大平政権を支えてきた鈴木が総理総裁に選ばれた。鈴木は最後の明治生まれの総理で、社会党出身者としては二人目の総理でもあった。なお、鈴木の総理総裁誕生は、選挙ではなく、副総裁の西村英一の指名で決定したことから、「西村裁定」と呼ばれている。また、裏方経験が長かったことから、総理就任時に海外での知名度はほとんどなく、アメリカのメディアから「ゼンコ― フー?」と言われたとも伝えられている。

 激しい党内抗争を経て誕生した鈴木内閣は、「和の政治」を掲げ、党内融和と結束を重要視した。内閣のポストでは、目玉政策である行革を担当する行政管理庁長官に、次の総理を目指す中曽根を充てる一方、河本敏夫・中川一郎ら反主流派も、それに見合うポストで処遇し、絶妙のバランス感覚で党を運営していった。
 政策は、大平政治を継承し、「政治倫理の確立と行政綱紀の粛正」「財政の再建」「行政改革の断行」などを重点政策に掲げている。
 鈴木内閣は様々な制度改革に取り組み、金権選挙が指摘された参議院の全国区選挙では、比例代表制を導入している。財政問題では、赤字国債脱却を、増税ではなく無駄な支出の削減で達成する「増税なき再建」を掲げたが、なかなか成果を挙げることが出来なかった。
 一方、外交や安全保障面では、鈴木自身が今まであまり関わってこなかったことから、諸問題に直面することとなった。当時は、ソ連のアフガニスタン侵攻などで東西の緊張関係が高まっていた新冷戦時代であり、日本もシーレーン(海上交通路)の防衛力強化などを求められていた。社会党出身の鈴木は、本来ハト派で、軍事より対話を重視していたが、昭和56年(1981)に、アメリカのレーガン大統領と会談した際に、共同声明に『同盟関係』という文言を掲載されたことから、軍事的関係強化の密約を疑う野党やマスコミから追及されることとなった。さらに、アメリカが防衛力強化への圧力を強める中で、園田外相が、先の共同声明は条約などと違い拘束力は無いと発言したことで、両国の関係が悪化していった。
 また、昭和57年(1982)には、大手マスコミ各社が、文部省が教科書検定において、高等学校の日本史教科書の記述を、中国に“侵略”から“進出”へと改めさせたと報じた、「第一次教科書問題」が発生し、中国や韓国が反発していた。政府は、これを否定したが、検定は近隣諸国に配慮するという「近隣諸国条項」を定めるなど対応に追われ、首相の外交経験不足が露呈する結果となった。

名誉七段
 昭和56年2月24日、鈴木首相は首相官邸において、日本棋院の田実渉総裁と坂田栄男理事長から名誉七段位の免許状を贈られている。前任の大平首相は名誉五段であったが、鈴木首相は池田内閣時代に、実力五段位の国会議員を二人破り、無段から、いきなり五段をもらっているため七段となったのだろう。ちなみに、福田赳夫元首相も名誉七段を贈られているが、こちらはかなり上げ底であったといわれている。

 田実総裁から免状を受け取った鈴木首相は「剣道五段とか、いろいろな免状をもらったが、碁の免状ほどすばらしいものはない」と、大変喜んでいたといわれる。田実総裁は、「今後はめったにお打ちにならないようにしてください。他人に段位を聞かれたら国家の秘密と答えてください」とくぎを刺し、首相は、「いやあ、これは天元の一着だね。まいった、まいった」と言って、取材の記者団を笑わせている。

総理退陣と晩年
 鈴木内閣は、対米関係の悪化や赤字国債脱却が思うように進まない問題はあったが、巧みな党内運営で、昭和57年(1982)の総裁選で再選さえすれば長期政権も視野に入っていた。しかし、鈴木首相は、昭和57年(1982)10月に突然総裁選不出馬を表明している。直前まで、まったくそのような動きはなく周囲を驚かせたという。退陣会見では、理由を、党内融和優先のため、人身を一新して挙党体制を作りたいと語っているが、その背景について明確に語ることはなかった。

 退陣表明前には中曽根に後継を打診していて、政権交代はスムーズに行われていき、鈴木が手掛けた行革は、国鉄の民営化など、中曽根内閣で実を結んでいくこととなった。
 その後、中曽根首相は、田中派との関係を強め、しばしば鈴木内閣時代の外交を批判するようになっていく。中曽根と距離を取るようになった鈴木は、昭和61年(1986)に宏池会会長職を宮澤喜一に譲り、平成2年(1990)に政界を引退。平成16年(2004)に93歳で亡くなっている。

 

 

大平正房

 

 現在は行われていないが、以前、日本棋院では新しい内閣総理大臣が誕生すると、名誉段位を贈っていたという。
 第68・69代内閣総理大臣・大平正芳も、首相就任時に名誉五段を贈られている。
 大平首相は、明治43年(1910)、香川県に生まれる。経済的理由から大学進学を諦め、会社勤務となるが、再び大学進学を決意し奨学金で東京商科大学(現一橋大学)へ入学する。

 大学卒業後の昭和11年(1936)に大蔵省へ入省している。当初、本人は特に官僚になるつもりはなかったそうだが、同郷の大蔵次官・津島壽一に挨拶に行った際に、「ここで採用してやる」と言われ、異例であるが即決で採用が決まったという。ちなみに、津島壽一は昭和24年(1949)から二年間、日本棋院の理事長を務め、昭和30年(1955)から亡くなる昭和42年(1967)まで総裁を務めるなど、戦後復興期の囲碁界を牽引してきた人物でもある。
 大平は、大蔵省では主に税務畑を中心に活躍している。上司には後に首相となる池田勇人がいた。なお、昭和20年(1945)には、大蔵大臣へ就任した津島の秘書官を務め、昭和24年(1949)にも大蔵大臣となった池田勇人の秘書官を務めている。
 昭和27年(1952)、池田の誘いで大蔵省を退官し、自由党公認で衆議院議員総選挙に立候補して当選した。以降、池田の側近として宏池会(池田派)発足にも参加し、池田内閣では内閣官房長官、外務大臣に就任、続く佐藤内閣以降も、通商産業大臣、外務大臣、大蔵大臣など主要ポストを歴任した。特に田中内閣では、外務大臣として、日中国交正常化へ尽力している。
 昭和46年(1971)、宏池会会長へ就任した大平は、有力な首相候補の一人として存在感を増し、以降、日本の政治は自民党各派閥の領袖「三角大福中」(三木、田中角栄、大平、福田、中曽根)を中心に動いていくことになる。
 昭和49年(1974)に田中首相が金脈問題で辞任すると、蔵相で田中角栄と盟友関係にあった大平は、田中派の支援をとりつけ次期首相の最有力候補となったが、副総裁の椎名が公選を行うことなく三木武夫を総理総裁に指名した「椎名裁定」により、総理総裁の座を逃している。

 しかし、三木首相は、昭和51年(1976)に「ロッキード事件」徹底追及に反発する議員による「三木おろし」の影響で総選挙で大敗し、責任をとって退陣する。この時、福田赳夫は、2年後に政権を禅譲する約束(大福密約)で大平の支持をとりつけ総理総裁となった。大平は福田内閣で幹事長に就任し、野党に「部分連合(パーシャル連合)」を呼びかけ難局を乗り切りきっていく。

 しかし、福田首相は昭和53年(1978)の自民党総裁選挙で、約束を反故にして再出馬を表明し、大平と対決している。総裁選は当初、現職の福田首相が有利と思われていたが、大平は田中派の全面支援をとりつけ勝利し、念願の自民党総裁となり、12月7日に第68代内閣総理大臣へ就任した。
 総理に就任してから19日後の12月26日、日本棋院は慣例に従い、大平総理に名誉五段を贈呈している。当初、大平は「碁は打たないから」と辞退していたが、記者等の説得により「記者団のご賛同が得られるなら」といって受け取ったという。本人が囲碁は打たないと言っているとおり、これ以外に大平総理の囲碁に関する逸話は確認できなかった。
 大平は演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きすることが多く「アーウー宰相」とも呼ばれていた。「あーうー」はテレビなどでモノマネされることも多く、流行語にもなっていた。しかし、大平はその話し方とは裏腹に、頭の回転が早く、ユーモアのセンスも抜群な知性派の政治家であった。

 首相在任中には、ソ連のアフガニスタン侵攻による「モスクワオリンピック出場ボイコット」、中国への政府借款の供与や「日中文化交流協定」の調印など、外交問題で成果をあげている。一方で、財政問題では赤字国債発行や財政再建への対処のために「一般消費税」導入を検討したが、与野党や世論の猛反対を受けて、断念に追い込まれることとなった。
 当時、自民党は「三木おろし」以降、議席が回復しておらず、派閥間の対立も治まっていなかったため、昭和54年(1979)の衆議院総選挙では過半数割れに追い込まれていた。その結果、党内反主流派による、後に「四十日抗争」と呼ばれる退陣要求が始まり、事実上分裂状態となっていた。総選挙後の首班指名選挙で勝利し、第二次大平内閣が発足したが、指名選挙は、反主流派が福田前首相に投票し、大平首相と福田前首相の自民党同士で決選投票が行われるという異例の展開であったため、党内の亀裂はますます深まっていった。
 第二次内閣発足後、党内抗争は一旦収束したかに見えたが、翌年の昭和55年(1980)5月16日に、社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派は採決を欠席して不信任が可決された。決議案を提出した野党自身も可決されるとは思っておらず、「ハプニング解散」と称される解散総選挙が行われることとなった。
 大平は、この難局を史上初の衆参同日選挙で乗り切ろうとした。投票日は6月22日と決まる。しかし、大平は公示日の5月30日に体調不良を訴え緊急入院。この時、反主流派は、投票日当日から始まる「ヴェネツィアサミット」を大平が欠席する事を理由に退陣を要求し、大平を激怒させた。大平は一時、病状回復の兆しを見せていたものの、6月12日に急変し、心筋梗塞による心不全で70歳の生涯を閉じている。


大平正房の墓(多磨霊園 9-1-1-15)

 

墓碑

 

 現職首相の急死という非常事態により、選挙情勢は一変している。当初、野党転落の恐れもあった自民党は、「弔い選挙」のために主流派と反主流派が挙党態勢をとり、有権者も多く同情票を投じたため、衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得る結果となった。選挙結果は世界でも注目され、「ヴェネツィアサミット」は、冒頭、大平を偲ぶ黙とうでスタートし、途中、自民党の大勝が伝えられると、会議に出席していた竹下登大蔵大臣等の再選が祝福されるなど、異例の内容であった。大平首相は、結果として命を賭して自民党を救う事となったのだ。
 大平は現在、多磨霊園に眠っている。

 

 元文四年(1739)に七世本因坊秀伯の七段昇段に林門入と井上春哲因碩が異を唱え、秀伯と因碩の間で勝負碁が行われた。
 当時の寺社奉行は、牧野越中守貞通(延岡潘)、大岡越前守忠相(旗本)、山名因幡守豊就(交代寄合旗本)、本多紀伊守正珍(駿河田中藩)の四人。この問題は月番の牧野越中守が担当しているが、山名因幡守豊就(とよなり)も、色々な面で勝負碁に関わっていたという。
 

山名因幡守の概要
 山名氏は、「応仁の乱」の西軍総大将・山名宗全の後裔である山名豊国を祖とする交代寄合旗本であり、村岡陣屋(兵庫県美方郡香美町)を藩庁とし、但馬国七美郡(6700石)を領していた。交代寄合旗本とは、知行一万石未満ながら、参勤交代を行い、大名と同等の待遇を受けていた旗本のことである。
 初代の豊国は豊臣秀吉に御伽衆として仕えていたが、秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでの活躍により但馬国七美郡に領地を与えられた。新田源氏の庶流である山名氏は、室町時代前期に一族で日本全国の六分の一の国を領し、「六分の一衆」と称されていた有力守護大名であった。戦乱の世で没落したとはいえ、豊国は名門の出らしく、教養に富んだ文化人としての顔も持っていたといい、幕府成立前に家康が京都で主宰していた碁会にも頻繁に参加している。そうした文化人としての顔は家風として子孫に引き継がれていったのか、山名氏の名は、たびたび囲碁史において見ることができる。
 五代目当主の山名豊就は、貞享三年(1686)に分家の山名義豊(初代豊国の孫)の三男として生まれる。
 山名宗家は、四代目として福島正則の曾孫にあたる山名隆豊を養子として迎えたが、子が生まれなかったので、元禄十四年(1701)に豊就が養子に入った。
 宝永元年(1704)、養父の隠居にともない家督を相続した豊就は、大番頭を経て、元文四年(1739)に寺社奉行に就任している。
 寺社奉行は本来、譜代大名が任命される役職であったが、山名因幡守は大名と同待遇の交代寄合旗本であるため抜擢されたのであろう。ちなみに、同僚の大岡忠相は旗本から異例の抜擢であったため、ポストを奪われた大名達から大名しか立ち入ることの出来ない区域にあった寺社奉行の控えの間への立ち入りを数年間にわたり拒否されるなど嫌がらせを受けている。

 次に秀伯と因碩の勝負碁における、山名因幡守の関わりを紹介する。

勝負碁の開始
 元文四年五月に、本因坊秀伯の上手(七段)への昇段をめぐり、反対する林門入・井上因碩と秀伯の間で対立が生じ、秀伯は月番奉行の牧野越中守へ勝負碁の願い書を提出した。
 九月に入り、牧野越中守は役人に命じ、林門入と井上因碩から聞き取りを行ったが、もともと牧野家は本因坊家と懇意にしていたため、二人がいくら自分たちの考えを主張しても、なかなか理解を得ることができなかったという。
 特に秀伯の「本来段位は碁所が決めるものであり、碁所不在時に話し合いで決められた林門入の準名人(八段)と因碩の上手(七段)には正当性がなく、勝負碁の手合いは自分が六段であっても互先で行うべきだ」という主張は、両者にとって屈辱的で到底納得できるものでは無かった。
 このままでは秀伯の言い分が通ってしまうのではないかと不安を募らせた門入らは、その対策として、普段からつながりのあった他の寺社奉行に事情を説明して廻ることとした。問題の担当は牧野越中守であるが、寺社奉行は月3回(六・十八・二十七日)、全員が集まり寄合(相談)を行っていたため、そこで助言してもらおうと考えたのだ。
 門入が頼ったのは、大岡越前守と山名因幡守である。大岡は元文二年(1737)に、将棋の伊藤宗看名人が囲碁が将棋より上と定められた慣例を改めるよう訴えた「碁将棋名順訴訟事件」を裁き、従来の囲碁優位の慣例を堅持する裁定を下している事から、門入は、この時につながりができたのであろう。そして、山名因幡守は、この年の3月に寺社奉行に就任したばかりであったが、もともと囲碁がかなり打てたといわれ、以前から家元らと親交があったと考えられる。手合いや、囲碁界の事情にも詳しく、因幡守は早速、牧野越中守を訪ね、色々とアドバイスを行ったといわれている。
 十月十八日、家元達(門入は病気のため欠席)は、四人の寺社奉行列座の中で、越中守より勝負碁(二十番碁)の実施を言い渡されたが、門入の働きかけが功を奏したのか、手合は秀伯が主張した「互先」ではなく、本因坊の「先々先」で行う事となった。
 なお、門入はこの後、病気を理由に対局を辞退したため、勝負碁は因碩のみが行うこととなった。

対局会場の提供
 勝負碁は月番寺社奉行宅にて行われている。なお、第一局は一般的に元文四年十一月十七日に御城碁で打たれたとされているが、実際には十月二十七日に本多紀伊守宅で始まっている。この日は打掛となったが、思いのほか時間がかかり、これを御城碁の下打ちとすることとして、十一月八日に山名因幡守宅で打ち継がれた。御城碁では、その内容が披露されている。
 山名邸では、この後も、第二局、第六局が打たれている。

御暇拝領期間の対局
 この勝負碁では、第三局を前にしてひと悶着起こっている。
 囲碁家元は、例年十二月から三月までの間、「御暇拝領」と呼ばれる長期休暇に入る。従来、御暇拝領の間は勝負碁も行われていなかったことから、門入は、今回も勝負碁を来年4月まで休止するよう、因碩と連名で口上書を越中守に提出した。この時、門入は因幡守ら他の奉行にも説明を行い賛同を得ていた。しかし、寺社奉行の会議では、因幡守らが勝負碁を休止するよう主張したものの、担当である牧野越中守が、御暇中とはいえ皆在府中なので、このまま勝負碁を打たせたいと強く主張したため、結局、他の奉行も了承せざるを得なかったという。越中守には遅れ気味の日程を何とかしたいという思いがあったのか、対局を急ぐ秀伯の根回しがあったのか分からないが、三月に第三局が行われることが決定した。

勝負碁中止をめぐる動き
 十二月に行われた第四局は「本因坊俄に不快(病)にて引籠り候故相済み申さず」との記録があり、途中で秀伯が病を発し打掛となったことが分っている。対局は翌元文五年正月に打ち継がれたが、秀伯の病は結核と考えられ、これ以降、勝負碁は秀伯の体調を見ながら行われることとなった。三月に行われた第六局は秀伯の黒番で持碁で終わり、これまでの成績は秀伯の三勝二敗一持碁となったが、秀伯が優位な黒番でジゴという結果は、因碩の実力を別にしても、体力の衰えがかなり影響していたと思われた。
 そうした中、四月に入ると将棋家元の伊藤宗看名人が両者の仲介に乗り出している。囲碁及び将棋方は、揉め事が起きたときに相互が仲介するという慣例に基づくもので、秀伯の病状のこともあり、ある程度対局が行われたこの時期を頃合と見たのかもしれない。宗看は牧野越中守のもとを訪ね、和談の申し出について相談し、秀伯、因碩との面談により秀伯の昇段について双方が合意に達した旨の口上書を作成して提出した。
 これで問題が解決するかに思われたが、牧野越中守がこの口上書を寺社奉行の会議に提出したところ、因幡守ら他の奉行達から厳しい批判を浴びることとなった。
 口上書は、「秀伯の昇段申入れに対し相応の対局を行い棋力を確かめようと始まった勝負碁が六番まで終了し、昇段について双方合意に達したので認めてほしい」という内容であったが、奉行達は、幕府の命で勝負碁を行いながら、終了の理由が「相応の勝負碁を打った」では筋が通らず、「本因坊の碁の出来が良いから昇段させる」という内容でなければならないという指摘であった。また、独断で内意を与えた牧野越中守の対応の甘さも糾弾されたという。
 しかし、それでは因碩が勝負碁に敗れて昇段を認めたことになるため、因碩の反発により、なかなか話はまとまらなかったという。

勝負碁の終了と秀伯の死
 勝負碁終了についての結論が出ないまま、四月十八日に第七局が開始されたが、秀伯が体調を崩して打掛となった。越中守にしてみれば、もう一、二局打っている内になんとかしようと考えていたのかもしれないが、病身の秀伯のことを考えず、中止の英断ができなかったことを林門入は批難している。
 五月六日に打ち継がれた対局は、白番秀伯の二目勝ちとなり、大いに満足した秀伯は、翌日に門入宅を訪れ、気持ちの有り様を述べてわだかまりを解いたと伝えられている。なお、門入はこのときの因碩の碁は全体的に不出来であったことから、因碩の気遣いであったのだろうと推察している。
 五月十八日から二日間で行われた第八局は、白番因碩の三目勝ちとなるが、五月二十七日に秀伯は吐血し、もはや対局が困難な状態となっている。
 秀伯の添願人であった安井仙角は、秀伯が倒れて、なお床の中で勝負碁のことを考えている様子を見て、昇段の件は別にしても、せめて勝負碁は終了させようと、和解に向けて門入、因碩と協議を開始した。門入と因碩も大いに同情し、和解の願書が牧野越中守に提出され認められている。この時、恐らく因幡守ら他の寺社奉行との協議が行われたと思われるが、特に異論が出たという記録もない。
 秀伯は、元文六年二月四日(同月二十七日に寛保へ改元)に、各家元を枕辺に招き、門下の小崎伯元を後継者にすることを託し、十一日に逝去している。享年二十六歳。

山名因幡守の晩年
 秀伯と因碩の勝負碁を見守って来た山名因幡守は、領内では発生した一揆で百姓の要求を多く聞き入れ解決するなど手腕を発揮する一方、寺社奉行についても亡くなるまでその任にあたっている。山名因幡守豊就は、秀伯が亡くなってから六年後の、延享四年(1747)に六十二歳で亡くなっている。墓所は兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の壺渓御廟にある。

 

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