お父さんのこと | 日本一美しくやせる走り方トレーナー/徳重佑梨 公式ブログ

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久しぶりに完全プライベートな内容です。

自分の心を整理するためにも書かせてください。

 

2024年1月10日

父が生涯の幕を閉じました。

享年62歳でした。

 

 

年末も車を綺麗に拭いていた姿を縁側から見ていたし

 

元旦も例年通り「今年もよろしくお願いします」と

家族で新年の挨拶をしていたし

 

年始早々、ご近所さんとカフェに行ったり

うれしそうにランチに出かけて食べ過ぎたと言っていたし

 

 

あれ、つい最近まで元気やったよね?

と近くでその姿を見ていたのに

びっくりするくらい早く旅立ってしまいました。

 

とは言っても

3年半ほど前に「肺がんのステージ4」と診断は受けていて

そこから闘病生活を送っていました。

 

なのでその診断を聞いた時から

もう長くないかもと覚悟はできていたので

頻繁に実家の大阪に帰っていました。

 

 

でも、お父さんはそんな残酷な診断を聞いても

前向きに病気とは向き合っていて

 

タバコは吸わなくなったし(肺が痛くて吸えなくなったが正しい)

お酒はほぼ飲まなくなったし(これも具合が悪くなるから半ば強制的)

果物を食べるようになったり

野菜たっぷりスープを飲むようになったり

元気な日は散歩に出かけるようになったし

 

痛い注射や抗がん剤治療や肺の痛みにも耐えて

生きることに希望をもって

本当によく頑張っていました。

普通なら気持ちが折れると思うけど、全く折れてなかった。

(むしろ鈍感なのかと思わせるくらいに)

 

でも、めちゃくちゃマメに動くタイプだったのに

どんどん体力がなくなっていって

仕事ができなくなった時は

 

「働けるなら働きたいよ」

 

と、愚痴までもいかない本音を

ポロッとこぼす時もありました。

 

大変とは言いながらも仕事が好きだったし

本当はもっと働きたかったよね。悔しかったよな。

(働けなくなっても会社には何度か顔を出しに行ってたらしい)

 

/

 

亡くなる当日

私と兄が年末年始の休みを終えて東京に帰ってから数日後に入院して

その病院でお母さんと他愛もない話をしていたらしく

 

いつもならお母さんに「もうバスの時間やからはよ帰り」と促すのに

その日だけは話が止まらなかったみたいで

逆にお母さんから帰ると言うくらいだったらしい。

 

その後も夕方まではお母さんとLINEしていたのに

夜9時ごろになってお手洗いに行って帰ってきてから

突然大量吐血して、もう蘇生できる状態じゃなかったらしい。

 

死亡診断書には、亡くなるまでの時間「数分」と書かれていた。

数分って、、

一瞬はすごく痛くて辛かったやろうけど

長く苦しまなくて良かったとも思う。

 

でも、数分で亡くなってしまったから

お母さんが着いたころには既に息を引き取ってしまっていた。

最後にひと言でも交わしたかったよな。

 

私はその連絡をお母さんから電話で受けて

夜中に泣きながら荷物をまとめて

翌朝に大阪に帰ってきました。

 

家の前で立ち止まってしまったのは

きっと入ってしまうと現実を受け入れざるを得ないからで

こんな何とも言えない気持ちで家に入るのは初めてでした。

 

とにかくお父さんの顔を見るまで時間を稼ごうと

荷物を置きに行ったり

手を洗ったり

ゆっくりコートを脱いだりして

 

でも、途中で我慢できなくて

「顔見られへん」としばらくキッチンで泣きグズっていました。

 

ようやく向き合おうと対面したお父さんには

白い布が顔に被されていて

しばらくその布が取れずに正座で硬直していました。

 

取ったらもう、実は嘘でしたなんて冗談じゃなくなる。

取らずに逃げようかと思ったけど

思いきって取ってみたら

そこには綺麗な顔のお父さんがいました。

 

 

あれ、、こんな綺麗な顔してるんや

 

 

と思ってしまうくらい

シワもなく、お肌に艶があって、まつ毛が揃っていて

本当にただ眠っているだけに見える姿がありました。

その姿を見て、辛いというよりむしろ落ち着いて

現実と向き合うことができました。

 

 

そこからは

お通夜・お葬式と

あっという間に終わってしまったけど

 

想像以上に穏やかに見送ることができて

お母さん、お兄ちゃんとも

ゆっくりお父さんの思い出話ができました。

 

今は3人一緒にいるから大丈夫だけど

私たち兄妹が東京に帰ってから

お母さんが寂しくならないかとても心配です。

 

でも、これからは3人でお父さんの好きな温泉に入りに

旅行に行こうなんて楽しい話もできました。

 

 

私が愛用している帽子もお揃いにしたけど

大事にしてくれていたのかほとんど被っていなかった。

(プレゼントはいつも大切に保管するタイプです)

 

 

お父さんが長く愛用していた万年筆は

形見としてもらいました。

 

/

 

シャイで直接会話するというより

いつもお母さんと私の話を聞いているようなタイプだったけど

愛情はものすごく伝わってきました。

 

小さい頃はずっとお父さんにベタベタで

あぐらをかいてるお父さんにすっぽりおさまって

一緒にレコードを聴くのが好きでした。

 

高校の時、陸上競技に全力で打ち込んでいて

記録におもいっきり伸び悩んだ時に

「7割で頑張ったらいいねん!」

というお父さんの言葉に救われました。

それは今でも教訓にしています。

 

私が大学から実業団まで全国駅伝に出場していた時

毎年、大阪から仙台までものすごく長い距離を

夜中に車を走らせてお母さんと応援に来てくれました。

その他の大会も予定が合う限り全て来てくれていました。

 

車に乗るのが大好きで、これからも応援に行くからと

長い距離を走れる車にふんぱつして買い替えてくれたのに

その後すぐに陸上を引退してしまってごめんね。

 

私が起業したいと言った時に

「わざわざそんな苦労せんでいいやん、甘くないで。」

と電話で言われて、会社帰り夜中に駅のホームで

大泣きしながら言い合いになったこともありました。

すごく心配してくれてたのよね。わかってたよ。

 

1年前のお正月は、海に新年初走りに出かけて

ライブ配信していたら、視界の端にお父さんがいて

「迎えに来たで〜」と言いながら車に乗せてくれて

帰りに2人でカフェに寄って帰りました。

(帰りも走りたかったんですけど 笑)

 

昨年の大晦日は、起きて来れない程しんどい日だったらしく

ほとんど食事もとっていなかったけど、お母さんに

「子供たちに年越しそば食べさせたって」と言ってくれていました。

 

亡くなる1週間ほど前

お風呂上がりのお父さんのスキンヘッドをピカピカにしようと

ホホバオイルを頭全体に塗ってあげて

「頭柔らかくて気持ち良いな〜」とか言いながら

ふたりでキャッキャしていました。

 

 

まだまだ思い出はたくさんあるので

その数えきれない思い出のカケラを

ひとつずつ拾い集めながら

 

奇跡としか言いようのない確率で

家族になれた最も大切な

「お父さん」という存在を

感じて過ごしていこうと思います。